天気予報の画面に表示される最低気温は、この時期、都市部でもまだ一桁の数字であることが多いが、外を歩いていて頬に感じる陽光は確実に力強く、早春であることを主張している。冬至からはや2ヵ月が過ぎた。今年は気温が低めで梅の花の見頃は例年より1〜2週間遅いそうだが、ダウンコートを着て見廻りに出た薬草園で、マンサクが地味に満開の花をつけており、植物界の一年の始まりを感じさせる。旧暦の正月がこの時期であることに妙に納得してしまう。 (マンサク)



  ウメが開花するそばでアンズの蕾が幾分膨らむが、近い親戚のはずのモモはまだ素っ気なく、蕾になるはずの芽がようやく目立つようになったばかりである。ウメは花見にはまだ肌寒いこの時期に開花し、以降、気温の上昇に伴ってアンズ、モモ、スモモ、ユスラウメ、ニワウメ、オオシマザクラなど、よく似た形状の花を咲かせる植物たちが次々に開花する。写真を並べてみたが、どれがどれだかお分かりになるだろうか。 (1)


 


(2)



 (3)



 (4)


 


(5)



 (6)



  桃の節句が3月上旬であるので、この時期にモモの花が咲くのだと思っておられる方もあるかもしれないが、モモの花が野外で咲くのは旧暦の3月上旬ごろであって、もう少し先の話である。花屋に並ぶモモの枝は、様々な工夫で開花をこの時期に合わせて出荷されたものである。モモは江戸時代以降、花を愛でる植物として育種が盛んに行われ、たくさんの園芸品種が出来上がったそうである。暖房としては火鉢に練炭くらいしかなかった時代に、ようやく春が来てお城の庭を散歩したい陽気になった頃、ちょうど開花期を迎える花木として重宝された、ということであろうか。近年よりは江戸時代の方が新品種づくりがよほど盛んだったという話もある。 


 花を観賞するモモは“ハナモモ”と称されて、果実はつかないことはないが、ついても小さく、いわゆる食用の桃にはならない。他方、モモには果実を楽しむための品種もたくさんあって、日本でおなじみの白桃のほか、缶詰でお目にかかることが多い黄桃、また一見、傷ついたまま大きくなってしまったのかと思う形の蟠桃(バントウ)などもある。蟠桃は四角くて真ん中が凹んだ妙な形であるが、果肉の味はよく、非常に甘いものが多い。 


 桃は果物の中では比較的古い時代から日本人の生活の中にあったようで、ヒトの集落の遺跡からしばしば発見されるそうである。しかし、食料の貯蔵場所やゴミ捨て場、トイレ跡などから発見されるのではなく、モモは、集落の境界あたりや広場のようなところなど、生活場所というよりは祭祀等を行ったと考えた方が合理的な状況で見つかるらしい。すなわち、モモの実は昔は食べるものというよりは呪い(まじない)や儀式などに好んで用いられ、魔除けのような、ある種の霊力が備わっていると考えられていたようなのである。 


 モモのタネは現代では薬用にされる。タネといっても硬い核の中にある仁、わかりやすく言えばアーモンドの可食部に相当する部分で、桃仁(トウニン)と称され、漢方処方や生薬製剤類に配合される。見た目もアーモンドそっくりである。期待される薬効は、少々説明がややこしくなるが、漢方で言うところの身体の健康を司る3つの要素に「気(き)」「血(けつ)」「水(すい)」があり、これらはそれぞれ身体の中を巡りながら健康状態維持に寄与しているのだが、このうちの「血」が身体のどこか一部で滞ってしまっている状態、これを瘀血(おけつ)と称し、この瘀血を解消して瘀血が原因の不調を取り除く働きをする生薬が駆瘀血薬(くおけつやく)で、桃仁はこの駆瘀血薬であるとされている。瘀血は婦人科系疾患と関係が深く、桃仁が配合される漢方処方には婦人科系疾患に使われるものも多い。 


 桃仁によく似た生薬に杏仁(キョウニン)がある。杏仁はアンズの果実の仁であり、見た目も成分も桃仁にそっくりである。しかし、期待される薬効は異なっている。杏仁は主に鎮咳薬として使われるのである。成分まで類似していても異なる薬効を期待される桃仁と杏仁。この使い分けの理由は西洋哲学ベースの研究ではまだ解き明かされていない。経験に基づく伝統医学の懐が深いところである。 


 なお、前半で示した花の写真はそれぞれ(1)オオシマザクラ、(2)モモ(ハナモモ)、(3)ユスラウメ、(4)アンズ、(5)ニワウメ、(6)スモモ、である。 


・・・・・・・・・・・・・・・・・

 伊藤美千穂(いとうみちほ)  1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。