がんなどの病気に罹った腎臓から病変部位を取り除いたうえで、腎機能が働かず人工透析を余儀なくされた患者に移植する「修復腎移植」(レストア腎移植)。かつて禁忌とされたが、近年は合理的な選択肢として、世界的に普及が進みつつある。この修復腎移植の先駆者が、宇和島徳洲会病院泌尿器科の万波誠医師を中心とする、「瀬戸内グループ」と呼ばれる移植医たちだった。
しかし、2006年に発覚した臓器売買事件をきっかけに、万波医師ら手掛けてきた修復腎移植はスキャンダルとしてマスコミに取り上げられ、医療行為として事実上の禁止にまで追いつめられることになった。だが、ドナー登録した遺体からの献腎移植のチャンスなど滅多にない日本の透析患者たちにとって、修復腎移植は現実的な選択肢であるはずだ。
修復腎移植のパイオニアである万波医師は、なぜ「マッド・サイエンティスト」と貶められ、悪者扱いされたのか。「病気に罹った臓器を移植に用いるなどもってのほか」というかつての思い込みを排すれば、現実的な医療手段のひとつとして受け入れられて然るべき修復腎移植は、なぜ、世の中から「非倫理的な医療」というレッテルを貼られ、排除されつつあるのか。
万波医師に対する一方的なバッシングに違和感を覚え、この問題について独自に取材を重ねてきたのがノンフィクションライターの高橋幸春氏だ。小誌『医薬経済』(14年4月1日号〜6月15日号)でも短期集中連載を手掛けた高橋氏がこのほど、『誰が修復腎移植をつぶすのか 日本移植学会の深い闇』(東洋経済新報社)を上梓した。
腎臓の説明をするときだけは、懇切丁寧だった
——そもそも、この「修復腎移植」について取材しようと思い立ったきっかけは何だったのですか?
高橋 別の取材で知り合った知人を通じて、万波(誠)医師のことを知ったからです。その知人が言うには「万波誠は(マスコミに)あんな風に書かれているけど、本当はそんな男ではないよ。患者のことを思ってやっているのは間違いないけど、あの人は世間との対話の仕方を知らないんだ」と。臓器売買事件に続いて、当時は「病腎移植」と呼ばれていた修復腎移植はバッシングの最中にありました。
私だって、(初めて修復腎移植の報道に接したときは)危なっかしいことをする人がいるなぁと思いましたよ。万波医師に会いに行くまでは、半信半疑だったんです。そのときは修復腎移植のことはよく知りませんでしたが、単純に、日本人の3人に1人ががんで死んでいくという時代に、がんの臓器を移植するなんて、と思うじゃないですか。
私は万波医師に取材をしたいと手紙を書いて伝えました。(読む前に捨てられてしまわないように)一番大きな、レントゲン写真が入るような封筒に便箋を入れて。取材に行って実際に会ってみると、確かにつっけんどんな人です。「好きに書いてくれ」「何を書かれてもいいから」と言われました。
随分粘って、すったもんだの末にようやく、泌尿器科の彼の部屋に通してくれて、「何が聞きたいんだ」という話になりました。私は「まず、病腎移植とは何なのか説明してほしい」と頼みました。そうしたら面倒くさそうに、広告紙の裏側に、腎臓のイラストを描いて説明してくれたんです。
ところが、とてもわかりやすかったんですよ、その説明が。腎臓の話をしているときは、話し方も懇切丁寧になるんです。こんなに口下手な人が、こんなにうまくしゃべることができるのは、患者に何度も説明しているからなんだろうと思ったわけです。患者から(病気の腎臓を移植に使うという)インフォームド・コンセントを取っていないという批判があったけど、単に書類として取っていないだけで、ちゃんと説明はしているのではないか、と。
それで、何人かの患者や関係者を取材したら、実際にがんの修復腎移植を受けた人が手術時の傷を見せながら、全部話してくれた。「万波さんは、ちゃんと俺たちには説明してくれたよ」と。患者とのコミュニケーションはとれていたんですよ。万波医師は三十数年間、市立宇和島病院に所属していて、その後(現所属の)宇和島徳洲会病院に移りました。それだけ同じ地元でやっていると、二代に渡って治療を受けている人もいて、患者との関係は濃厚で蓄積がある。
本当に大切なのは、医師と患者の間に信頼関係があったかどうかのはず。彼が修復腎移植を手掛けたのは主に1990年代のことですが、インフォームド・コンセントは2000年代以降に出てきた話です。書類が残っていないのは確かに手続き違反だったかもしれないけど、(修復腎移植に踏み切ったのは)一定程度のリスクを許容する患者と万波医師が話し合って、一歩駒を進めたということなんです。
でも、そうしたことがなかなか世間に伝わらないまま、(病気の腎臓を臓器移植に使っていたという)事実だけが世に出てしまった。その前段として、臓器売買事件があったことも非常に不幸なことでした。それに、万波医師は学会発表にはまったく関心のない人だった。その3つが、バッシングの大きな原因だったと思う。
——宇和島徳洲会病院での問題が明るみになった当時、修復腎移植に関する論文や学会発表はまだなかったのでしょうか。
高橋 丁度出てくる頃だったんです。同時期にオーストラリアの医師が、第99回全米泌尿器学会で発表している。2004年頃のことです。日本移植学会の幹部のひとりは、そのことは知らなかったと言っていたが、それは本人も認めていたように、勉強不足なんですよ。(当時の全米学会には)日本からも泌尿器科の医師が、100人とか200人参加していたということですし。
腎臓関連の医学教科書にも、「4センチ未満の小径腎がんの再発・転移の可能性は5%」だと出ているんです。このことを知っている泌尿器科の先生だったら、(腎臓を全摘して捨ててしまうのは)「もったいないな」と思ったのではないか。普通だったら部分切除で(がんだけ取れば)済むものを、「怖いから取って」という患者が圧倒的に多かったわけですからね。万波医師も最初、5%の確率だったらちゃんとがんを取れば移植に使えて、患者を救えるのではないかと考えて、修復腎移植に踏み込んでいるわけです。
日本で行われている献腎移植は、毎年200件くらいです。移植医療は、医師にとって魅力のない医療になってしまっているのではないか。移植で患者を助けたいと思っても、手腕を発揮する場所がないわけですよ。
一方で、(親族間などの)生体腎移植は、医師としてもいろいろなことを突きつけられる。やはり健康な体にメスを入れるというのは怖いし、良心的な医師であればあるほど、何のためにやるのかと突きつけられるわけですよ。拒絶反応があって、(移植臓器が)ダメになるリスクだってあるわけだし、手術台に挙がるドナーにも覚悟がいるのです。
一度決まった行政通知やマスコミの論調を覆すのは難しい
——修復腎移植は2007年以来、原則として禁止の状況が続いています。2008年には、修復腎移植を希望する透析患者らが原告になって、厚生労働省と移植学会幹部を相手取り、損害賠償請求訴訟を愛媛地裁で起こしましたが、一審は敗訴しました。
高橋 日本移植学会の妨害行為や厚生労働省の通知で、修復腎移植は(保険医療としては)潰されて、最後に残ったのが(保険が認められない)臨床研究という方法です。臨床研究は宇和島徳洲会病院が全部持ち出しでやっている。でも、これが国の「先進医療」になれば随分違ってくる。患者負担が少し増えるけど(一定の要件を満たせばほかの病院でも)できるんです。
いまや世界的に、修復腎移植はそんなに珍しい医療ではなくなってしまった。具体的な名前は出せませんが、日本国内でも修復腎移植をやりたいと言っている病院はあると聞いています。実際に論文を取り寄せて、調べてみればわかるわけですから。
厚労省が一度決めたことをひっくり返すのは容易ではない。でも、日本の医療費はどんどん増えていっているわけでしょう。透析患者は毎年1万人増えているわけだから、その医療費だって増えていく。厚労省内部でもそのうち、「なんで修復腎移植を潰したんだ」という話になると思うんですよ。
WHO(世界保健機関)だって、インフォームド・コンセントを取って、がんが4センチ未満だったら大丈夫だと言っている。(献腎移植の順番を待つレシピエントの)待機時間が3〜4年と日本より短い欧州でも、修復腎移植を始めているわけです。厚労省だって、こういう事実に気づいていると思うんですよね。
裁判については、やることに意義があると思っていました。賠償責任まで認められなくても、判決で「移植学会はきちんと(修復腎移植の妥当性などを)検証すべき」と付け加えてくれれば、実質勝訴と言えるのではないかと思いました。でも、地裁判決ではそれもなかった。
いまは高松高裁で控訴審に入ったところです。そこで、高原(史郎・日本移植学会現理事長)さんが自分の名前で発表した論文(※)について、どうやって5年生存率を算出したのか追及しているところです。高原さんが証人として呼ばれれば、さすがに自分は関係ないとは言えないでしょうから、責任は免れないと思います。だから、高松高裁がどこまで踏み込むかでしょうね。
(※)高原氏は2008年の日本移植学会誌『移植』(第43巻第5号)で、市立宇和島病院で行われた25例の修復腎移植について、「悪性疾患で腎摘された腎を移植された症例の5年生存率は48.5%と極めて低い」と指摘している。
もう、原告7人のうち4人が亡くなってしまっています。これが現実で、移植を受けた人たちは生きているけど、移植を受けられず、透析をやっていた人たちは、みな亡くなってしまったということなのです。
——高橋さんは、「麻野涼」名義で、この修復腎移植問題をテーマにした小説『死の臓器』(文芸社文庫、今年7月にWOWOWでテレビドラマ化)も発表しています。
高橋 一番最初、私は、万波医師と修復腎移植のことを、『週刊女性自身』で書いたんです。このときはがんの腎臓(を使うことの是非)ではなく、あくまで患者(の選択権は尊重されるべきだということ)について。それで私としては一応やることはやったと思っていました。
(医療の問題のなかでも)修復腎移植の勉強はとくに大変なんですよね。わからないことだらけで、ノンフィクションを書くのも辛い。そこで、小説として書くことにしたんです。もしかしたら、その方が世間に訴えかけやすいのではないかと。
それから、改めていろいろなデータを集め始めて、書き上げたのが『死の臓器』という作品です。そのときに集めた資料のひとつが、広島大学の難波絋二名誉教授のメールマガジンでした。難波名誉教授や(万波医師と協力して修復腎移植を手掛けていた)「瀬戸内グループ」の香川労災病院の西光雄医師(現・坂出 聖マルチン病院名誉院長)たちに取材をするようになったのはそれからです。
それで、修復腎移植を受けられなくなった患者たちが、大変な状況になっていることを知りました。ただ、『週刊女性自身』で書いて、小説も書きましたが、私自身は正直、この問題について、一体どれくらいの人がページを開いてくれるだろうかとも思いました。
その頃はまだ、世の中では「万波さん、まだ医者をやっているの?」という声の方が圧倒的に多かった。なんとかできないかと思っても、やはり、マスコミの論調を変えるのは簡単なことではない。本を書きたいと持ちかけても、どこへ行っても断られっぱなしです。ようやく出版することができたのが、『透析患者を救う!修復腎移植』(彩流社)という本です。
その後も、どうせやるなら当たって砕けろと思って、月刊誌『文藝春秋』でページをもらえないかとお願いしたところ、2013年8月号で万波誠の手記として書くことになった。編集部から移植学会に反論があるなら掲載するとオファーを出したけど、何も返って来なかった。
今度は、翌9月号で「瀬戸内グループ」による移植学会に対する公開質問状というかたちで2回目を出したんですけど、それでも反論はなかった。結局、移植学会は沈黙してしまったんです。いまだに沈黙を保っています。まだまだこの問題は、レポートを常に出していかなければいけないと思っています。
KIFMEC事件があぶり出す、移植学会の不健全さ
——今年4月、神戸国際フロンティアメディカルセンター(KIFMEC)が行っていた生体肝移植を受けた患者8人中4人が死亡(6月にさらに1人死亡)し、インフォームド・コンセントや実施体制に問題があったことが指摘されました。報道を見る限り、移植学会はKIFMECに対してほとんどペナルティーを科していません。修復腎移植を問題視したときに、宇和島徳洲会病院や万波医師を、あれだけ徹底して糾弾したことと比べると、違和感があります。
高橋 私にも本当によくわからないんですよ。学会独特の権威主義なんでしょうか。(KIFMEC理事長の)田中紘一医師は、生体肝移植の世界的な権威です。(田中氏自身が1999年に手掛けた)「ドミノ肝移植」は、家族性アミロイド・ポリニューロパチーという神経障害の難病に侵された患者の肝臓を使う移植でした。要するに、病気の肝臓を使った移植です。
修復腎移植が問題になった2006年当時、彼は移植学会の理事長でした。移植に病気の臓器を使うことについて、彼が一番ビビットに反応して然るべきだった。(修復腎移植を潰そうとした移植学会の対応に)ブレーキをかけて、ちゃんと調べるよう指示して然るべき立場だったのです。田中氏は今、かつて万波医師を斬った刃で、自分が斬られているのだと思いますよ。
今回の神戸の事件で田中氏は(記者会見で)「ちゃんと患者の同意を得てやっている」と言っています。でも、日本肝移植研究会が行った調査報告は、「インフォームド・コンセントに問題があった」と指摘している。だから、移植学会としてもきちんと調査すべきなんです、宇和島徳洲会病院のケースと同じように。でも、それをしようとしない。決して健全ではないですよ、いまの移植学会は。
【著者プロフィール】
ノンフィクションライター 高橋幸春(たかはし ゆきはる)
1975年に早稲田大学第一文学部を卒業後、ブラジルへ移住。邦字紙勤務を経て1978年に帰国し、以後フリーライターとして活動。1991年に『蒼氓の大地』(講談社)で第13回講談社ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『悔恨の島ミンダナオ』(講談社)、『絶望の移民史』(毎日新聞社)、『日系人の歴史を知ろう』(岩波書店)など。2003年、麻野涼のペンネームで上梓した『国籍不明(上・下)』(講談社)が第6回大藪春彦賞候補。2015年8月、『隠蔽病棟』(文芸社文庫)を発表した。