(1)神代から歴史時代 


 古代史は基本的によくわからない。だから奇想天外な説でも受け入れられる。高天原の所在地は『古事記』『日本書記』では、「天上世界」である。現代人にとってあり得ない話なので、直感的に、朝鮮半島の■■、中国大陸の▼▼ではないか、と言われると、「そうかも知れないな~」と、ぼんやり思ってしまう。


  とにかく所在不明の高天原から最高神である天照大神の弟スサノオは、高天原を追放され出雲へ天下る。スサノオの子孫、『古事記』では6代後の子孫が、大国主(おおくにぬし)である。『日本書記』では、大国主は葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させた。葦原中国とは、神が住む「天上世界」と死後の「黄泉世界」の中間にある「地上世界」すなわち日本国土である。


  天照大神の孫のニニギに天孫降臨が命じられる。事前に、大国主から「国譲り」を受ける。だから、当然、出雲へ天下るはずなのに、どうしたことか、日向高千穂峰に降りる。老婆心ながら、7世紀以前の日向は現在の宮崎県と鹿児島県大隅地方(鹿児島県東部)を指す。 


 ニニギのひ孫のイワレヒコに天上世界から東征の命が下り、船団を組んで東へ向かう。「神武東征」である。神軍だから楽勝と思いきや、悪戦苦闘の連続である。河内の長髄彦に破れ、紀伊では女酋長と戦い、彼女をバラバラ死体にし、熊野の海では暴風雨で苦しみ、上陸したら、新たな女酋長と戦い、勝つには勝ったが東征軍はボロボロ状態。見かねた天照大神は、神剣を授けたり、八咫烏を送ったり、黄金の光を放つトビを遣わしたり、やっとのことで東征を果たし、橿原宮で即位し神武天皇となった。即位年は『日本書記』では紀元前660年となっているが、神武東征があったと仮定するならば、4世紀のことだろう。神武天皇も神武東征も創作話であるとする説も強い。


  第2代天皇から第9代天皇までは、「欠史八代」と呼ばれ、『古事記』『日本書記』では、単に名前だけが書かれてあるだけで、業績が書かれていない。その他、あれやこれやの理由で、存在を疑問視する説が有力である。もちろん、実在説もある。「葛城王朝」説、「大和の地方豪族」説などである。 


 第10代が崇神(すじん)天皇である。 


 ここで、「万世一系」論について、若干説明します。「万世一系」論では、日本の天皇制は王朝交代がなく、神代から連綿と続く連続した家系である、という認識にたつ。「古い家系だな~」という感想・気分は、すでに万葉集の時代からあった。しかし、神代から続く「万世一系」を日本国体の根本部分であると強烈に打ち出したのは、明治維新からである。大日本帝国憲法第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記された。明治維新以後、国民に対して、猛烈な洗脳がなされた。しかし、理性の人は異議を唱えていた。例えば、新渡戸稲造(国際連盟事務局長)、宮澤俊義(憲法学者)など、いくらでも名があがる。北一輝(国家社会主義者)も「万世一系」を批判した。


  現在では、「万世一系」は、どう認識されているのだろうか。おそらく、➀神代は神代のこと。②神武、③「欠史八代」、④崇神王朝(10代~14代)、⑤応神王朝(15代~25代)、⑥継体王朝(26代~今)、に分割して考えるのが一般的ではなかろうか。崇神王朝と応神王朝と継体王朝とは、若干の血脈関係はあるかもしれないが、実質的に別王朝であるとみなすのである。素人でも、天皇家系図を眺めれば、応神王朝と継体王朝の断絶は容易に推測できる。  そして、今回の「昔人」である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、崇神王朝の人物である。


  崇神天皇は、税金制度を初めて創設するなど、国家権力を打ち立てた。したがって、「神武天皇=崇神天皇」説もあり、実質的に初代天皇とする見方もある。


  崇神天皇は天照大神を宮中から追い出して、三輪山の大物主神(蛇神)を祀った。だから、天照大神系列ではないと推測される。もっとも、崇神天皇の妻と大物主神が喧嘩して、大物主神が腹を立てて宮中を去ってしまうのだが、なんにしても万世一系とは異質な感じがする。


  崇神天皇の埋葬では、数百人を首から上だけを土から出す残忍な生き埋めを実施し、その泣き叫ぶ声は数十日に及んだ。あまりの悲惨のため、以後、強制殉死は禁止になり埴輪に取って代わった。


  崇神天皇は、北陸方面、東海方面、丹波方面、西海方面の4方面へ四道将軍を派遣して領土拡大をした。領土拡大方針は、崇神天皇の代だけでなく、崇神王朝の基本的性格であった。すなわち、崇神天皇のひ孫にあたる日本武尊の熊襲遠征・蝦夷遠征、そして第14代仲哀天皇の皇后、すなわち神功(じんぐう)皇后の新羅遠征となる。もっとも、神功皇后の新羅遠征の真偽は不明である。


  仲哀天皇と神功皇后の子が第15代応神天皇ということになっているが、『古事記』『日本書記』を素直に読めば、応神天皇は仲哀天皇の子種ではない。誰の子種か。諸説あるが、いずれにしても神功皇后の策謀によって崇神天皇の血脈は抹殺された。つまり、崇神王朝から応神王朝へ「王朝交代」がなされたと推理される。 


(2)兄を殺す 


 さて、本題の「小碓命(おうすのみこと)⇒日本武尊」のお話に移る。


  小碓尊は第12代景行天皇の子供である。景行天皇の子供は、『古事記』によれば、記録に残る子供が21人、記録に残らない子供が59人、合計80人の子供がいた。ということは、いい女と見ればすぐに手を出す性癖なのだろう。そして、ひとりの女性を巡って、景行天皇とその長男・大碓命(おおうすのみこと)の間にトラブルが発生してしまった。そのため、大碓命は、父の景行天皇を不快に思い、顔を出さなくなった。景行天皇は次男の小碓命(後の日本武尊)に、大碓命に顔を出すように言ってくれ、と指示する。小碓命が大碓命に会うと、大碓命は父の悪口を言い出したようだ。そこで、小碓命は大碓命を怪力でもって、「つかみひしぎて」(つかんで押しつぶす)殺してしまった。景行天皇は、小碓命のあまりの乱暴を嫌い、熊襲討伐を命じる。 


 この物語を少し深読みすれば、次期皇位継承を巡る、➀景行天皇と長男・大碓命の争い、②兄弟間の争い、③景行天皇と小碓命(=日本武尊)の争い、この3つが絡まっていると推理される。 


『古事記』『日本書記』を読めば、古代史では、親子・兄弟の血みどろの王権簒奪戦争ばかりである。とてもじゃないが、うるわしい、心温まるお話ではない。


  先に述べた神功皇后と崇神天皇血脈との争いは血統抹殺戦争である。


  応神天皇(第15代)の死後、本命皇位継承者と仁徳との争い、これは本命皇位継承者の自殺という美化された物語になっている。


  仁徳天皇(第16代)の死後では、履中天皇(第17代)は即位前に住吉仲皇子の反乱で難波宮から逃亡せざるを得ず、やっと弟(後の第18代反正天皇)と連合して住吉仲皇子を殺害した。


  第19代允恭天皇死後の皇太子軽皇子と穴穂皇子(後の第20代安康天皇)の争いは、「昔人の物語(19)軽皇子と衣通姫」で述べたように、古代史最高の悲恋物語を生んだ。


  第20代安康天皇は王権をめぐって暗殺され、それを契機に大量の血吹雪が舞い上がり、結局は第21代雄略天皇の時代となる。 


 鳥瞰的に眺めれば、古代史とは王権を巡る血だらけの歴史なのだが、後世の人情は、「皇位争奪に敗れ去った王子」への同情が強くなり「悲劇の王子」の物語創設となったのではなかろうか。いわば「判官びいき」と同列に思う。  なお、『日本書記』には、兄殺しの話はない。 


(3)熊襲征伐 


 小碓命(=日本武尊)は熊襲討伐を命じられた。『古事記』では、従者すら与えられず、叔母・倭姫(伊勢神宮の斎宮)が女性の衣装を授ける。 『日本書記』では、ちゃんと軍勢が従っている。また、「女性の衣装」の話もない。 


 なお、『古事記』『日本書記』の日本武尊物語は、伊勢神宮の権威高揚の仕掛けが随所にある。若干の解説をしておきます。「斎宮」は伊勢神宮の最高位の巫女(天照大神の代理人)で天皇家の処女皇女が就任し伊勢に住む。この伝統は南北朝時代に途絶える。「斎宮」の下のランクに「祭主」があり、現在は池田厚子さんで、「臨時祭主」が黒田清子さん。「祭主」は伊勢に住まなくてもいい。だから、伊勢神宮の本来の権威は斎宮断絶とともに喪失している。 


 さらに余談ながら、在原業平の『伊勢物語』であるが、なぜ名前が「伊勢物語」なのか。王朝時代最高のプレイボーイ在原業平は摂関家のお嬢様を口説き落としただけでなく、伊勢の斎宮と関係を持ったのである。王朝最高スキャンダルだから「伊勢物語」なのである。


  話が脱線したが、本題に戻して…。


  熊襲に入った小碓命は、美少女に変装して宴会に忍び込み、熊襲兄弟の殺害に成功する。この時、弟の熊襲タケルが、小碓命の武勇を称賛して、「タケル」の名前を献上する。これ以後、小碓命は「日本武尊(ヤマトタケル)」と名乗った。 『古事記』と『日本書記』の差は、僅かである。いずれも合戦ではなく女装での騙し討ちである。なんか「卑怯な戦法」という感じを持つが、戦争・侵略とは、勝つためには手段を択ばず、ということのようだ。


  なお、『日本書記』では、熊襲タケルの仲間を皆殺しにした。『肥前国風土記』でも、土蜘蛛の皆殺の記述がある。ジェノサイドがなされたようだ。 


『古事記』では、熊襲平定後、あちこちを平定して、出雲に入る。出雲では、出雲タケルを全く卑怯な騙し討ちで殺す。やっぱり、勝つためには手段を択ばず、である。 


『日本書記』では出雲の話はない。 


(4)東征 


➀出発


『古事記』では、日本武尊が熊襲及び西方を平定して大和へ帰ると、景行天皇はすぐに東方平定を命じる。今度は従者こそいたが、兵士はなし。日本武尊は、「父は私が早く死ねばよいと思っていらっしゃる」と嘆き悲しむ。伊勢神宮の倭姫は、草薙の剣と袋を授け「もし緊急な危険に陥ったら、この袋をほどきなさい」と言って励ました。日本武尊は悲しみ泣きつつ出立したのである。 


『日本書記』では、最初、東方平定には兄・大碓命が将軍に命じられる。前述したように『日本書記』では兄殺しの話がなく、大碓命は生きている。大碓命は怖気づいて就任を拒否する。そこで、日本武尊が自ら立候補する。景行天皇は、日本武尊を賛美し次期天皇の地位を約束する。むろん軍勢も与えられる。倭姫が草薙の剣を授ける話は『古事記』と同じである。日本武尊は自信満々で栄光の出陣をしたのである。 


②尾張で婚約 


『古事記』では、最初、尾張に入り、美夜受(みやず)姫と婚約する。『日本書記』にはない。 


③火攻めでピンチ  相模国(『日本書記では駿河国』)で、野原の中で火攻めにあう。絶体絶命のピンチ、倭姫に貰った袋を思い出し、それを開けたら火打石が入っていた。草薙の剣で周囲の草を刈り、火打石で迎え火をつけて、迫りくる炎を退ける。そして、敵を皆殺しにして死体を焼いた。それゆえ、その地を「焼津」という。蛇足ながら、現在の焼津市は駿河国(静岡県)にある。


  三浦半島横須賀から房総半島上総国へ至るには、走水の海(浦賀水道)を船で渡る。日本武尊が海の神を馬鹿にしたので、海の神が怒り大波を起こした。この大ピンチに際して、后(『日本書記』では妾)の弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水して、海の神の怒りを鎮めた。弟橘姫が入水の時に歌を詠んだ。なお、『日本書記』には歌はない。 


さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火の中に立ちて 問ひし君はも 


現代訳:「さねさし」は相模の枕詞。相模の野原で、火攻めの火の中で立って、(私を大丈夫かと気づかって)問うてくれた君よ。 


 7日後、姫の櫛が岸に流れついたので、御陵を作って櫛を収めた。 


④白い鹿を退治


  足柄の坂で食事をしていると、坂の神が白い鹿になって攻撃してきた。日本武尊は食事の残りの蒜(ひる)の切れ端で鹿を打ったら、蒜の一部が鹿の眼にあたって死んだ。蒜とは、にんにく、のびる、ネギなどのユリ科植物の古名である。古来、薬用植物として知られおり、そのPR話である。 


 この話は、『日本書記』では信濃国での出来事になっていて、明らかに蒜のPR話であることがわかる。


 ⑤「吾妻はや」 


 日本武尊一行は、『古事記』と『日本書記』ではルートは異なるものの、各地を平定する。途中で、場所は定かではないが某所から、東を望んで弟橘姫を思い出し「吾妻はや」(わが妻よ……)と3度嘆いた。そこで、某所から東のほうの国を吾妻と呼ぶようになった。おそらく現在の群馬県吾妻郡(中之条町、長野原町、嬬恋村、草津町、高山村、東吾妻町)であろうと思う。 


⑥甲斐国での連歌  甲斐国の酒折宮での出来事。日本武尊が歌を詠んだ。 


新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 


現代訳:(常陸の)新治(にいはり)・筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか。 


 すると、御火焼(おひたき)の老人が、次のように歌を詠んだ。 


日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を 


現代訳:日数を重ねて、夜は9夜、昼は10日でした。


  日本武尊は老人の聡明さを褒めて国造(くにのみやつこ)に任命した。


  さて、連歌と言えば、「5-7-5」と「7-7」の形式なのだが、これは、「4-7-7」と「5-7-7」である。ところが、鎌倉時代になって、このエピソードをもって、連歌の始まりとされるようになった。であるから、甲斐国(山梨県)の酒折宮には「連歌発祥の地」の碑がある。ただし、観光コースには、まったくなっていない。


  なお、筑波山の筑波山神社にも「連歌発祥の地」の碑がある。これは、連歌が「筑波の道」と呼ばれたりするからであろう。さすがに、ガマの油売りは商売上手である。


  しかしながら、やはり「4-7-7」と「5-7-7」を連歌の発祥であると宣言するのは、いささか無理があるので、一般的には、『万葉集』巻八の「尼と大伴家持」の唱和「佐保(さほ)川の 水を堰(せ)き上げて 植ゑし田を / 刈れる初飯(はついひ)は ひとりなるべし」が、最も古い連歌とされている。歌の表面的な意味は、尼が、一生懸命田をつくりました、と詠う。大伴家持が、そこから収穫された米を食べるのは尼さん一人でしょう、と詠った。ということなのだが、万葉集の前後の歌を読むと結構深読みできて、あれやこれや……、日本武尊からドンドン離れていくので、連歌の話は、ここまで。 


⑦日本武尊一行のコース 


『古事記』と『日本書記』では異なる。『古事記』では、東海、南関東、甲斐、信濃である。『日本書記』では、北関東から東北の仙台あたりまで遠征している。そこは蝦夷の地で日本武尊は姿を見せて「吾は現人神(あらひとがみ)の子なり」と言ったただけで、蝦夷は服従した。 


⑧尾張で美夜受姫と結婚 


 東征をはたし尾張に入る。尾張では、美夜受姫と生理中の初夜合体でめでたく結婚する。そこでの2人のエロい和歌のやり取りが『古事記』に載っている。 


ひさかたの  天の香久山 とかまに   さ渡る鵠(くぐい) ひわぼその  たわや腕(かいな)を まかんとは  吾はすれど さ寝んとは  吾は思えど 汝(な)がきせる 襲(おすひ)の裾(すそ)に 月(つき)立ちにけり 


現代訳:仰ぎ見る天の香久山、鎌のように横切る鵠(くぐいは白鳥の古名)、(そんな)細くたわやかな腕を、抱こうと私はするが、寝ようと私は思うが、あなたが着ている、衣の裾に、月のものが(月のように丸く)出ているよ。(さぁ、私はどうしようか)


  日本武尊の歌に対して、美夜受姫が次の歌で応じた。


 高(たか)光る  日の御子(みこ) やすみしし    我が大君 あらたまの    年(とし)がきふれば あらたまの    月はきへゆく うべなうべな   君待ちがたに 我が着せる  襲(おすひ)の裾(すそ)に 月(つき)立たなんよ 


現代訳:照り輝く御子よ、御威光すぐれた大君よ、新しい年が来て過ぎれば、新しい月は消えていゆきますよ、まったくまったくあなたを待ちきれなくて、私の着ている衣の裾に、月のものが出るのはあたりまえでしょう。 


 婚約して数年間も待たされて、早くしたい早くしたい、おおらかと言うべきか、正直と言うべきか、素朴と言うべきか、ともかくエロい熱情的な歌であります。


⑨伊吹山伝説 


 日本武尊は草薙の剣を新妻に預けて、伊吹山の神なんか素手で討ち取ってやる、と自信満々で山に登る。伊吹山の神は牛のような大きいイノシシの姿で現れた。日本武尊は、これを馬鹿にしたので、神は大氷雨を降らした。日本武尊はフラフラになって山を下ったものの病気になってしまう。 『日本書記』では、イノシシではなく大蛇になっている。 


⑩望郷の歌 


 病身の日本武尊は草薙の剣を新妻の所に置いたまま、故郷の大和へ帰ろうとする。三重の能煩野(のぼの、現在は亀山市)までたどり着く。死期をさとった日本武尊は歌を四首詠う。 


㋑ 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく   青垣 山ごもれる   倭しうるわし 


現代訳:倭は国の中の国である、重なり合っている青い垣根のように、山に囲まれた倭はなんと美しいことか。 


㋺ 命(いのち)の  全(また)けん人は たたみごも    平群(へぐり)の山の 熊がしが葉を   うずにさせ  その子 


現代訳:命の若い健康な人は、いくえにも連なる平群山の、大きな樫の木の葉を、かんざしにさすのがよい、若者よ。当時の邪気払いである。 


㋩ はしけやし 我家の方よ 雲居立ち来も 


現代訳:なつかしい、我が家のほうから、雲が立ち上がりこちらへ来るではないか。 


㊁ 嬢女(おとめ)の 床(とこ)の辺(べ)に 我が置きし つるぎの太刀(たち) その太刀はや 


現代訳:美夜受姫の寝室に、私が置いてきた 草薙の剣、その草薙の剣は、ああ。 


 そして日本武尊は死んだ。その知らせは、駅馬によって大和に知らされた。


 ⑪白鳥伝説 


 死の知らせに、日本武尊の后や子供は、大和から伊勢に来て墓をつくって悲しみ泣いた。すると、墓から白鳥が飛び上がって飛んでいった。白鳥は浜へ海へ磯へと飛んでいった。后や子供は泣きながら白鳥を追いかけた。さらに、河内の志幾(しき)、現在の八尾市に降り立ち留まった。そこで、そこにも墓をつくった。しかし、白鳥はそこからはるか彼方へ飛び去ってしまった。 


『日本書記』でも基本的ストーリーは同じであるが、白鳥が飛んだコースは異なる。いずれにしても、西へ東と遠征の一生と重なる白鳥伝説である。


  なお、草薙の剣は美夜受姫によって尾張の熱田神宮に祭られた。 


(5)語り部たちの集大成か 


 文字のない時代である。各地の豪族が大和朝廷に参内する際、いわば自己紹介をしなければならない。自己紹介に際しては、各地の語り部は上手に自分たちを脚色する。それが積り積もって『古事記』になったのだろう。だから、各地の多くの民間説話が基礎になって物語がつくられていった。 


 全国各地に弘法大師伝説がある。これは各地の民間説話が元で、民間説話を他者に自慢するため弘法大師を付加したものである。弘法大師は実在するが、日本武尊は実在しない可能性が大である。実在したとしても、その真実の姿は、小さいものだろう。水戸黄門は江戸と水戸の周辺を歩いただけだが、いつの間にか全国行脚となっている。そんなものかもしれない。各地の語り部たちの意識の集積体と言うことなのだろう。 


 どんな民間説話が日本武尊物語の材料になったのだろうか。近江・美濃の小碓命伝説、桃太郎や一寸法師の悪人退治と同類の幼童神物語、女装物語、出雲の勢力争い説話、関東に伝わるの山の武王と海の橘后の神話、熱田神宮伝説、伊勢神宮伝説、土師氏の葬送儀礼……などなど。


  さて、そもそもの話であるが、崇神王朝のことである。第10代崇神天皇と、その子第11代垂仁天皇は、実在説が強い。しかし、第12代景行天皇(日本武尊の父)、第13代成務天皇(日本武尊の弟)、第14代仲哀天皇(日本武尊の子、神功皇后の夫)の3代天皇は実在が強く疑われている。だから、そもそも日本武尊の実在も相当怪しい。  ただし、文学的な物語としてならば、日本武尊物語は素晴らしい感動的物語である。 


———————————————————— 太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。