(1)ドラえもんの親戚じゃないよ 


「あかぞめえもん? ドラえもんの親戚か?」という友人がいたので、前書きを少々。 


①赤染衛門(推定956~没年不詳、ながら80歳以上)は平安時代中期、摂関政治の栄華時代に活躍した女流歌人である。 


②同時代の女流歌人に和泉式部(978~没年不詳)がいた。和泉式部は次々に恋をする、今日的表現ならばスキャンダル女性であったが、それに反して赤染衛門は真面目一筋の女性であった。そのため、2人はよく比較される。真面目女性よりもスキャンダル女性のほうが圧倒的に話題になるため、現代にあっては、知名度は抜群に和泉式部が高く、大半の人は赤染衛門の名すら知らない。 


③小倉百人一首に選ばれている。歌集『赤染衛門家集』を残す。 


④藤原道長(966~1028年)を主役とする実話歴史『栄花物語』の作者。 


⑤赤染衛門の「赤染」とは父・赤染時用の「赤染」からの名である。「衛門」とは内裏の門を警備する官職「衛門府」を意味する。後年設けられた検非違使庁は形式的には衛門府の内部組織であった。赤染時用は衛門府(検非違使庁)の役人であった時期があり、それで彼女は「赤染衛門」と称された。本名を知られることは、人格を支配されるという思想のため、本名は不明である。普通なら「赤染衛門の娘」と称されてもいいのだが、「の娘」は省略されている。 


 蛇足であるが、「ドラえもん」の意味は、「のび太を警護する」という意味だろうと思う。 


(2)出生の秘密 


 赤染衛門は赤染時用の娘なのだが、本当は平兼盛の娘であった。 


 赤染氏は渡来人家系で、さほど目立つ家系でも身分でもない。


  平兼盛に関して一言。光孝天皇の直系5代目の貴族で臣籍降下した。平兼盛は有名な歌人で、「三十六歌仙」のひとりであり、小倉百人一首にも選ばれている。


  しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで 


※現代語訳:秘めてはいたが顔・表情に出てしまった、わたしの恋は。「恋をしているのですか?」と人が尋ねるまでに。 


 なお、『古今和歌集』には「六歌仙」が登場し、その後「三十六歌仙」が選ばれた。その影響を受けて、後に「中古三十六歌仙」「女房三十六歌仙」が選ばれた。鎌倉時代には「新三十六歌仙」が登場した。 


 赤染衛門は「中古」「女房」の両方に選ばれている。「中古」「女房」の両方に選ばれている女性は他に、右大将道綱母(昔人の物語第34話)・馬内侍・和泉式部・紫式部・清少納言・伊勢大輔・相模がいる。 


 話を、出生の秘密に戻して。赤染衛門の母は平兼盛の妻だったが、離婚して赤染時用と結婚した。数ヵ月後、女の赤ちゃんが誕生した。平兼盛は自分の子だと主張して引き取ろうとした。母は平兼盛の子ではないと主張した。平兼盛は検非違使庁に訴えて裁判になった。母は赤ちゃんを取られないようにするため、新夫の赤染時用に助力を依頼した。赤染時用は以前検非違使庁の役人だったのでコネをきかして裁判を有利に進めようとした。「実は、平兼盛の妻だった時、すでに私と密通していた。赤ちゃんは自分の子だ」と主張した。平兼盛は赤ちゃんに面会させて、と要求したりしたが、判決は平兼盛の負けとなった。  


 赤染衛門の成長後の状況証拠によると、真実はどうやら平兼盛の子であったようで、世間も内々そう認識していたようだ。また、赤染衛門も内心出生の秘密を察知していたようだ。つまり、表向きは赤染時用(身分が下)の娘だが、内々の周知の事実としては平兼盛(身分が上)の娘であった。 


(3)偉力ある和歌 


 赤染衛門は文章博士の大江匡衡(まさひら、952~1012年)と結婚した。大江氏は菅原氏と並ぶ学問の家系である。菅原道真失脚後は学問の中心的家系となった。赤染衛門と大江匡衡は都では有名なラブラブ夫婦で、『紫式部日記』では赤染衛門は「匡衡衛門」とあだ名されていると記されている。子供も何人か生まれスクスク成長した。 


 赤染衛門は源雅信邸へ出仕した。源雅信は宇多天皇の孫で、娘に倫子(964~1053年)がいて、倫子は藤原道長の正妻である。道長と倫子の長女が藤原彰子(988~1074)である。彰子は入内(999年)し一条天皇の皇后となる。藤原道長の栄花の幕が開く。


  彰子をとりまく女房には、紫式部、和泉式部、赤染衛門、出羽弁(『栄花物語続編』作者)、伊勢大輔など一流文化女性が才を競った。絢爛豪華たる王朝文化サロンが形成された。 


①その間、夫の大江匡衡が尾張へ赴任するが、ラブラブ夫婦だから、一緒に尾張へ行った。尾張までの紀行文は、すばらしいですよ。その尾張で、百姓の反国府事件が発生した。百姓たちが耕作放棄、種も乾かしてしまうと宣言をしたのだ。赤染衛門は真清田神社(愛知県一宮市)へ和歌を奉納したら、事件がおさまった。赤染衛門の和歌の偉力、神も百姓も動かす! 


賤の男 たねをほすと いふ春の 田を作りますだの 神に任せん 


※現代語訳:百姓たちが種を乾かしてしまうと言います。春の田を守り育てる真清田(ますだ)の神様にお任せいたします(どうか百姓が耕作するようにお願いします)。 


②都で出仕中、里下がりの時、妹のために和歌の代作をした。これが、小倉百人一首に選ばれている。 


やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな 


※現代語訳:(本当なら)ためらっておらず寝てしまったのに。(あなたを待って)夜がふけて、傾いて沈んでいく月を見てしまいました。 


 この和歌を男のもとへ届けたら、男はすぐにやってきた。赤染衛門の和歌の偉力、男を動かす!   


③子供が重病になった時、住吉神社に和歌を奉納して病気を回復させた。赤染衛門の和歌の偉力、神をも動かす! 


代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれん ことぞ悲しき 


※現代語訳:代わりに死んであげたいと祈る私の命は惜しくないが、その結果、子供と別れることになることは悲しい。 


 ということで、赤染衛門の和歌は、いわばご利益抜群の評判となり、代作依頼が殺到した。 


 むろん、当時の教養人として仏教の知識も深く、法華経や維摩経を和歌にしている。  


 法華経不軽品  みる人を 常にかろめぬ 心こそ 終に仏の 身にはなりぬれ 


※現代語訳:省略。法華経不軽品を知っている人なら、容易にわかる和歌である。


 晩年、おそらく80歳頃、関白藤原頼通(道長の子)の要請により、自分の過去の歌を思い出して歌集を作成した。 


是ならで おもふ事のみ かずなきを かきあつめても 君にみせばや 


※現代語訳:省略  歌数は、写本の系統によって異なるが、約600首である。80歳になっても記憶力抜群であった。


 (4)赤染衛門への評価 


①和泉式部と比較されることが多い。赤染衛門は理知的、秀才型であり、和泉式部は恋一辺倒の情熱的、天才型である。 


 男を待っていても来ない時の歌として、赤染衛門は、前述の「やすらはで……」の歌になる。叙景的で、あくまでも「月が美しいな~」である。片や、和泉式部はどうだろうか。 


待つ人の 今も来たらば いかがせん ふままくをしき 庭の雪かな 


※現代語訳:恋人が今来たらどうしようか。踏んで足跡をつけられるのは惜しい庭の雪(恋人をとるか、白い綺麗な庭の雪をとるか、どうしよう、どうしよう。このジレンマをどうしよう)。


 和泉式部は単に叙景的に美しいだけでなく、常に恋人を露骨に意識しているのである。和泉式部を知ると、反射的に赤染衛門の作風がわかる。 


②紫式部は、『紫式部日記』の中で、和泉式部、赤染衛門、清少納言を並べて評論している。和泉式部に関しては、天才的な歌人と認めながらも「けしからぬかたこそあれ」と辛口評価である。清少納言に関しては、これはもうボロボロ評価である。赤染衛門に関しては、好意的で、いわば正統派歌風であると評価している。


 ③和泉式部と赤染衛門の死後、歌学・歌論の世界では、いわば「式部赤染優劣評論」が関心事となった。随筆『方丈記』で有名な鴨長明(1155~1216年)は、歌人でもある。鴨長明の歌論書『無名抄』で、歌については式部がまさっているが、人柄については赤染がまさっている、と書いている。 


④江戸後期の狂歌師・太田蜀山人(1749~1823年)は、からかい、風刺の天才である。小倉百人一首をパロディにした狂歌百人一首がある。その中の和泉式部と赤染衛門を、どう茶化しているか。 


 赤染の百人一首は、繰り返しですが「やすらはで……」の歌。それをパロったのが、次の狂歌である。 


赤染が いねふりをして おつむかたぶくまでの 月をみし哉 


※解説:真面目一筋、良妻賢母、居眠りなんかしそうもない赤染が、居眠りして、おつむがコックリするまで、長い時間月を見ていました。完璧真面目人間だって居眠りする。「おつむ」なんて言って、可愛いらしいパロディです。 式部の百人一首は、次の一首である。 


あらざらむ この世の外の 思い出に 今ひとたびの 逢ふこともがな


※現代語訳:生きていないあの世への思い出に、もう一度、お会いしたい。


 これに対して太田蜀山人は、次のようにパロった。 


あらざらん 未来のための くりことに 今一たびの 逢ふこともがな


 ※現代語訳:生きていない未来で繰り返し言うために(アホらしいが)一度だけは逢うか。もう一度会いたい、という女の切なる願いを、来世だ、あの世だ、などとアホらしい理屈だと一蹴して、まぁそんなに言うなら、仕方がないなぁ~、1回くらいは会ってみるか。 


 皮肉屋大田蜀山人ですら赤染への皮肉は「あんただって居眠りぐらいするだろう。居眠りしているお顔はお子ちゃまみたいに可愛いよ」程度の皮肉である。それに対して、式部への皮肉は、「恋だ恋だ恋だ、会いたい会いたい会いたい、あんた相当しつこいんだ」って感じかな。 


 私は、2人は好対照の歌人で、式部を知れば赤染をより深く知り、逆もまた真なり、という関係のように思う。 


(5)栄花物語 


 藤原道長の栄花を記す歴史物語である。正編30巻を赤染衛門、続編10巻を出羽弁が書いたとされている。 


 同時代の歴史物語として『大鏡』がある。『栄華物語』は女性が書いた。『大鏡』は男性が書いた。『大鏡』と同じパターンの歴史物語として、『今鏡』『水鏡』『増鏡』があって、暗記テクニックで「ダイコン・ミズマシ」と覚えたものだ。 『源氏物語』は、藤原道長をモデルにしていても、フィクションである。『栄華物語』は細かい史実に間違いがあるものの、基本的に実話である。だから、やはり『源氏物語』のほうが格段に面白い。 


 なんにしても『栄花物語』は、藤原道長の栄花の記述です。どこがどう面白いかは読者様々だろう。私が面白いと思うのは、道長・倫子の3人の娘、彰子、妍子、威子の入内シーン、とりわけ、3番目の威子の場面である。 


 1018年、威子が入内なさる。万事万端お支度をお調えた。女房40人、女童6人、下仕も同数である。御姉(彰子・妍子)や摂政殿(藤原頼通)などに女房たちが大勢お仕えして、もう今ではとてもこれはといった女房は得られまいと懸念しておられたのだが、どれもこれも恥ずかしくない女房たちが大勢参上したのである。


 家系・教養・美貌、三拍子そろった女房が40人、十二単で静々と歩いていく。豪華絢爛な行列、それを見ながら赤染衛門は、決して表には出さない、心の内を楽しむのだった。「女房ナンバーワンは、この私なの」と。 


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。