(1)なぜか、人気が湧かない 


 船橋聖一の歴史小説『花の生涯』は、井伊直弼を開国を実現した優れた時代認識の偉人として描いている。文学的価値には無関心ながら、この小説は戦後の占領期に書かれた。そのことを知ったとき、「なるほど」と納得した。 


 戦後は、それまでタブーだった「明治~大戦」を批判する自由がもたらされた。戦前までは、もっぱら勤王の志士が正義で、佐幕派は悪人である。しかし戦後は、佐幕開国派を賛美しても叱られないし、かつ占領時代においては日米親善友好は絶対要請であった。だから、井伊直弼を偉人として見直すことは、時代の要請に合致する。 


 白黒〇×方式で割り切るならば、「明治~大戦」を批判すれば、反射的に「江戸時代は案外よい時代」となる。だから、徳川家康は戦前ではもっぱら「たぬき親父」のマイナスイメージ一辺倒だったが、戦後は山岡宗八の『徳川家康』全28巻がベストセラーになるなど家康礼賛の空気が強くなった。そうなると、その反射効果で、戦前では豊臣秀吉は圧倒的人気者だったが、戦後は、天下人までは善であるが、晩年は「常軌を逸した朝鮮侵略者」とする空気が強くなった。秀吉を罵倒すれば、必然的に明智光秀は立派な人物となるはずである。でも、光秀人気はパッとしない。 


 なぜ、光秀人気が湧かないのか? 


 それは、「なぜ、明智光秀は謀反を起こしたのか?」が、さっぱり判明しないからであろう。昔から、諸説紛々あれこれの推理がまかり通っている。確実な証拠がないので、なんと推理しても構わないが……。私の推理は、後に述べます。 


(2)前半生は不明


 明智光秀(?~1582年)の前半生は、ほとんど不明である。 


 生まれた年もはっきりしない。有力説は、1528年(享年55歳)であるが、1526年説、1516年説もある。 


 父の名も不明確である。最大公約数的には、清和源氏の土岐氏の支流である明智氏の生まれ、その実態は父の名前も伝わらないほど身分が低い土岐氏支流であった。「明智城の若様」なんて話もあるが、後世のフィクションである。 


 美濃国は土岐氏一族が支配していたが、斎藤道三(1494?~1556年)が国主となった。油商人出身「マムシの道三」の「国盗り」物語である。ただし、これは、江戸時代の史書をネタにした話で、司馬遼太郎らが流行させた。事実は、「道三の父(僧侶出身)」と「道三」の親子2代による「国盗り」であった。 


 道三「国盗り」物語は、さておいて、光秀は斎藤道三に仕えていた。しかし、道三と嫡男・義龍の父子が争う「長良川の戦い」(1556年)にて、道三は討ち死、明智一族も散り散りバラバラとなる。


  光秀は、どこで何をしていたやら……、後世の『明智軍記』では、諸国を遍歴し、兵学や諸国の実情を学んだ、としている。諸国遍歴を経て、越前の朝倉氏に仕えたとされているが、怪しい話である。正規の家臣ではなく、非正規の居候的家臣であったかも知れない。要するに、光秀の前半生のエピソードはすべて後世の創作物語であると思ったほうがよい。めぼしいお話としては、次のようなものがある。 


➀光秀の婚礼エピソード。婚礼直前に結婚相手のひろ子(熙子)が天然痘に感染し、美貌があばた顔になってしまった。そこで、ひろ子の父は、ひろ子の妹を身代わりにしたが、光秀は見破って、「女の価値は容姿ではない。心の美しさだ」と言って、妹を送り返し、あばた顔のひろ子を妻にした。 


ただし、光秀の妻ひろ子は、天下一の美女で、織田信長が安土城でチョッカイをしたのを拒否したことから、信長が光秀をイジメ始めて、光秀謀反の原因になった……なんて話もあるから、ひろ子の容姿についてもわからない。 


②「妻の鏡」エピソード。流浪の貧乏生活でも、付き合い上、仲間を家に招待してご馳走せねばならないことがある。光秀の妻は、完全金欠だったので、黒髪を密かに売って、夫の面目を維持した。 芭蕉は奥の細道の旅を終えて伊勢へ行く途中、大津の弟子・又玄(ゆうげん)宅に泊まった。この頃、又玄は窮乏生活だったが、又玄夫婦は暖かくもてなした。芭蕉は感激し、「月さびよ 明智が妻の 咄しせむ」と詠んだ。 


 なお、ひろ子の前に、最初の妻(正室)がいたが、数年で病死した。ひろ子は、後妻(継室)である。側室がいたかどうかは不明である。 


③鉄砲の名人エピソード。越前朝倉の家臣であった時、主君・朝倉義景(よしかげ、1533~1573年)の前で百発百中の腕前を披露した。ただし、前述したように、光秀が朝倉氏に正規家臣として仕えたかどうかは疑わしい。 


④兵学論争エピソード。これも朝倉義景の前で、軍師黒坂民部と兵学論争をし、光秀は圧倒的な知識を披露する。恥をかいた黒部民部の讒言のため光秀は朝倉家での居心地が悪くなり朝倉家を去った。 


 なんにしても、こんなエピソードがあることは、光秀は超真面目で勉強家であった証明であろう。 


(3)二君に仕える 


 1565年、永禄の変が勃発した。三好三人衆、松永久秀(弾正)の軍勢約1万が、足利幕府の本拠である二条御所を襲撃した。二条御所を守る幕府軍数百人は全滅し、第13代将軍足利義輝(よしてる、1536~1565年)も殺害された。その後、京では、三好三人衆と松永久秀の抗争が展開されたり、第14代将軍に足利義栄(よしひで、1538~1568年、将軍在職1568年2~9月)が就任したり、下克上の混乱状態が継続した。 


 さて、永禄の変の勃発直後、足利義輝の弟の足利義昭(よしあき、1537~1597年)は、捕縛されて奈良の興福寺で監禁されたが、危機一髪で脱出し、各地を流浪しながらも、幕府再興そして、全国の大名に出兵上洛と自身の将軍擁立を促した。足利義昭の流浪は、困窮の中、伊賀、近江、若狭、そして越前の朝倉義景のもとへ身を寄せた(1566年9月)。


  この頃光秀は、何らか縁によって足利義昭との接触に成功し、家臣となった。足利義昭の家臣に細川幽斎(藤孝、1534~1610年)がいた。光秀と幽斎は、肝胆相照らす仲となった。2人は、天下の情勢、幕府再興を熱く語り合った。その結論は、「織田信長に頼る以外に道はなし」となった。2人の予想どおり、1567年8月、織田信長は美濃の斎藤氏を美濃稲葉城にて打ち破り、上洛の体制が整った。すかさず、光秀は足利義昭の使者として、交渉にあたる。信長の正室は斎藤道三の娘・濃姫で、光秀となんらかの親類関係にあり、その縁を頼ったようだ。


  ついでに一言。光秀と濃姫はなんらかの親類関係であるらしい……ここから、たくましい想像力を発揮して、光秀と濃姫は幼なじみの初恋の相思相愛の関係で、光秀謀反の原因はここにある、なんてお話もある。まぁ、単なる、楽しいお話であります。


  翌年の1568年、その7月に足利義昭が越前から美濃へ到着、信長はこれを大歓迎する。同年、9月信長は足利義昭を奉じて入洛、10月に義照は待望の将軍となる。


  さて、光秀の立場のことであるが、1568年9月の足利義昭の入洛の時には、光秀は信長の家臣になっている。「義昭の家臣」を辞めて「信長の家臣」になってのではない。「義昭の家臣」であると同時に「信長の家臣」になったのだ。つまり、光秀は同時に二君に仕える身になったのだ。徳川時代では許されないことだが、当時は別段不思議なことではないようだ。 


 ここで復讐。1566年9月に足利義昭が越前朝倉に身をよせた。そこで、光秀は義昭の家臣となり、幽斎と2人で、幕府再興(義昭の将軍実現)企画を練り上げた。それから、2年1ヵ月後の1568年10月に、企画は成就した。光秀は、ここぞとばかり頑張った。ある時は幕臣(義昭の家臣)として、ある時は信長の家臣として、京の行政事務に手腕をふるい、また、信長の命で各地を転戦した。 


 1571年9月の比叡山焼き討ちで、光秀は中心的な役割を果たし、その功によって近江国滋賀群の内5万石を与えられ、坂本城(大津市)を築城する。 


 その頃、信長の譜代の重臣である柴田勝家や佐久間信盛ですら大名になっていない。秀吉はまだ突撃隊長の身で、秀吉が近江長浜城主の大名になったのは1573年であるから、光秀は大抜擢の特別出世である。


  なぜ、特別出世ができたのか?  おそらく「二君に仕える」という立場が答であろう。


  代表的な実績としては、1570年正月の『義昭・信長条書』がある。これは信長が義昭の行動を5ヵ条にわたって規制したものである。義昭は信長に無断で諸国へ命令するな、義昭は恩賞として領地を勝手に与えるな、天下のことは信長が処分する……要するに、義昭を信長の傀儡将軍に確定する契約書である。そして、この文書の保証人が日乗上人と光秀の二人である。光秀は、「二君に仕える」立場だから、二君の等距離的立場として保証人になっているのである。 


 余談ながら、日乗上人(?~1577年)について一言。妖僧・政僧で、信長の面前でのフロイスと宗教論争をしたことでも有名。 


 光秀は幕臣(義昭の家臣)の実力者に出世していたので、幕臣の大半とコネがあった。実際のところ、1573年7月に足利幕府が滅亡すると、旧幕臣の大半は光秀の家臣として再雇用された。そんな光秀は信長に極めて忠実である。光秀と幽斎は2人で、嫌がる義昭を懸命に説得して『義昭・信長条書』を承諾させた。「二君に仕える」光秀は、信長にとって、まことに重宝な存在であった。 


 また、光秀は武将としての活躍も、織田の譜代の重臣や秀吉に負けていなかった。たとえば、1570年、信長が初めて越前朝倉を攻めた時、浅井長政の離反で大ピンチに陥った。総撤退では軍団の殿(しんがり)が一番危険な役目である。秀吉が自ら買って出て引き受けたという有名な「越前金崎城の殿」のことであるが、どうやら、殿軍は池田勝正(摂津の大名)の兵3000が主力で、秀吉とともに光秀も残っていたのである。後世の人々が秀吉ヨイショで秀吉一人の軍功に脚色した、というのが真相らしい。 


 とにかく、光秀は、幕府への人脈ノウハウと武将としての武功によって、織田陣営の中で、いち早く大名に取り立てられた。 


(4)丹波攻略で近畿軍区司令官 


 物語の中には、信長の比叡山焼き討ち(1571年9月)に際して、光秀はこれを阻止するために奔走したとするものがあるが、これは後世の人々が「教養人の光秀がそんな暴挙に積極的であるはずがない」という先入観でつくられた伝説である。さらに、この伝説は、光秀は信長の残虐性を認識し、謀反への一里塚になったとする。根拠のない創作物語に過ぎない。 


 光秀は、いわば合理主義者で「仏の嘘は方便、武士の嘘は兵法」という言葉が残っている。延暦寺が朝倉・浅井の事実上同盟軍になってしまったから、合理主義者の光秀には躊躇などありえず、比叡山討伐軍の主力部隊は光秀軍であった。そして、前述したように、その武功によって、近江国滋賀郡5万石の大名となり坂本城(大津市)を築城する。坂本城は延暦寺を監視する意味もあった。


  信長の天下布武は着々と進行していく。 


 ここで「天下布武」の四字熟語について一言。「武」の字は、「戈(ほこ)」と「止」から成り立ち、本来の意味は、武器使用禁止、ということである。したがって、「天下布武」も平和な世の中をつくる、という意味があるようだ。でも、結局は「平和実現のために積極的に武器使用」ということになってしまった。 


 1573年3月、足利義昭は織田信長討伐を決定。合理主義者の光秀は、迷うことなく義昭と縁を切る。 


 同年7月、足利幕府滅亡。


  同年8月、朝倉・浅井の滅亡。 


 1575年5月、信長軍、甲斐の武田勝頼を三河の長篠の戦いで撃破。なお、この合戦には織田の有力諸将は総出で参陣したが、光秀は近畿守備についていた。この時点では、本願寺も健在、毛利の脅威も大きかった。不安定な近畿の留守を任せることは、信長は光秀を信頼しているということである。


  同年6月、光秀は丹波国攻略の総責任者になる。


  それまで、光秀ら織田陣営の武将達は、信長から直接命令される部隊長みたいなものであった。ところが、丹波国攻略は、全面的に指揮命令権が信長から委任されたのだ。つまり、「丹波方面軍司令官」になったのだ。 


 その翌月には、柴田勝家が「北陸方面軍区司令官」に任命された。秀吉が「中国方面軍区司令官」になったのは約2年後である。  光秀の丹波平定は1579年8月に完了する。丹波国は現代感覚からすると僻地であるが、当時は京の隣接地域であるから重要地帯である。また、当時は海岸地方よりも内陸地方のほうが発展していた。 


 この丹波攻略の中に、光秀謀反の原因があるとする有名な「光秀母殺し説」がある。 


 八上城に籠城する波多野兄弟は頑強に抵抗した。光秀は兄弟の命と領土保全を約束して投降を実現させた。その際、担保として自分の母親を人質として八上城に預けた。光秀が波多野兄弟を安土城へ護送したら、信長は光秀が取り交わした約束を無視して波多野兄弟を磔にしてしまった。それを知った八上城側は母親を光秀が見守る中、磔にした。図らずも光秀は「母殺し」となり、信長を深く恨んだ、というお話である。


  しかし、光秀は八上城を四重の柵と堀で完璧に包囲して兵糧攻めを展開していて、城中は餓死者続出の状況であった。わざわざ母親を人質に差し出す必要性はゼロで、まったくの創作である。 


 その創作話はともかくとして、計算すると光秀は丹波一国を平定するのに4年2ヵ月かかっている。中小の豪族・領主しかいない丹波国を攻略するのに、少々時間がかかり過ぎではないか、と思われるかもしれない。しかし、光秀は丹波攻略だけに専念するわけにはいかなかったのだ。丹波を攻略しながら、北陸方面へ参戦(1575年8月)、石山本願寺攻め(1576年4~5月)、紀伊雑賀党攻撃(1577年2~6月)、大和の松永弾正の滅亡(157年10月)、播磨攻撃中の秀吉への援軍(78年4~6月)、摂津の荒木村重の謀反鎮圧(78年11~12月)……この頃の光秀の動きは、あまりにも東奔西走なので、なんだかよく判明できないほどである。光秀は、頑張りに頑張っていたのである。


  かくして、1579年8月に丹波国を平定した。さらに、細川幽斎と協力して丹後国も平定した。信長は大いに喜んで、1580年8月、光秀は丹波一国(29万石)を与えた。光秀は近江の5万石と合わせ34万石となった。 


 この時期の織田軍諸将のランクは、徳川家康は別格として、第1ランクに譜代の重臣である佐久間信盛と柴田勝家、第2ランクに光秀と秀吉がいた。すでに、丹羽長秀、滝川一益を完全に追い抜いていた。光秀と秀吉を比べれば、光秀のほうが確実にリードしていた。 


 光秀が丹波一国を拝領した数日後、織田軍事会社の大人事異動が発令された。佐久間信盛が、無能の役立たずとして、高野山へ追放されたのだ。その時の信長の『佐久間信盛折檻状』には、軍功顕著な武将として、光秀、秀吉、勝家の3人をあげ、特に光秀の活躍を「丹波での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛している。

  そして、佐久間信盛が管理していた近畿一帯の武将、大和の筒井順慶、摂津の池田恒興、高山右近らが、ごっそり光秀の配下になった。光秀は、「近畿方面軍区司令官」に昇格したのである。  誰が考えても、北陸軍区よりも、近畿軍区の方が格上である。つまり、光秀は織田軍事会社のナンバー2になった。ただし、ナンバー1は絶対権力者である。 


 1581年6月、光秀は家法『明智家法』を定め、その後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召し出し、その上莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と信長への大きな感謝を記している。ひたすら黙々と頑張り頑張った超真面目人間の言葉である。これからも、信長様のため頑張るぞ~! 


(5)仕事がない!


  超真面目人間の光秀は、信長様のため頑張るぞ~、と決意を新たにしたのだが、ふと思うと、活躍できる仕事がないのでは……。振り返れば、1568年9月の足利義昭を奉じての上洛以後、14年間、日々、生死をかけた戦いの連続だった。自分が命がけで頑張らねばならない仕事場は次々にあった。それが、絶対君主に次ぐナンバー2に上りつめたら、大舞台の仕事場がない。


  近畿軍区は平定されてしまっているから、光秀の出番がない。


  秀吉はすでに中国の毛利攻めを開始しており、その応援で中国方面へ参陣しても秀吉の手柄になるだけ。光秀の武功になるわけではない。


  甲斐の武田勝頼討伐は、1582年2月に急遽開始されたが、これも同じことで、滝川一益や徳川家康の手柄になるだけ。実際、光秀は「京・近畿を守る」役割で武田攻めに参陣していない。同年3月には武田氏消滅。 


 超真面目人間(=仕事中毒人間)にとって、仕事がないと不安になる。仕事をしないと、ナンバー2であっても、佐久間信盛のように追放されてしまうかも…。 


 新規大事業はないか。四国がある。


  もともと信長と土佐・長宗我部とのパイプ役は光秀が担当していた。しかし、1582年2~3月頃、信長と長宗我部の仲は決裂した。 


 1582年5月7日、四国征伐の人事が発表された。大将には織田信孝(信長の3男)、副将には織田信澄(信長の弟の子、妻は光秀の娘)と丹羽長秀(織田譜代の家臣で、柴田勝家に次ぐ地位)であり、先鋒には三好康長であった。 


 この人事に光秀はショックを受けた。世間で言う「織田5大軍団」が確定されたのだ。近畿軍区が明智光秀、北陸軍区が柴田勝家、中国軍区が羽柴(豊臣)秀吉、関東軍区が滝川一益、そして、四国軍区が丹羽長秀となったのだ。


  光秀の近畿軍区以外は平定されていないから、仕事がいっぱいある。三好康長は秀吉との関係が深い。織田信澄は光秀の立場を考えての人事だろうが、飾り物にすぎない。光秀は「遊軍」になったのだ。光秀は「窓際族」の悲哀を感じた。 


 むろん、光秀には近畿で朝廷、寺社、外人、堺商人との折衝など、いわば内政の仕事があるのだが、それらは諸将からは「お遊び」に準ずるものとみなされる。「武功」がないと、第2の佐久間信盛になってしまうかも……。 


 子のない秀吉は信長の四男・秀勝を養子にしている。勝家は信長の姉・お市を妻にしている。ナンバー2が、ナンバー3に下がっても、いやナンバー4でも5に下がってもいい。武功をあげ続けていれば、ランクが若干低下しても明智家は安泰だろう。しかし、武功をあげる仕事場がない。


  信長のイジメにあった時も、「自分だけじゃない。家康は、信長の邪推で我が子を殺さねばならなかた。勝家だって秀吉だって、上様からひどく叱られる。しかし黙々と、実績さえあげていれば上様は認めてくれる」と粉骨砕身、頑張ってきた。  信長の光秀イジメの逸話は非常に多い。 


➀信長と重臣たちの宴会途中、光秀が厠に立ったら信長は激怒して槍で脅した。酒が弱いのに無理やり飲ませた。宴会中の乱暴・喧嘩は、信長ならずとも、よくある出来事である。それと謀反を結びつけるのは、短絡すぎるのではないか。 


②武田勝頼を滅亡させた直後、諏訪法華寺の本陣で、光秀も近畿からお祝い言上に駆け付けた。「こんなに目出度いことはない。われらも骨を折ったかいがあった」と祝ったら、信長は「おまえがどこで骨を折ったのか」とキレてしまい、光秀の頭を欄干に打ち据えた。後世(40年後)の創作話のようだ。 


③稲葉一鉄は斎藤道三の家臣であったが信長に寝返った。稲葉一鉄の家臣に斎藤利三がいた。二人は喧嘩別れして、斎藤利三は親戚の明智光秀を頼り光秀の家臣となった。稲葉が信長に苦情を言ったら、信長は光秀に「返してやれ」と指示した。光秀は「家臣は宝」と言って拒否した。信長は激怒して光秀を投げ飛ばした。その後、斎藤利三は明智家の家老になった。


  信長は、癇癪持ち、すぐキレるタイプだったのだろう。光秀一人がイジメられたのではない。徳川家康へのイジメなんかは中途半端じゃない。みんな忍耐している。仕事さえしていれば、武功さえあげていれば…。 


(6)謀反の真実 


 1582年5月7日、四国征伐の人事発表。


  同年5月14日、光秀は安土城へ来た家康役を命じる。光秀は、この接待役でも徹底的にイジメられたとする創作話もある。


  同年5月17日、秀吉より信長へ「援軍頼む」の知らせが到着した。西国最大の大名・毛利輝元が毛利本軍を率いてきたのだ。信長は、一挙に雌雄を決するべく、自らを総大将として出陣を表明し、光秀ら諸将に出陣を命じた。


  このとき、光秀は「丹波国及び近江坂本」から「出雲・岩見二国」への国替えを命じられたとする説もある。出雲・岩見は毛利の領地である。この国替えが事実なら謀反原因の本命だが、これも創作話である。 


 光秀は出陣準備のため、その日のうちに近江坂本城に帰った。光秀の本拠地はすでに丹波国亀山城に移っており、坂本城は支城となっている。


  超真面目仕事中毒人間は、ストレス解消方法を知らない。勝家なら大酒飲んで部下に八つ当たりして気分を晴らす。秀吉なら美女を侍らせてストレス解消である。光秀の最愛の妻・ひろ子は1576年に病死(42歳)している。妻と語り合うこともできない。


  横道に話がそれるが、ストレス解消法について。放置していると「うつ病」になってしまうので。某政治学者は、上役は部下を叱ってストレス解消。部下は会社でのストレスを家でカミさんにぶつける。カミさんは子供にあたる。子供は猫を蹴とばす。弱い者へ、弱い者へとストレスが移動する、これが日本社会のゆがみで、あれやこれや……とか書いてあった。そうならないための処方箋です。 


①運動・スポーツ(筋トレ、ランニング、ダンスなど)をする。 


②映画館で「泣ける映画」を見て、遠慮なく涙を流す。悲しい映画でも感動的な映画でもOKです。 


③茶碗を壊す、紙を破るなど、壊しても大丈夫なものを破壊する。案外、新しい商売になるかも。 


④心を許す友人、できれば朗らかな友人とおしゃべりする。 


⑤とにかく大声で叫ぶ。穴を掘って穴に向かって叫ぶ。「王様の耳はロバの耳」方式。 


⑥風呂にゆったり入る。ローマ帝国はこれで市民のストレスを解消させた。 


⑦手でも耳でも自分のストレス解消の「つぼ」を見つける。その他いろいろ。 


 超真面目仕事中毒人間の光秀はストレス解消法を知らなかった。合理主義者だから論理的に考えてしまい、ドツボにはまってしまった。 


 このままでは、佐久間信盛のように「没落」しかない。今なら、天井をぶち破ることができるかも……。


  勝家は北陸で上杉と対峙して動けない。 


 秀吉も中国で毛利と対峙して動けない。 


 滝川一益は遠くの関東上州にいる。 


 家康は少人数で堺で遊んでいる。 


 信長の嫡子・織田信忠は尾張・美濃の120万石の大々名だが、軍勢は尾張・美濃に残したまま、少人数で京都妙覚寺に滞在している。 


 信長の二男・織田信雄は領国の伊勢にいるが、自衛程度の兵力しかない。 


 丹羽長秀と三男・織田信孝は四国征伐の準備で大阪にいる。渡海は6月1~2日。 


 織田五大軍団長、信長の3人の息子、家康、その中で兵力を京に集中できるのは自分しかいない。光秀の合理的思考は、「没落」と「謀反」の二者択一のドツボにはまってしまったのだ。 


 5月26日、丹波の亀山城に入る。 


 5月27日、亀山城の守護神である愛宕山で籤を引く。迷い迷って何回も引いた。合理主義者も最後の決断は籤に頼った。 


 5月28日、連歌師・里村紹巴らと連歌を詠む。光秀の発句は       


 時は今あめが下しる五月哉 である。「時」は「土岐」と同音で、天下をとる決意を秘めていると解釈されている。重大決意のため放心状態の光秀は、笹ちまきを笹といっしょに食べたり、突然独り言を口走った。 


 6月1日午後6時、亀山城にて出陣の準備完了。その夜、重臣の明智秀満、斎藤利三ら数人に打ち明ける。午後10時出発。 


 6月2日午前1時、老ノ坂で夜食休息。右へ下れば備中への道であるが、左へ下った。桂川を渡り終えると、鉄砲の火縄を点火させ、「敵は本能寺にあり」と号令。午後4時、本能寺を奇襲、信長殺害に成功。次いで、信長の嫡子・信忠も二条城にて自決。光秀の謀反は成功した。 


 しかし、周知のごとく秀吉の「中国大返し」によって、光秀は「三日天下」に終わる。 


 謀反の原因を、信長の朝廷消滅計画を阻止するため、足利幕府復活計画、信長の家康暗殺計画を阻止するため、などがある。あるいは、光秀単独犯ではなく、秀吉との共謀説、家康との共謀説、長宗我部との共謀説、足利義昭との共謀説などもある。光秀謀反の謎に関しては、数十の謎解きがあり、真実はタイムマシンが完成しないとわかりません。


  なお、光秀の刎頸の友、細川幽斎ですら光秀からの再三の要請にもかかわらず、光秀に従わなかった。光秀一人が悩み決行したから、誰も味方しなかった。


  蛇足であるが、光秀は山崎の合戦(6月13日)で破れ、その深夜、落ち武者狩りの百姓の竹槍で深手をおい、自害した。しかし、死んではおらず、徳川家康のブレーンである天海僧正(?~1643年)とは明智光秀であるというフィクションが明治時代につくられた。おもしろすぎるので、かなり有名なお話となっている。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。