総選挙が終了した。事前に予想された通り、自公が3分の2以上をキープして、安倍1強の政権継続が決まった。民進党の分裂で野党の色分けがスッキリした面もあるが、小選挙区制のもと、強大な野党の誕生には、あと何回かの選挙を経る必要がありそうだ。保守2党制か保守・リベラルの対決か。相容れない2潮流のどちらかが主導権を握るまで、自公が漁夫の利を得続けるだろう。 


 週刊文春は小池、若狭、前原氏ら7人にスポットを当てたほか、立憲民進新人・青山雅幸氏の秘書へのセクハラ疑惑や、豊田真由子氏を破り当選した自民新人・保坂泰氏の女性トラブルを報じている。正直、この手の話はもうたくさんである。現代史は本当に重大な曲がり角を迎えている。にもかかわらず、雑誌ジャーナリズムは本質的・構造的問題に踏み込まない。堅苦しい記事は読まれない、という実情も理解できるのだが、残念だ。 


 週刊新潮もワイド特集的な作りで総選挙をまとめ、《希望が負けるべくして負けたのであって、安倍自民が勝つべくして勝ったとは言えまい》としているが、3ページを割いたメイン記事は『希望を惨敗させたたった1人の戦犯 これで「小池百合子」は終わったのか』。相変わらず小池劇場の話である。


 こうした中、サンデー毎日の保坂正康氏の連載は今週から『繰り返される戦前の動き 政党解消からファシズムへ 昭和15年と平成29年』というシリーズになった。《かつての日本のファシズムが、まったく同じ形を描いて現代に登場するわけはないのだが、その本質的な部分で類似性があるのではと私は考えたのである。その対象比較を行うことで、私たちの「今」を自省してみたいのだ》と保坂氏は言う。 


「いつか来た道」なるフレーズは過去数十年、手垢に塗れた表現として私自身、見向きもしなかったが、さすがに状況がここまで来ると、戦前との比較検討の必要を感じざるを得ない。保坂氏や半藤一利氏といった昭和史専門家の言葉に、今こそ耳を傾けるべきだろう。


 選挙戦最終日、JR秋葉原駅前での安倍首相の街頭演説風景は、まさにその危惧を抱かせるに十分なものだった。林立する日の丸、テレビ報道を恫喝する威圧的なプラカード群。集会参加者らは口汚く報道陣を罵倒した。それはまさに、欧米に見る極右政党の集会風景そのものであった。にもかかわらず、腰の引けたメディアはこうした映像や写真を使おうとせず、現政権に色濃い国家主義的体質に言及しなかった。保守vsリベラルというピンボケの言葉でしか、選挙の構図を語りはしなかった。 


 いよいよ改憲をめぐる論議が始まろうとしている。私は頑なな護憲論者ではないが、9条の縛りを緩めようとする以上、必ずやそれと抱き合わせで、先の大戦を徹底検証し、国家や軍の暴走を許さない精緻な歯止めを新設すべきだろう。歴史の美化・改竄に熱心な国家主義者たちに、果たしてその真摯さはあるのか。それともやはり、旧憲法のような歯止めのない状態に戻したいだけなのか。国家主義に抗う勢力は、この部分で現政権に“踏み絵”を迫る必要があると思う。 


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。