国立健康・栄養研究所(National Institute of Health and Nutrition; NIMH)は、国民の健康の保持及び増進に関する調査及び研究、健康増進法に基づく業務を行うことを目的とする公的機関である。NIMHは平成27(2015)年4月に医薬基盤研究所と統合されて国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所となり、医薬品と食品等の専門性の融合による総合的な研究推進を目指している。 


 また、「政府関係機関移転基本方針」に基づき、現在の東京都新宿区戸山から大阪府摂津市に位置する北大阪健康医療都市(愛称:健都)への全面移転方針が打ち出されていることから、移転前に戸山の施設を見学しようと、去る11月18日の一般公開イベントに参加してみた。 


◆現代のエネルギー消費量測定設備 


 NIMHには、ヒトの日常生活におけるエネルギー消費量を測定するためのエネルギー代謝測定室(ヒューマンカロリーメーター、human calorimeter; HCM)がある。HCMは約15~25㎡の小部屋で、湿度、温度、流量が一定にコントロールできる高機密構造になっている。室内には、ベッド、トイレ、洗面台、机等が設置されており、生活活動をある程度シミュレーションでき、被験者はHCM内で原則1日~1日半のスパンで過ごしてもらう。 


 測定原理は呼気中の酸素(O2)及び二酸化炭素(CO2)を測定することでエネルギー消費量を間接的に測定する呼気ガス分析だ。食物から摂取した栄養素が体内でエネルギーに変換される際にはO2を使ってCO2が産生される。また、たんぱく質がエネルギーになる際には尿中に窒素が排泄される。したがって、呼吸で体内に取り込まれたO2量、呼気中のCO2量、尿中窒素量が正確に得られれば、糖質、脂質、たんぱく質の利用量を算出してエネルギー消費量を推定できる。


 HCMは平成12(2000)年、NIMHに国内では初めて導入された。主要な使用目的は、厚生労働省が5年ごとに改定する「日本人の食事摂取基準」における「推定エネルギー必要量」策定のための調査研究、安静時や活動時におけるエネルギー代謝及び食事を含めたエネルギーバランスの制御機構や変動要因に関する調査研究等である。 


 例えば「85分続けての運動を1回と、5分運動後25分の休憩を17回で、どちらが脂肪の燃焼効率がよいか」、「脂質を朝または昼に摂ったときの血糖値への影響」など、栄養素の摂取に関連して生じる生活習慣病の発症機序解明や予防法の開発につながる基礎研究や、身に着けるタイプの活動量計の妥当性を検討する実験も行ったことがあるという。 


◆大正時代の研究も測定原理は同じ 


 HCMは現在でも国内で12か所程度しかない高価な設備なのだが、研究所の歴史展示室資料によれば、NIMHの前身である栄養研究所の設立から日が浅い大正11(1922)年頃には既に、推定エネルギー所要量の科学的根拠を得ようとする実験が行われていた。


 栄養研究所の初代所長である佐伯矩(さいき・ただす)氏は、それまで「営養」とされることも多かった表記を「栄養」に統一するよう提言した人物でもある。その背景には「営む」より「栄える(健康を増進する)」の方がふさわしいとの考えがあった。 


 佐伯氏が監修した啓発映画「榮養讀本」シリーズの資料には、着物姿で呼気分析のためのダグラスバッグ(ガスマスクと大きなリュックのようなものからなる装置)を装着し、日常的な家事を行ったり、密閉された棺桶のようなカロリーメーターに入ったりする主婦の写真が残っていた。また、長期間にわたり色々な人で試験した結果として、日本の成年男子に必要な栄養として以下の数値が示されていた。


 生きる為    1347カロリー


 働く為      672カロリー 


消化吸収の為   134カロリー 


糞便になるもの  239カロリー  


合 計    2392カロリー 


「此の中に蛋白質80グラム、ヴィタミン、カルシユム等を含め毎日約2400カロリーの食物を食はねばならぬことが判る」とある。 


「日本人の食事摂取基準(2015年版)」において18~49歳男性の推定エネルギー必要量は身体活動レベルⅠ(低い)が2300kcal、Ⅱ(ふつう)が2650kcalである。また、「榮養讀本」で推奨する摂取エネルギー2400kcalに対したんぱく質80g(約13%)は現在の摂取基準に照らしても妥当な範囲にある。大正時代には既にエビデンスに基づく栄養学(EBN)の基礎が生まれていたことがうかがえる。


◆情熱が伝わる庶民への啓発資料 


 佐伯所長をリーダーとする栄養研究所は庶民への啓発にも熱心に取り組んでいたのだろう。例えば、展示資料には、佐伯矩著の「毎回食完全説」という冊子があり、左手の親指から順に蛋白質、抱水炭素(炭水化物)、脂肪、無機質、ビタミンを当てはめ、対応する右の指に各々の栄養素が含まれる食物を記した図解がなされていた。 


 一方、「妊婦の心得」というチラシには、「妊娠中は往々(にして)食物の嗜好が偏りがち」であるとして、妊婦に適した食事の一例として献立表(主菜、副菜)が載せられていた。実際には各材料の重量や東京の物価に照らした食材費まで示されている。 


◎朝食:蛋白質22.5グラム、温量(エネルギー)205カロリー 味噌汁(若布、牛蒡、煮干粉)、煮付〔刻鯣(きざみするめ)、油、里芋〕、大根浅漬 


◎昼食:蛋白質12.2グラム、温量206カロリー 鯖の吉野揚(鯖、片栗粉、油、キャベツ、人参)、ほうれん草の白胡麻和え、沢庵 


◎夕食:蛋白質25.5グラム、温量397カロリー チャウダー(牡蠣、玉葱、人参、馬鈴薯、メリケン粉、バタ、牛乳)、チキンカツレツ(鶏肉、パン粉、メリケン粉、卵、油)、おろし和へ(しらす干し、大根)、小蕪


 以上のほか、毎食1.1合(約390kcal)の標準精米を加える内容であるため、1日で約2000kcalとなる。たんぱく質は1日60gであり、n-3系脂肪酸、食物繊維、カルシウム等も摂取できるモダンな献立である。妊娠前期・中期・後期に分けた生活上の心得や、早産の予防と手当、乳房の手当など含め、これもまた現在でも十分通用する内容と考えられる。 


 玉石混交の栄養情報が溢れている今の時代のほうが、「○○が体によい」という情報に踊らされるケースが多いように感じる。専門家もメディアも、先人に倣い、EBNの成果を一般国民の行動変容に結び付ける平易な説明や啓発を実践していく必要がある。(玲)