(1)前置き
まず、山東京伝(1761~1816年、享年56歳)の全体イメージ。一応、戯作者、浮世絵師ということだが、そう単純に言えない。とても多方面の分野で才能を発揮しているのだ。
➀浮世絵師としては、北尾政演(まさのぶ)の名前を用いた。
②商人であった。自分の創作デザインが売上向上をもたらした。
③戯作者であった。「戯作」とは、「たわむれに書いたもの」の意味で、江戸時代後半の大衆向け、通俗的な読み物を言う。山東京伝は当時、一番人気の戯作者であった。「草双紙」だけでなく、俳句、狂歌、漢詩、商品広告、随筆なども書いた。さらには、近世風俗の考証研究もした。江戸時代後半の大衆文化に大きな影響を及ぼしただけでなく、今日の東京文化も京伝と深層で繋がっているようだ。
④「寛政の改革」の出版統制によって、1789年(寛政元年)に罰金刑、1791年(寛政3年)には手錠50日の処分となる(31歳)。
⑤当時の社交・娯楽の最たるものは、遊郭(江戸にあっては吉原)と芝居である。当然、熟知していた。
⑥「粋」人、「通」人であった。「粋」は、「いき」とも「すい」とも呼ぶ。「いき」と「すい」と「つう」には微妙な相違があるとする解説もあるが、細かいことは抜きにして、ファッション、所作が洗練されて、格好よく、遊び方(とりわけ吉原での遊び)を知っていて、なによりも人情を深く知っている、という意味であろう。研究者の中には、江戸後期の最高の「粋」人、「通」人と評している。
⑦誠の恋愛結婚をした。
山東京伝は、大衆芸術においても当時ナンバーワンであると同時に、生き方においても「通」人ナンバーワンであった。
(2)とてもいい環境に育つ
深川木場の質屋伊勢屋の奉公人伝左衛門は、伊勢屋の長女と結婚して、伊勢屋を継いだ。つまり婿養子である。長女は尾張藩の奥女中を長く勤めていた。それが、京伝の両親である。京伝の家庭環境は豪商ではないにしろ、大店である。母は奥女中であったから、いわばインテリであった。両親は、息子をおおらかに育てたようだ。青年になって吉原へ通うようになっても、さほど干渉もしなければ小言も言わなかった。金に不自由することなく、両親の愛いっぱいの中、のびのびと育ったわけだ。
9歳で寺子屋へ入学し、14歳で長唄・三味線を習い、15歳の時(1775年)、浮世絵師・北尾重政(1739~1820年)に入門する。現代感覚ならは、14歳で声楽・ギターを習い、15歳で美術学校に入学という感じである。北尾重政は浮世絵北尾派の祖である。同時代の歌川豊春(1735~1814年)は歌川派の祖である。この時期、この2人が浮世絵界をリードした。だから、京伝は一流個別指導美術学校に入学したわけだ。京伝は浮世絵を習いながら、戯作、狂歌、俳句、川柳などを多方面に才能を伸ばしていった。 多才能に加えて、ハンサム、頭脳明晰、他人おもいの優しい人であった。卑屈、ひがみ、妬み……そんな精神とは縁遠い環境に育った。
さて、山東京伝の代表的伝記は、京伝の死から2年後に出版された曲亭(滝沢)馬琴(1767~1848年)の『伊波伝毛乃記』(いわでものき)がある。その意味は「言わなくてもいいこと」である。馬琴は貧乏武士出身である。貧困にもかかわらず若い頃は放蕩していた。武士出身というだけで、プライドが高く尊大な性格である。
馬琴の妻は下駄屋の未亡人である。生活安定のため武士を捨てて入り婿になった。その未亡人は不美人で口やかましく、2人は喧嘩が絶えない。京伝の妻と比較すれば、月とスッポンである。馬琴は、過度な几帳面的性格のためか、貧困経験のためか、金に対しては一銭一厘までこだわった。京伝のおおらかさとは大違いである。馬琴は、生涯不幸な生活であったが、それをエネルギーに変える力があった。
あれやこれやの理由で、馬琴は京伝にかなり世話になっているにもかかわらず、『伊波伝毛乃記』では、京伝を貶める記述が相当ある。京伝を貶めて自分がのし上がる、それが馬琴のエネルギーの源泉かもしれない。だから、「馬琴って、なんて嫌な奴なんだろう」と思ってしまう。芥川龍之介の短編小説『戯作三昧』は、京伝の死から約10年後の馬琴の姿であるが、それを読んでも「馬琴って好きになれない」という感想をもつ。馬琴に関しては、まぁ一般的に、芸術家には奇人変人が多い、というだけのことであるが、それに反して山東京伝はとても「いい人、好ましい人」である。
(3)浮世絵師・黄表紙作家の二刀流
江戸時代の戯作は、草双紙、絵草紙、絵双紙、と呼ばれることが多い。簡単に言えば「絵本」である。1ページの中に絵と文章が半々くらい占めている。 江戸時代の戯作は、主要因は印刷技術の向上にあると思うが、時代とともに進化していく。
➀赤本、黒本、青本の時代。表紙が赤・黒・青であるから、そう呼ばれた。明確な線引きがあるわけではないが、赤本は子供向け、黒本は仇討や武勇伝、青本は芝居の筋書きが書かれた。婦女子向のものが多かったが、次第に男性大人向も普及していった。
②黄表紙の時代。表紙の色が黄色になっただけではない。大人向けの娯楽的な内容で、今の感覚なら「喜劇」が多いような気がする。黄表紙時代の一番人気作家が、山東京伝である。 黄表紙の時代は、1755年に恋川春町(1744~1789年)の『金々先生栄花夢』が出版された時から、1806年に出版された式亭三馬(1776~1822年)の『雷太郎強悪物語』(いかずちたろうごうあくものがたり)を最後とする。
『金々先生栄花夢』は作・画ともに恋川春町で、日本史の高校教科書に必ず題名が載っている。そのストーリーは、主人公金村屋金兵衛は栄華を望んで江戸へ出かける。途中の栗餅屋でうたた寝をして夢を見る。富裕な商人の養子に迎えられ、取巻きに「金々先生」とおだてられ、金にあかせて遊興に耽る。吉原、深川の遊女の手練手管で金を使い果たし、それでも品川の色町へ通う。養父は怒って家から追い出す。そこで夢から覚める。遊興三昧も栗餅一個も同じ楽しみ、と悟って江戸をあきらめ郷里へ帰る。
『金々先生栄花夢』が画期的な作品である理由は、大人向けストーリーだけのことではない。絵と文章の相互補完関係が強い。現代の「劇画」に通じるような気がする。文章においても、パロディ、語呂合わせ、洒落言葉、言葉遊びがふんだんにある。そして、風刺的発想や「穿ち」(うがち、遊里の細部を描く、秘密を暴露する)の発想も人気の秘密であった。
『雷太郎強悪物語』は、式亭三馬作・豊国画である。ストーリーは、雷太郎、無理太郎の2人は殺人・強盗など悪事を重ねて諸国を回る。被害者の家族が浅草の観音様のお導きで敵を討つ。
③合巻の時代。当時の草双紙は、紙1枚(1丁)の表面を、右と左に分けて書く。裏面は白紙。5枚(5丁)で10ページ。それを袋とじにして1巻(1冊)とする。通常、2巻か3巻である。それが、次第に長編へと進化した。『雷太郎強悪物語』は前編5巻・後編5巻である。そのため、出版界は「黄表紙」の呼称を止めて、「合巻」と呼ぶことになった。
『雷太郎強悪物語』は最後の黄表紙であると同時に「合巻」の出発点でもある。文学史上は意味があるかも知れないが、要するに、作品が長くなっただけのことである。
さて本題に戻って……。
黄表紙は、絵と作の複合作品である。山東京伝は両方の才能に恵まれた。処女作品は、よくわからない。あれこれの作品名が候補に上がっているが、仮に、京伝の作・画としても未熟な作品ということになっている。いかに才能があるにしろ、最初の一作から、スゴイ作品ということは難しいだろう。
明確な処女作は『娘敵討古郷錦』(むすめかたきうちこきょうのにしき)である。1781年、20歳である。文章は読んでいないが、振袖美人の敵討ちである。16枚目の絵は、振袖姿で日本刀である。カッコいい!
同年には、『米饅頭始』(よねまんじゅうのはじまり)がある。町人幸吉と腰元およねが駆け落ちし、苦労して、饅頭屋の店を出して、めでたし、めでたし。米饅頭は、その頃、大流行していた饅頭である。およねの顔は京伝が通っていた吉原の遊女菊園(妻になってお菊)ということらしい。
山東京伝は着々と文化人の地位を築いていった。出版商人の蔦屋重三郎(1750~1797年)は才能ありと認めた。蔦屋重三郎に関しては、「昔人の物語(23) 蔦屋重三郎」を参照ください。蔦屋の接待もあって、先輩の恋川春町、狂歌の大田蜀山人らと吉原で頻繁に遊ぶ。そして、1782年(天明2年)22歳、『御存商売物』(ごぞんじのしょうばいもの)は、大田蜀山人の黄表紙評判記『岡目八目』で最高作品と評された。今で言えば、直木賞受賞である。この時、ペンネームを山東京伝とした。若き山東京伝は一躍注目の人になった。
『御存商売物』のストーリーは、擬人化された赤本、黒本、青本、一枚絵、錦絵、源氏物語、唐詩選、徒然草、長唄本、義太夫本など江戸出版界が続々と登場して、娘かどわかしのストーリーを演じる。
文壇デビューした山東京伝は、多方面の作品をドンドン発表した。1783~1785年の3年間で目についたものだけでも、『小紋裁』(図案集)、『新美人合自筆鏡』(錦絵)、『客人女郎』(黄表紙)、『たなぐひあはせ』(手ぬぐい図案集)、『床喜草』(艶本)、『不案配即席料理』(黄表紙)、『艶本枕言葉』(艶本)、『息子部屋』(洒落本)、『古今狂歌袋』(興歌人肖像集)がある。
そして、1785年(天明5年)24歳、黄表紙『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)が刊行され大ヒットとなった。これは、山東京伝の最高傑作というだけでなく、黄表紙の最高傑作である。上中下の3巻(3冊)である。
ストーリーは、百万長者の息子艶二郎は、新内節に登場する色男のようになり浮名を流したい。それができたら死んでもいいと馬鹿なことを考えるのであった。そして、次々に、喜劇的な大馬鹿なことをやらかす。「色男はつらいね」は、流行語になった。最後は、改心する。
1786~1788年の3年間も絶好調で数多くの作品を世に出す。『すがほ』(新内の作詞)、『小紋新法』(図案集)、『江戸春一夜千両』(黄表紙)、『客衆肝照子』(洒落本)、『古契三娼』(洒落本)、『時代世話二挺鼓』(黄表紙)、『吉原楊枝』(洒落本)、『傾城觽』(洒落本)などがある。山東京伝は、黄表紙、洒落本の3分の1を占めるくらいビッグになっていた。
(4)出版統制
さて、1786年(天明6年)に田沼意次が失脚した。田沼時代の評価は別にして、文化的には自由な時代であった。1787年から松平定信の「寛政の改革」(1787~1793年)が始まった。文化的には朱子学絶対、御政道風刺などもっての外である。なお、元号の寛政は1789年(寛政元年)~1800年(寛政12年)である。
若き山東京伝は絶好調であるが、有頂天になる性格ではなかった。京伝の人生訓は、次の狂歌に現れている。
身はかろく 持つこそよけれ 軽業の 綱の上なる 人の世わたり
(身軽織輔作……京伝の狂歌名)
山東京伝は儒教重視の幕府方針を感じ取り、1789年(寛政元年)に黄表紙『孔子縞于時藍染』(こうしじまときにあいぞめ)を発表した。孔子の教えが普及するパロディである。絶対権力に服従するしかない江戸市民には、京伝の軽業に、ニヤニヤして喝采した。事実、この政治風刺黄表紙は超大ベストセラーになった。
しかし、戯作者は甘かった。
黄表紙界の大御所である恋川春町は、同じ年1789年(寛政元年)に黄表紙『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)を発表したが、松平定信の文武奨励を風刺したとして、呼び出しを受けた。春町は病気と称して出頭せず、そのまま隠居し、3ヵ月後には死去した。自殺と推理されている。
山東京伝にも出版統制が及んだ。石部琴好作・北尾政演(=山東京伝)画の黄表紙『黒白水鏡』が槍玉にあがり、石部琴好は江戸所払い、山東京伝は罰金刑となった。石部琴好はその後の消息は不明となった。京伝は、以後、他人の挿絵は、若干の例外はあるが、描かなかった。
戯作者山東京伝、出版商人蔦屋重三郎は、改革の対象は武士階級のことと思っていた。恋川春町は武士、石部琴好は商人といっても幕府御用達商人である。それに比べ純粋商人の山東京伝への処罰は軽いものであった。露骨な政治風刺でなければ大丈夫と思っていたようだ。寛政の改革は、文武二道の奨励、質素倹約を理念としていた。2人は、それを読み違えたようだ。
1789年(寛政元年)の罰金刑で、それなりのショックを受けた山東京伝ではあったが、創作意欲は衰えなかった。この年も、黄表紙、洒落本の3分の1以上は京伝の作品で占められていた。
1790年(寛政2年)の黄表紙『心学早染草』は、当時流行の心学を取り入れて、大ベストセラーになった。商人の息子・理太郎に悪魂が入って、理太郎は放蕩し勘当され盗賊にまでなる。しかし、善魂が大きくなり真面目になる。
心学について若干の解説。朱子学は古代儒教、仏教、道教などをごちゃ混ぜにした壮大な体系である。だから、かなり勉強しないと、その体系を理解できない。それでは庶民(とりわけ商人)に普及しないので、滅茶苦茶に簡単したのが心学である。石田梅岩(1685~1744年)が創始者。超簡単に言えば、心の中で、善玉と悪玉が争い、それが人間の行動となる、ということ。京伝は、それを、おもしろおかしく表現したのだ。幕府は、おそらく、京伝は罰金刑で改心したと思って満足したのではなかろうか。
ところが、1791年(寛政3年)、京伝は洒落本3部作とも言うべき『仕懸文庫』(しかけぶんこ)、『青楼昼之世界錦之裏』(せいろうひるのせかいにしきのうら)、『娼妓絹籭』(しょうぎきぬぶるい)を発表した。洒落本の「しゃれ」を「冗談」と勘違いしていた人がいたので、一言だけ。洒落本は、遊郭・花街の遊びを書いたものである。
蔦屋重三郎も山東京伝も寛政の改革の理念のひとつが質素倹約であることを承知していたし、1790年(寛政2年)5月には、出版統制の町触5ヵ条が発令され、検閲がなされ、修正を加えている。だから、大丈夫と思っていたのだろう。他の版元はビビッて洒落本を出版していない。洒落本が店頭にないことと、京伝と蔦屋の「反権力」的出版を庶民は大歓迎して、超大ベストセラーになった。増刷が間に合わない、製本が間に合わない。荷車に印刷した紙と製本のための糸を積んで小売店に運んだ。幕府はびっくりした。
1791年(寛政3年)3月、処分が下される。山東京伝(31歳)は手錠50日間、蔦屋重三郎は財産半分没収、草双紙問屋2人は商売禁止、江戸追放であった。 この処分によって、山東京伝は、子供でも知る超人気者の超有名人になった。
出版統制はどうなったか、と言うと、1792年(寛政4年)には、少々の罰金を払えばOKとなったので、洒落本は復活した。
後日談だが、寛政の改革の張本人である松平定信は引退後、吉原と京伝のファンになった。『吉原十二時絵詞』(作者不明)の詞書(ことばがき)を京伝に依頼して、それを秘蔵して楽しんだ。何と申しましょうか、おもしろいですねぇ。
(5)商店をオープン そもそもベストセラー作家でもその収入は僅かであった。手錠50日の処罰が終わって、しばらく休憩していたようだ。
新生活は、1793年(寛政5年)秋、煙草入れの小売店を開店した(33歳)。商品は漸次種類が増えていった。自分が書いた絵と宣伝文のチラシをまいたり、そのチラシで煙草入れを包んだ。京伝のチラシ欲しさに、商品の売れ行きが伸びた。さらに、『小紋裁』(図案集)、『小紋新法』(図案集)を書いたことからも推理できるように、デザインの才能が商品に生かさた。京伝デザインの袋物や煙管はよく売れて、安定した経営ができた。京伝の言葉に次のものがある。
草双紙の作は、世を渡る家業ありて、かたはらに、なぐさみにすべきものなり。
そうは言っても、やはり山東京伝は作家である。1816年(文化13年)56歳で死去するまで書き続けた。ただし、手錠50日で懲りたので、滑稽本は書かなくなった。
1792年(寛政4年)~1794年(寛政6年)の作品は、『梁山一歩談』(黄表紙)、『天剛垂揚柳』(黄表紙)、『女将門七人化粧』(黄表紙)、『貧富両道中之記』(黄表紙)、『堪忍袋緒〆善玉』(黄表紙)、『松魚智恵袋』(滑稽図案集)、『絵兄弟』(滑稽図案集)、『忠臣蔵前世幕無』(黄表紙)、『忠臣蔵即席料理』(黄表紙)、『金々先生造化夢』(黄表紙)など。
1795年(寛政7年)~1797年(寛政9年)の作品は、『人心鏡写絵』(黄表紙)、『三歳図会稚講釈』(黄表紙)、『嘘生実草紙』(黄表紙)など。
1798年(寛政10年)以降も、同じように続々と書いている。題名を書くのが煩わしいので、省略するが、前述したように、死ぬまで書き続けた。
(6)京伝の妻
京伝の妻は、先妻がお菊、後妻が百合で、2人とも遊女であった。
京伝は19歳の時に、扇屋のお菊(遊女名は菊園)を知った。以来、約10年間、単なる客と遊女の関係ではなく、誠の恋を確かめ合っていた。そのことは、扇屋の抱え主もわかっていた。 1789年(寛政元年)、京伝29歳、お菊26歳である。この年の末で、お菊は満期となり自由の身となる。京伝はお上から出版統制で罰金刑を受けたが、みんな「微罪でよかった」と喜んでいる。
京伝とお菊の結婚の最大障壁は、京伝の母である。インテリの母が遊女を大事な長男の嫁に許すわけがない。京伝もお菊も、思案にくれた。そこに、扇屋の主人が登場する。「家と家の婚姻」ではなく、心底惚れ合った男と女の「誠の恋」の手助けをするのが、男冥利というものだ。扇屋の主人は、当時有名な俳人(文化人)で、俳名を「墨河」と称した。そこで、墨河と京伝の作戦が練られた。
年季が明けると、お菊は一目散に京伝の家に駆けこむ。京伝はびっくり、お菊の真心に感動する。両親も2人の仲を許す。というわけで、1790年2月、2人は結婚した。めでたし、めでたし。
お菊は、京伝の両親によく仕え、よく家事をし、化粧もせず、骨おしみなどせず、気質はおとなしく正直で、ふるまいはしとやかで、申し分のない嫁だった。
手錠50日という京伝最大の危機もお菊の存在がどれだけ京伝の心を慰めたことか。
1793年秋、京伝は煙草入れ屋をオープンした。その冬、お菊は病死する。3年少々の結婚生活だった。
1797年、京伝37歳、吉原の弥八玉屋で玉の井(後妻の百合)20歳と馴染みになる。色白な美人である。1800年、京伝40歳は、玉の井を落籍して妻にした。京伝は、その後は遊里に行かなかった。京伝と百合は温かい家庭をつくった。不幸の底にいた百合の妹も弟も引きとった。そして、京伝が死去すると、その1年後、百合は狂って死ぬ。百合にとって京伝は命であった。
———————————————————— 太田哲二(おおたてつじ) 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。