これまでにも何度かゲノム編集を扱った本を紹介してきたが、今回は“真打ち”『CRISPR(クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見』を紹介する。


 著者は、画期的な遺伝子編集技術である「CRISPR-Cas9」(クリスパー・キャス・ナイン。以下、クリスパー)の発見に大きく貢献した研究者のひとり、ジェニファー・ダウドナ博士である。  


 あらためて記せば、クリスパーは、DNAの二重らせんの鎖を狙った箇所で切断できることから「分子のハサミ」とも言われる技術。著者は〈この技術を使ってできることは驚くほどいろいろあり、(中略)多様な機能を備えている「スイス・アーミーナイフ」〉に例える。


 従来の技術は成功確率が低く、費用もかかったが、クリスパーは〈ゲノム(全遺伝子を含むDNAの総体)を、まるでワープロで文章を編集するように、簡単に書き換えられ〉、低コストでゲノム編集ができる。先行する技術に比べてなんと〈600分の1以下のコストで済む〉という。


 序盤は、遺伝子組み換えなど、クリスパー発見にいたるまでの前史から、クリスパーに関する論文が権威ある学術雑誌「サイエンス」に掲載されるまでの物語である。 


 やや専門的な内容も含むため、初めて遺伝子編集に関する情報に触れる人には少々難易度が高いが、大学の研究室のさまざまなシーンも描かれていて、最先端を走る研究者たちの雰囲気がよく伝わってくる。 


 著者がクリスパーの研究を検討しているとき、〈負担を上乗せすることのコストと利益をてんびんにかけなくてはならない〉と考えるあたりは、研究者にも経営者的な視点が求められることの証左だろう。 


 発表からわずか5年のクリスパーだが、この技術を使った研究はすでに始まっており、本書でも多くの事例が紹介されている。 


 最も盛んなのが動物界。〈筋肉ムキムキの遺伝子強化ビーグル犬〉〈大型ネコほどの大きさのマイクロピッグ〉、〈肉量を増やした毛の長いヤギ〉……。なかには、象のDNAを編集して、絶滅種であるマンモスを復活させる計画もあるという。 


 植物界では、〈病気に強いイネ〉〈日持ちのよいトマト〉〈多価不飽和脂肪が少なく健康に良いダイズ〉〈有毒成分の少ないジャガイモ〉等々、広くクリスパーが利用されている。 


 将来的には人間の治療に適用が広がることは間違いないだろう。クリスパーの〈効果が最も期待できるのは、単一遺伝子疾患の治療〉と見られているが、単一遺伝子疾患は7000以上もある。先行する遺伝子編集技術「TALEN(ターレン)」で、末期の小児がん患者を救った例もあり、クリスパーへの期待は非常に大きい。 


 一方で、ブタの遺伝子を「ヒト化」するなど、〈動物の臓器を人間に移植する、異種肝移植〉に向けた実験も行われている。 


■日本社会は議論に不在? 


 第7章に〈核兵器の轍は踏まない〉という刺激的な見出しがつけられているように、クリスパーはポテンシャルとリスクが隣り合わせだ。クリスパーを用いれば、〈生きている人間のゲノムを変える〉だけでなく、未来の人間のゲノムさえ、書き換えられる(しかも、簡単に)。間違った使い方をすれば、〈社会の信頼を失うことだけはたしかだ〉。 


 神奈川県座間市で、アパートの一室から9人の切断遺体が見つかった事件ではないが、おかしな人物はどこにいるかわからない。なかには、深慮もせずに未来の人間のDNAを書き換えてしまう科学者もいるだろう。


 著者も指摘しているように、今後のクリスパーの方向性を話し合う取り組みは不可欠なのだ。


 科学者などの専門家はつい〈門外漢には口出しされたくない〉と考えがちだ。しかし、〈どんな科学技術についても、その使われ方を決めるのは社会全体〉である。〈画期的発見を広く世に知らしめ、一般市民がその影響を理解しどのように使うべきかを決められるように、その技術的成果をわかりやすく説明するのは、科学者の務めである〉、と同時にマスコミの務めでもあろう。 


 これから世界中の科学者や政府関係者、法律家、宗教家などが入って議論になるのだろうが、問題は、そこに日本(人)の存在感があまりないことだ。本書でも日本および日本人に関する記述はほとんどない。〈世界の主要な遺伝子編集研究者の多くがアメリカ、イギリス、中国で活動している〉こともあるのだが、これからもクリスパーが急速に技術的進化を遂げるのは確実だ。不妊治療と同様に、“現実が先行する世界”も十分も起こり得る。 


 インパクトが大きい技術なだけに、日本社会が世界的な議論から取り残されてしまう事態は避けたいところだ。(鎌)


 <書籍データ>

CRISPR

ジェニファー・ダウドナ著(文藝春秋1600円+税)