今週の文春『東大卒58歳元アナウンサーが体当たりルポ 「ブラックバイト」哀史』という記事が哀しい。執筆者は、身内の介護のため毎日放送のアナウンサーを離職してフリージャーナリストとなった中沢彰吾氏。日雇い派遣会社での体験の数々は、潜入ルポなどというきれいごとの話でなく、生活苦を補う“生きるため”のものだった。
中沢氏が狙ったのは、体力に負担の軽そうな試験監督や学会の接客などイベント運営のバイト。求人サイトで目星をつけ派遣会社に申し込む仕組みだが、年齢がネックとなり、10社ほど申し込みを繰り返してやっとのことで登録を果たした。
にもかかわらず、最初に回されたのはイベントとはほど遠い、卓上カレンダーを組み立てる現場だった。罵声を浴びながら秒単位で休みなく作業を強いられる“タコ部屋”である。学会の仕事でも、高年齢を理由に1500円の手当で集合するだけの“待機組”に入れられた。バイトに欠員が出て、首尾よく日勤の“繰り上げ当選”を果たしても、遅刻した若いバイトが現れると、結局は接客でなく、倉庫係として終日荷物を出し入れする重労働に追いやられる。横浜市のイベント会場では、“見栄えのいい若者”が屋内勤務となり、“見苦しい中高年バイト”は吹きさらしの屋外勤務となる現実を思い知らされた……。
安倍政権は、成長戦略として派遣労働のさらなる緩和をめざしている。だが、「柔軟で多様な働き方」という美辞麗句の欺瞞を、中沢氏は《(派遣の拡大後に)待ち受けているのは、中高年が食い物にされる弱肉強食の世界》だと躊躇なく言い切る。
筆者もちょうどリーマンショックの頃、フリー記者稼業に行き詰まり、ハローワークに足を向けた経験がある。すでに50歳に近づこうとする時期。“潰しのきく職能のない中高年”には、生活保護スレスレの選択肢しか残されていないことを痛感させられた。物書きの本業はその後、やや持ち直し現在に至っているものの、それでもなお、このルポには“明日はわが身”の切実さがある。
新潮で興味深かったのは『子供に十字架を背負わせる「キラキラネーム」命名辞典』。笑々寿(えーす)、朱隆(しゅうる)、未桃(みんと)、巴愛灯(はあと)……等々、キテレツな人名ブームを嘆く記事である。
興味深いのはこのブーム、昨日今日に始まったものではなく、明治末期から現れていたらしい。武良温(ぶらうん)、保羅(ぽーろ)、丸楠(まるくす)、弥玲(みれー)などという“珍名”をわが子に与えた親たちが、当時からいたのである。しかも記事によれば、近年のそうした親は、ヤンキー系の人々かと思いきや、意外にも大人しい優等生タイプが多いという。いずれにせよ、あまりにもユニークな名を持つ子供らは、往々にして成人後の社会生活でハンディを負う。記事は、いずれ全国の家裁に“改名手続ラッシュ”が起こる可能性にも触れている。
サンデー毎日で前号から始まった終戦70年特別企画『1億人の戦後史』の2回目に、焼け跡派の作家・野坂昭如氏の「特別寄稿」が載った。アニメ化された直木賞作品『火垂るの墓』は若者にも有名だが、氏は神戸で空襲に遭い一家離散、飢餓生活の中、幼い妹が餓死してしまう、という過酷な少年期を体験している。
野坂氏は寄稿で、そうした日々を回顧するとともに、すべてを忘却しつつある昨今の日本を嘆いている。《戦争は馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいだけじゃなく、むごたらしい。それを後世の人に伝えることは、少しでも戦争を知る者に課せられた義務》。そんな思いの一方で、氏は《最早、手遅れかもしれない》《次は滅びるだけ》と気弱な言葉も漏らしている。
最近、こうした年輩の方々の文章を読む機会が多いのだが、戦争体験者の言葉に耳を貸そうとしない昨今の世相に、似たような絶望を語る人が少なくない。もはやこの国は、落ちるところまで落ちたほうがいい。そうしないと、日本人はもう目覚めないだろう。そんな言葉に触れるたびに、“戦後の残り香”を知る世代のひとりとして、たまらない気持ちになる。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町:フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。