現在の日本人の死亡原因の1位はがん。すでに誰もが知っていることだが、その疾患の定義づけや、治療法などに関しては、1990年代から現在まで大きく変遷している。がん診療は、おそらくだが90年代頃までは手術が全盛だった。がんの部位を突き止め、腫瘍を切除する、簡単にいえばそういうことになるが、そのためがん患者の主治医は外科医であった。有名な小説「白い巨塔」でも、腫瘍患者の主治医は外科医で、その手術に疑問を持つのが内科医という構図で描かれていた。 


 しかし、がん初期診断技術の向上や、治療技術の進歩によって、この構図は外科医から内科医に移りつつある。腫瘍内科医という専門診療科目がスポットライトを浴び、がん治療施設に浸透したのは2000年代になってからだといえる。むろん、パイオニア的な専門内科医はその前からいたが、一般化したという意味である。


 さらにPETやMRIに代表される、高精度診断機器ががん発見と正確な原発部位の特定、治療効果の鑑別などに多用されると、従来からあった放射線治療の可動領域も増えた。放射線治療は、当然のことだが、これまでもがん治療の有力な手段のひとつであったが、2000年代初頭までは外科主導を打ち破ることはなかった。 


 最近では、腫瘍内科学の進歩で、前述したように治療計画の主導は内科医が受け持ち、外科医や放射線科医はその計画に沿って治療にあたるという構図が一般化しつつある状況が進行中だといえるのではないか。


 そのひとつの表れが、がんの「慢性疾患」という概念の定着だ。早期診断・早期治療の活発化で、がん患者の生存期間の物差しは5年から10年に移り始めている(むろん、発見時の進行ステージによって違うが、ここではあくまで一般論として述べていく)。さらに治療は、化学療法が優先され、治療は外来で行われることも一般的になった。


 ●化学療法全盛にその要因?


 化学療法の浸透定着は新たながん治療薬の開発に相応の刺激を与えたはずである。免疫チェックポイント阻害薬などの登場は、化学療法の促進をさらに刺激した。むろん化学療法は60年代から定着した療法であるが、副作用による患者への苦痛の大きさ、治療効果の小ささから、手術や放射線治療に比して、ことがん治療に関しては期待度という点ではその位置づけは大きくはなかったということができる。それでも抗がん剤は、ここ50年間、新薬が生まれるとほとんどがブロックバスターになったことは否定できない。より効果のある医薬品への期待度は、現実の治療効果の期待の低さへの裏返しであったともいえよう。


 最近の免疫チェックポイント阻害薬のような新薬の登場はその意味で、内科的腫瘍治療のウエイトを高め、化学療法の選択優先度を高め、その結果として高額薬の費用対効果への関心を高めることになった。手術優先時代、放射線療法の併用時代から、化学療法に移行する中で、がん治療は医療大量消費のシンボリックな存在になった。その意味では、治療法の変遷は、より高価であり、医療費の増嵩を加速させるというベクトルそのものからは何も変えてはいないとい指摘はできる。保険収載によって、がん患者への希望は高める一方で、医療費への懸念も強めたのだ。 


●保険収載のパラドックス


 がん診療において、その費用対効果が大きいとされるのが重粒子線治療である。腫瘍部位別の効果、照射回数、ステージ別の対応度など、未知数の部分は大きいが、がん患者には「夢の治療」だと表現する人も多い。


 しかし、この重粒子線治療は保険収載されていない。現在は先進医療扱いだ。実は日本は重粒子線治療に関しては世界のトップを走っている。現在、世界には11の重粒子線治療施設があるが、そのうちの5ヵ所は日本国内に存在する。問題はその価格。この治療施設は核医学の世界に存在する。いわば核施設となるわけだから、それなりに初期投資は非常に大きい。建物、装置に約150億円が必要で、年間の維持費は10億円を超える。そのため、先進医療の現在、この施設で照射治療を受ける人は約300万円の個人負担を強いられる。兵庫県にある重粒子線治療施設は、312万円とされるが、兵庫県民にはローンの設定もできる。まさに命を月賦で買うような状態が続いている。


 治療効果については、ここでは細かい資料は提供できないが、たとえば前立腺がんだと1回照射で腫瘍は消失するケースが多いとされている。患者への侵襲度も非常に低いため、旅行がてらに施設を訪れ、照射を受けるというツアー型の治療も可能だ。これが保険収載されれば、照射を受ける患者は飛躍的に増加し、そのために施設側のランニングコストは安くなり、初期投資の高額部分を除けば、費用対効果面でみれば最近の抗がん剤新薬より安くなるというのが、重粒子線治療推進を主張する人たちの根拠となっている。 


 具体的には保険収載されれば、治療を受ける患者が増え、その分、照射1回あたりのコストは低減する。加えて、入院やその後の付帯的治療経費が減ずる効果もあり、推進グループの試算では、1人当たりコストは100万円を切るのではないかともしている。そうなると、抗がん剤新薬の年間経費との比較では、コスト的には7割から8割の低減効果があるとされる。実際、ダヴィンチなどの手術機械は、保険収載によって、ランニングコストは大幅に下がっている。重粒子線治療もそういう効果があるとみられているのだ。 


 これが、なかなか保険収載されない理由については、厚労省と文科省の予算配分の経緯と対立、特に厚労省では、国立がんセンターなどに代表されるがん拠点病院政策の大幅な改革を求められることへの抵抗があるのではないかと、推進側は主張する。


 しかし、例えば前回にみた経産省の医療機器開発と輸出産業化へのロードマップでは、これらの施設、装置、技術を丸ごと輸出産業に育成したいという思惑がある。治療そのものがローコストになるのは製品の付加価値を高めることにはなるが、保険収載によって、医療需要の変化を呼び込むと、装置自体の低額化が進む可能性がある。できれば、現状の価格水準で輸出産業化したいという認識が生まれるのは当然で、そのために「丸ごと輸出」の全体の価格を維持するためには、保険収載はメリットを消してしまうことになりかねない。


 実際、日本の重粒子線治療施設には多くの海外の富裕層が、治療に訪れている。いわば重粒子線治療・医療ツーリズムが国際市場化する萌芽がみえるわけだが、保険収載によって、国内治療価格が下がれば、現状の妙味は薄まる。むろん、現状で施設を運営する側には、活用する患者が増え、低コストによるがん治療の浸透が図られることが望ましいとの認識はあるはずだが、建物・装置開発側の産業にとってはなし崩し価格破壊は避けたいという思惑が働く。 


 重粒子線治療が保険収載され、一定のがん患者への治療がスタンダード化されれば、推進側が主張するように、かなりのがん治療の「消費」は減り、医療費削減への効果は大きいのではないかとの見方は、筆者も印象としては感じる。ただ、その費用効果の程度に関する分析はまだ途上であり、実際にそうなるのかという疑いも捨ててはならないように思える。 


 高価格での産業化をめざす側と、現状のがん治療標準の変革への抵抗、そして高額治療薬への影響などを考えると、重粒子線治療の保険収載への道のりはまだ険しいだろう。そして、この重粒子線治療の保険収載にからむ多様な思惑を通じてほのかに見えるのは、治療という費用を減らせることへの当事者たちの関心の薄さ、また「保険収載」が産業化の背中を押す一方で、産業化によって縮小構造化する(産業側にとっての)リスクも大きいということである。医療保険は、薬価制度にみられるように医療費縮小を目指す構造を有しながらも、医療費を増嵩させる岩盤も持っているのである。


 高齢化が進む現在、治療にかかる費用構造を温存する制度そのものの岩盤を砕いていく必要がある。なぜなら、今も増え続けるケアの費用を支弁するためにも、治療にかかる費用は、減少させなければならない時期に突入しているからである。 


 そうした見方で、重粒子線治療に関する政府の動向を注視しておく必要は大きいのである。次回からは、医療費の中におけるケアの配分、関連して代替医療、サプリメント市場の拡大化などの課題を眺めていく。(幸)