(1)丸山真男がでっち上げた 


 あらかじめご承知おきたいのは、現在の慶応義塾大学とはほとんど無関係ということです。 


 さて、福沢諭吉に関しては、通常、次のように思われている。


 福沢諭吉(1835年=天保6年~1901年=明治34年)は、民主主義・自由主義・平等主義・市民主義などの西欧近代思想を日本に紹介した啓蒙思想家であり、本人もそれら西欧近代思想を信奉していた「典型的な市民的自由主義者」「民主主義の先駆者」である。 


 1872年(明治5年)の初編『学問のすすめ』の冒頭の言葉、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、あまりにも有名である。99.9%の人は、福沢諭吉イコール「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と思っている。したがって、「福沢諭吉=西欧近代思想の啓蒙家」、つまり日本の近代化に多大な貢献をした「偉人」である。それゆえ、1万円札の肖像画になっている。 


 ところが、どうやら、福沢諭吉の実像はビックリ仰天、とんでもない姿で、とてもじゃないが、現代基準の「偉人」ではないようだ。とりあえず、そのエキスを。


➀福沢諭吉は幕末に3回も洋行した。そして、幕末から明治初頭にかけて、『西洋事情』を著し西欧の文物を紹介した。もちろん西欧近代思想も紹介した。しかし、『学問のすすめ』以降になると、福沢の本心が現れてくる。西欧近代思想を紹介したからと言って、福沢自身が西欧近代思想に賛同・心酔していたわけではないのだ。 


②福沢諭吉は、完璧な帝国主義者であり、とりわけ自分が創刊した日刊新聞『時事新報』によって帝国主義日本を推進した。 


『時事新報』に関して若干の解説をしておきます。 


 当初、福沢は伊藤博文たちの明治政府の要請を受け、政府ベッタリ新聞(むろん政府の資金援助)を準備していたが、「明治十四年の政変」のあおりで目論見は失敗する。しかし、すでに印刷機などを用意していたので、やむなく独自で発行する。当然ながら慶応義塾の人材が活用された。『時事新報』の創刊号は1882年(明治15年)3月1日。 


 その基本方針は「国権皇張」である。「皇張」とは、大いに主張する、という意味です。「日本の国権を諸外国に向かって強力に主張する」ということは、要するに対外強硬路線であり、事実上、「ドンドン外国を侵略せよ」ということに他ならなかった。『時事新報』の排外的熱烈愛国主義、外国への強烈一辺倒の方針こそは、福沢諭吉の本性であった。政治の世界では、「ナショナリズムをあおれば人気が上がる」という一般原則があるが、その一般原則どおり、『時事新報』の発行部数は急激に伸び、発行部数ナンバーワンになった。テレビもラジオもない時代、最大発行部数を誇る福沢諭吉の『時事新報』は非常に大きな影響力を発揮した。


 なお、『時事新報』は「日本一の時事新報」の地位をしめたが、関東大震災(1923年=大正12年)の被災によって衰退し、1936年(昭和11年)に廃刊となった。


③福沢諭吉は同時代の人から「ホラを福沢、嘘を諭吉」とからかわれていたように、「偉人」のイメージには遠かったようだ。ただし、明治の教育界に慶応義塾、著作などで大きな実績を残したことは間違いなく、1907年(明治40年)に「明治六大教育家」として顕彰された。しかし、福沢諭吉に対する周知度は、時の経過とともに低下し、慶応義塾大学関係者だけが「我が大学の創設者」と知るレベルになっていった。 


④ところが、戦後、丸山真男(1914~1996年)が、福沢諭吉を立派な民主主義者としてドカーンと大評価した。丸山真男は戦後の日本政治思想学を圧倒的にリードした東大教授である。その門下生は名だたる政治学者がドッサリいて、さながら「丸山山脈」であった。 


 私事であるが、私は1960年代後半に大学に入学して、1年生の時、丸山真男の分厚い論文集『現代政治の思想と行動』を買って読んだ。そこに収録されている『超国家主義の論理と心理』こそが丸山真男の出世作で、『世界』(1946年5月号)に発表されたものである。敗戦が1945年8月15日なので、敗戦直後に書き始めたのだろう。とても簡単な論理かつ平易な文章であった。この論文で私は「八紘一宇」なる言葉を初めて知って、「なんだろうか?」と調べた記憶がある。 


 思い出話はともかくとして、大権威の丸山真男が、福沢諭吉は偉大なる民主主義者である、と評価したものだから、世間は「そうなんだ」となってしまった。丸山真男への批判は吉本隆明、梅原猛など多くいる。丸山の福沢論に焦点をあてて批判した学者もいた。名古屋大学名誉教授の安川寿之輔(1935~)らである。丸山真男の福沢論は間違いである、と論陣をはったが、大権威丸山の福沢論はビクとも揺らがなかった。 


⑤しかし、数年前から、丸山真男がでっち上げた福沢諭吉論が急速に批判され、色あせつつある。 


(2)天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり


『学問のすすめ』第1編冒頭の言葉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なのだが、伝聞を表す「と云えり」がついている。アメリカ独立宣言の天賦人権説の名翻訳らしいが、福沢諭吉の思想を表しているものではない。わざわざ「と云えり」と書くことによって、自分の本心ではないよ、と断っているのだ。続く文章は、しかし現実には賢愚の差、貧富の差、貴人下人の差がある。これは、どうしたことか。学問の差による。要するに『学問のすすめ』である。この部分だけなら、別段、文句を言う筋合いではないように思えるのだが……、福沢諭吉のあちこちを読みだすと、ギョっとする。


『学問のすすめ』では、「自由」が武士の「面目名誉」に変えたり、政府への抵抗権・革命権を欠落させ、ひたすら政府に従うことを主張しているのだ。さらに、『学問のすすめ』第3編にこれまた有名なフレーズ「一身独立して一国独立する」が登場する。なんとなく、このフレーズから「学問して賢い人になり財を蓄えて、自分の考えを持つ独立した人間になる。そうした独立した人間によって独立した国が形成される」と勝手に思い込んでしまう。丸山真男も勝手に誤読した部分である。福沢にあっては、「一身独立して一国独立する」とは、「国のためには財を失うのみならず、一命をもなげうちて惜しむに足らない」という報国精神、殉国精神なのである。おおよそ市民的自由主義とは相反するものであった。 


 同様の事例は、1900年(明治33年)、福沢諭吉が亡くなる前年、慶応義塾では「修身要領」を作成し、そのスローガンは「独立自尊」である。福沢の言う「独立自尊」とは、教育勅語の精神であり、帝国臣民が万世一系の帝室に忠義を尽くすことである。しかし、これまた多くの人が勝手に、個人の自主自立した精神、市民的自由主義という感じに誤解している。現在の慶応義塾の基本理念も「独立自尊」であるが、その意味は「自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味する」ということになっている。まぁ、現在の慶応義塾のPRに「独立自尊とは帝国臣民が帝室に全身全霊で忠義を尽くす」とは書けないので、誤読と承知しつつも「独立自尊とは市民的自由主義」とPRしているのだろう。 


 なお、大分県中津市に大きな「独立自尊」の石碑がある。福沢諭吉は中津藩の下級武士であったことによる。中津市民も「独立自尊」は市民的自由主義を表現していると思っているのだろう。 


 ついでに言えば、福沢諭吉自身は「独立自尊―個人の独立した精神、市民的自由主義」であったのか。それが全然違う。日本政府から金を引っ張り出すことばかり考え、お金を頂ければ慶応義塾の教育内容は全部政府のイイナリでOKと言っている。とてもじゃないが、「独立自尊」の人じゃない。


 世の中、諸行無常だから、言葉の意味も変化する。「花」と言えば、奈良時代以前は「梅」であった。平安時代から「桜」に変化した。「独立自尊」も変化途上である。変化してもいいが、福沢諭吉の「独立自尊」と現代慶応義塾の「独立自尊」とはまったく異なっていると認識してほしい。 


(3)本性


 福沢諭吉に「圧制も亦愉快なる哉」という文章がある。1882年(明治15年)3月28日の『時事新報』社説で、福沢諭吉全集8巻にある。それを現代文で要約してみた。


 幕末の時、香港で停泊していたら、支那の小売り商人が靴を売るためにやってきた。私は暇だったので、わざと時間をかけて値切り交渉していた。すると、英国人が来て、支那商人が狡猾と思ったのか、交渉中の靴を取って私に渡し、2ドルを出させて支那人に渡し、問答無用で杖でもって支那人を追い出した。


 自分は傍観していたが、支那人を気の毒に思うわけでもなく、英国人を横暴と思うわけでもなく、ただ英国人の圧制をうらやむばかりであった。


 東洋諸国で英国人は威力と権力を振るっていて、心中定めて愉快なことだろう。 


 我が帝国日本も、幾億万円の貿易を行って幾百千艘の軍艦を備え、日章旗を支那印度の海面に翻して、遠くは西欧の諸港にも出入りし、大いに国威を輝かす勢いを得たら、支那人などを御すること英国人と同じようにするだけでなく、その英国人をも奴隷のように圧制して、その手足を束縛しよう、という血気の獣心を押さえることができなかった。 


 そうであれば、圧制を憎むのは人の性だというが、人が自分を圧制するのを憎むだけで、自分自身圧制を行うことは人間最上の愉快といっていいだろう。


 吾が輩は世界中の圧制を独占したい。 


 同じく1882年(明治15年)12月11日の『時事新報』社説には、「東洋の政略果たして如何せん」があり、同様のことが綴られている。


 英国人が支那その他の地方において権力と威力を振るって、土人を御するその状況は傍若無人、ほとんど同等の人類に接するものと思われず、当時吾が輩はその有様を見て、印度支那の人民が英国人に苦しめられるのは苦しいことであるが、英国人が威力と権力をほしいままにするのは甚だ愉快なことであろう。一方を哀れむと同時に一方をうらやむ。私も日本人だ、いつか、日本の国威を輝かせて印度支那の土人らを御すること英国人を見習うだけでなく、その英国人をも苦しめて東洋の権益を一手に握ってやろうと、壮年血気の時に、密かに心に約束して、いまだに忘れることができない。 


 説明の必要なし。これが福沢諭吉の本性である。


 もっと酷い文章も、山ほどある。中国人は乞食・エタ、朝鮮は妖魔悪鬼の地獄国……紹介していると気分が悪くなるので止めますが、罵詈雑言があふれている。福沢諭吉は『時事新報』などで、中国人・朝鮮人・台湾人を徹底的に貶める言論を展開し、いわば下等人種とみなす意識、露骨に言えば下等人種だから、官であろうが民間であろうが区別なく強奪してもOK,殺戮してもOKいいという意識を植え付けたのだ。 


(4)甲申政変と福沢諭吉


 黒船来航によって日本が混乱したように、朝鮮もまた同じように混迷していた。朝鮮の場合、日本よりも宗主国清の存在により一層複雑であった。 


 日本との関係を眺めれば、1875年(明治8年)に江華島事件、1882年(明治15年)に壬午軍乱(事変)、そして、1884年(明治17年)に甲申政変(事変)となる。 


 甲申政変とは、金玉均(1851~1894)ら独立党(急進開化派)は朝鮮近代化のため、事大党(親清派)を一掃するため、日本軍(大陸浪人を含む)の支援でクーデターを起こした。しかし、動かないと予想していた清軍が反撃し、三日天下に終わった。


 金玉均にとって福沢諭吉は最も深い付き合いの日本人であった。クーデターの時に使う武器は福沢諭吉の弟子が準備した。当然、福沢の指示があったわけだが、クーデター失敗後、福沢は「知らぬ存ぜぬ」を押し通し、わが身を守った。 


 クーデター失敗により、日本人家屋は襲撃され、約30人の日本人が殺された。日本公使館には260人の日本人が押し寄せ、命からがら仁川領事館へ逃げ、沖に停泊していた日本の千歳丸に乗船して日本へ戻った。金玉均も千歳丸に隠れて乗って日本へ亡命した。独立党は幼い子、使用人も含め悲惨な結末となった。日本政府はクーデターの黒幕・実行部隊と国際社会からの批判を避けるため亡命中の金玉均を冷遇し、小笠原諸島に事実上の軟禁・幽閉した。


 金玉均は再起を図っていたが、日本政府は無視した。日本に頼るのをあきらめた金玉均は、清の実力者李鴻章(1823~1901年)を説得するため、1894年(明治27年)3月上海に渡ったが、同月、朝鮮国王の放った刺客によって暗殺された。なお、1894年7月~1895年3月が日清戦争である。 


 なお、金玉均の基本思想は、朝鮮を近代化して、日・中・朝の3国が同盟して東アジアの衰退を挽回するという「三和主義」であった。 


 まったくの蛇足であるが、金玉均が小笠原諸島にいた時、杉並区久我山(当時は久我山村)出身で砂糖栽培で大成功した砂糖王の飯田氏と出会った。お互い親から遠くに離れて親孝行ができない、日本人も朝鮮人も親を思う心は同じという「人心同」題する文章を書いて飯田氏に贈った。それを、久我山村の稲荷神社の氏子が巨大な石碑に文章を刻んだ。この巨大石碑は郷土歴史家が知るだけとなった。私は残念に思い、懇意な在日韓国人に話したらすごく興味を持ち、それが縁で韓国の新聞に記事が記載され、その石碑は少しだけ有名になった。


 私は石碑に書かれてある文章を読み取ることに夢中だったが、在日韓国人は石碑を一目見るなり、巨大石碑が朝鮮半島の形状であることを察知した。私は静かに感動したことを覚えている。


 本筋に戻って。 


 先にクーデターに際して、「福沢が武器の準備をした」と書いたが、実は、それだけではない。福沢がクーデターを煽り、段取りし、資金を与えたのだ。噂ではなく証拠の文章・手紙・暗号も残っている。


 福沢諭吉の本心は獣心の帝国主義そのものに憧れ、『時事新報』などでヘイトスピーチを展開した。それだけでなく、実際に朝鮮支配の武力行動まで起こしているのだ。 


 最後に一言。自分の先祖は立派な偉人ばかり……そんな人間はこの世に存在しない。3~4代さかのぼれば、先祖に1人や2人の悪人はいるものだ。「立派な先祖」だから敬うのではない。「善悪関係なく先祖」だから敬うのである。 「悪人の先祖」を敬うのか?


 そうです。「悪人の先祖がいなければ、あなたは存在しない。だから、あなたが存在する以上、善悪関係なく先祖を敬う」ということです。「敬う」「尊ぶ」という言葉を使いたくなければ、「祈る」でも「思う」「考える」でもいい。こうした思考が流行らないと、歴史改竄、歴史修正が一般化する。 


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。