この連載も今回で一応のピリオドを打つが、問題がいつの間にか散逸し、レポートとしての集約性やメリハリが欠けたとの認識は、筆者としても強く持っている。その点に関してはお詫びする。その意味で、今回はこの連載で何を伝えたかったかをまとめてみたい。
基本的な結論から述べれば、「保険医療費」の伸びを抑制する試みは、今後、テンポを上げて進むことは間違いなく、「保険医療費」的視点で展望していけば、いわゆる「医療費」の大量消費時代は、その伸びは小さくなるか、むしろマイナスに進むことさえ想定できる。
しかし、「消費される医療」あるいは、もう少し厳密な意味で「消費されるヘルスケア市場」は拡大するとしか展望できないと、この小論は語りたいのである。それは、国民の意識下にある健康願望がすでに市場構造化されているためであり、この連載の最初のほうで指摘した、とくに現在の高齢者に通底する「高度成長病」は、現行の政治体制、社会経済構造によほどの革命的な変革が起こらない限りあり得ない。
そして、「市場化された健康願望」は実は、老人医療費の無料化という70年代のばらまき政策が決定的なシナリオの役割を果たしたし、無料化が消えても「保険医療」イコール「医療市場」という構図は今でも有効に作用している。
実際、制度的には混合診療は未だに解禁はされていないし、民間保険の医療ケアは、生命保険のオプションの印象からは脱し切れていない。国民も、医療担当者も、製薬企業も、公的な健康保険証が作り出す市場を前提とした市場構造の当事者であるため、生活基盤や利潤追求や医業経営の指針づくりをプランニングする場面でも保険医療の呪縛から解かれてはいない。何より、国民生活の中では、健康保険証は運転免許証に次ぐ身分証明の役割を持ち続けているし、生活の必需品の地位は揺らいではいない。
厳しい借金財政、プライマリーバランスが問われる状況下で、この医療保険市場の革命的な改革が叫ばれ、その声は倍々ゲームで大きくはなっているが、2018年の診療報酬改定もやはりプラス改定という結果をみた。そして何より、医療は消費税非課税という本質的な経済政策の鎖から解かれる様子はない。
●57年間継続した国民皆保険の重み
そこで、こうした鎖を切るいくつかのオプションを仮に想定してみよう。例えば、英国型の健康保険制度に切り替えられたらどうなるか。英国はGP制度が機能し、患者は予約診療で決められたGP医療機関しか初期診療を受けられない。2次医療へのゲートキーパーとして、プライマリケア、あるいは家庭医が機能する。つまり、日本のようなフリーアクセスは保証されていない。英国では、この制度の機能化によって、保険医療費は低く抑制されている。そうした受療環境を望まない一部の富裕層はプライベート医療というシステムに加入している。つまり民間保険だ。こうした制度が、57年間続くフリーアクセスを常識として生きてきた国民に受け入れられるかどうか。
英国では、社会的構造に階級差があることが常識的であり、そのヒエラルキーに対する抵抗感は小さくはないが、体制を揺さぶるほどのパワーがあるようにはみえない。しかし、日本ではこうした側面での差別感には強い嫌悪が発生する。貧富の差があってもいいが、医療を受ける機会と質の確保は平等でなければならない。英国型への保険制度改革はその意味では「革命的改革」であり、かなりの層には「革命的改悪」になる。政治がその方向性を選択する可能性は限りなく小さい。まして、米国のような基本的な民間保険型医療体制など受容できる可能性はわずかしかない。
●カギは混合診療導入と消費税非課税対応
それでも、「保険医療費」の伸びを抑制する、あるいは縮小させる方向を政治は選択せざるを得ないだろう。それは、大方の識者たちが言う通りに運ぶ可能性は高い。混合診療の導入によって、医療保険適用のハードルを引き上げ、民間保険に対する国民啓発策の本格化と、民間保険者に対するリスク分散の政策適用、スイッチOTC薬の拡大、健康寿命に対する本格的で具体的な啓発とその体制づくりなどになるだろうが、それは医療の大量消費という国民のマインドを切り変えさせるほどの決定的な政策にはつながらない、と筆者は想定する。保険医療費の面では効果は期待できるが、それによってこぼれ落ちてくるさまざまなテーマにどうやって政治は対応するだろうか。
単純な想定をすれば、それによってヘルスケア民間市場は拡大するが、高度成長病、長寿という常識、安全で衛生的な社会生活の保障のために民間市場に投入される公的資金が、保険医療から振り替わって必要とされるだけではないだろうか。
マイケル・ムーアの映画「シッコ」で見せられた医療費が払えないために療養衣のまま路上に放り出されるような場面は、たぶん日本では許容されない。そこを未然に防ぐには保険医療費とは違った「名目」の資金が必要となり、それは「保険」という新たな相互扶助制度を取り込む羽目になるのである。
連載の途中でも触れたが、米国の医療費には高度な医学研究費や開発費用を生み出している側面もある。日本でそうした循環的な産業政策とのリンクの時代を現出させるには、すでに国民の「保険医療依存」マインドはその可能性を消している。 最も具体的で政策的にも適用がすでに進んでいるのは、軽医療の自己負担化だ。スイッチOTC薬がその象徴だが、あまりに急激な政策展開が行われると、医師会などの反発は非常に大きくなるだろう。
この連載では1961年の国民皆保険制度前に、大衆保健薬ブームがあったことを紹介したが、そのブームとスイッチOTC薬を選択する国民的マインドは並列で考えることには無理がある。50年代のブームは医療や健康を渇望する国民意識の表れであり、それが満たされ、浸透した現状では、スイッチOTC薬に対する期待は、ある意味「仕方がない選択」のイメージから離れることはない。それでも、薬物治療に絶対的信頼を寄せる日本国民マインドは維持される。その意味では、受療というハードルが低くなる分だけ、OTC薬に対する購買意欲は高まる可能性が大きい。そのとき、国民の多くは、治療的薬剤購入費用に関する何らかの補償を求める行動が顕在化するはずだ。OTC薬の市場競争が高まれば、安全と言う信頼を得るために、またブランド志向が再燃する。
このように例題を示しても、すでに培われた国民のマインドの大きな変化は期待できない。作り上げられたのは保険医療市場ではなく、国民の「受療意欲」だ。医療の大量消費時代は、制度を改革しても変わらない。そして、その代替策を求められるだけだ。消費税非課税を外しても、税控除策の拡大対応を求められる。ほぼ確実に。
次回からは医療大量消費時代の続編として、高度成長病の主役である高齢者医療に的を絞った第2部を展開したい。たぶん、現状から2025年までの間に行われるであろう、高齢者医療の変革に関する展望と、団塊の世代から上の世代の受療の意識改革が変わるのかどうか、彼らの成長時代と現代の意識ギャップが生み出す新たな「医療大量消費」を眺めてみたい。(幸)