山尾志桜里議員の不倫疑惑をめぐり、週刊文春編集部と漫画家の小林よしのり氏のグループが“場外乱闘”を繰り広げている。不倫の事実を認め、謝罪しろ、という文春に対し、小林氏側は「政治家の『説明責任』は公的な問題に関しては必要だが、プライベートの『説明責任』などない」と主張している。 


 小林氏は親しい知識人たちと「ゴー宣道場」という討論イベントを定期的に開いていて、山尾議員やその不倫相手とされる弁護士の倉持麟太郎氏はもともと、グループの仲間だった。小林氏や道場のサイトを見ていると、総選挙前、文春の第1報が出たときにはみな一様に衝撃を受けたようだったが、小林氏はその後、山尾氏の選挙運動にも応援に駆け付け、再選後は倉持氏と改めて政策的タッグを組むことを積極的に支持している。 


 ひとことでその“大義”を言うならば、安倍政権が進めようとする改憲の動きに、護憲論でなく、リベラルな改憲論で対抗する提言をするために、小林氏のグループには山尾氏や倉持氏が必要だ、というものだ。 


 そして12日、大阪でのゴー宣道場イベントで両人が選挙後に初めて顔を合わす。今週号の週刊文春は予想された通り、これに激しく噛みついて、『山尾志桜里急展開 一泊二日一緒に大阪旅行』と批判記事を掲載した。小林氏の側は付きまとう文春記者の写真や実名をブログにアップするなどして反撃している。


 私自身の感覚では、政治家であれ芸能人であれ、不倫疑惑というものにそもそも関心が薄い。山尾氏のケースも疑惑の印象は、限りなく黒に近いイメージだが、報道を見ても、ああそうか、で終わる。家族でも親類でもない部外者に、それ以上の感情は湧かない。 


 人々が有名人のゴシップに“のぞき見的な好奇心”を抱くことはわかる。その手の報道が流れれば、ああそうなんだ、と世間は思うだろう。だが、それで充分ではないのか。一夜をともにした以上、性交渉があったはずだ、正直に認めろ。そんな“徹底究明”や“責任論”が飛び交う光景には、白々とした気持ちしか沸かない。当事者の痛々しい謝罪会見も、チャンネルを変え、見ないようにしている。その場の記者たちの“正義感”に、うすら寒いものを感じてしまうのだ。


 現代社会のモラルでは許されない、というのなら追及するのもいい。だがやはり、優先順位がどこか狂っている。酩酊した女性をレイプして逮捕寸前になりながら、捜査幹部のツルの一声で免罪符を得る、そんなジャーナリストの問題を、それならなぜ、文春は報じようとしないのか。政治家の中には文字通り犯罪にまつわる疑惑をうやむやに葬り去り、知らん顔をしている者も少なくない。 


 そもそも“世間をお騒がせして申し訳ない”という政治家の常套句は、厳密には謝罪にすらなっていない。やったのか、やらないのか、どちらか。いい加減な言葉で誤魔化すな。そんな鋭い追及は、より深刻なケースにこそ向けられるべきものではないのか。


 山尾議員が“潔白”とも思わないが、どんな不祥事より下半身の問題を重罪のように騒ぎ立てる“ゲシュタポ風紀委員”のような週刊誌・ワイドショーのスタンスには、げんなりする。何よりもこの風潮の背後で、ほくそ笑む勢力がいることが腹立たしい。 


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。