●延命医療拒否という同調圧力


 関西のある大企業の役員OBたちの同期会のようなものにゲストで招かれたことがある。一緒に食事をしながら、その時々のテーマに沿って語り合うという、高学歴集団ならではのお上品な会合ではあるが、やはりリタイア組であり、どうしても話題はどのように最期を迎えるかということで話題はヒートアップした。筆者は、この企業に縁もゆかりもないが、話題提供のような形で参加を求められた。テーマは高齢者医療。 


 テーマが彼らには最も関心があったということもあるが、幹事役、つまり私をゲストに招いた人によれば、いつにもまして活発な議論になったと聞かされた。


  彼らは、ほとんどが「延命医療は受けたくない」と口々に語り、延命医療は心無い医療だとか、医療機関の金儲けだとか、安楽死を認めるべきだなどと批判の先は政府にも及んだ。筆者が「皆さんの議論は先を急ぎ過ぎている」「日本では尊厳死に関する法的対応すら何も進んでいない」と語ると、彼らは非常に不満の様子をあらわにした。情報として尊厳死や、終活がいかにも常識化しており、彼らに一定の誤解さえ与えていることを知らされたが、現実にはこうした誤解は相当に浸透していることも想定させた。 


 後期高齢者の仲間入りをしたというOBのひとりは、財布の中から健康保険証を取り出し、その保険証に「自分は延命医療を望まない」という趣旨の手書きのカードを束ねていた。実際に見せてくれたが、延命医療拒否とともに、その意志は家族も同意していること、意に反して延命医療を実行された場合は訴訟も辞さないなどということが、カードの両面に詳細に示され、捺印もしてあった。同席した人々は、大いに頷き、自分もそうしたカードを準備したいと口々に語った。 


 私は、申し訳ないが、現状では医師にそのカード内容を尊重させ実行させるにはハードルが少々高いと伝えた。場合によっては、医師が刑事罰を受ける恐れさえあり、現行ではこうしたナイーブなテーマは誰も触りたくない現実があることも伝えた。また、家族の同意も、現実にはその場に遭遇すると必ず実行される可能性は疑ったほうがいいとも伝えた。彼らは大いに不満で、結局、講師役の私がかなり厳しい非難を浴びる場面すらあった。 


●エコノミストに蔓延する終末期医療性悪説 


 このエピソードをどのように捉えたらいいのだろうか。整理すれば、すでに高齢者の意識の中には長生きは望む生の形ではないこと、介護など家族に迷惑をかけることはモラルに反するという認識が根付き始めていること、寝たきりは望んではならないこと、特にその状態は医療費の増嵩に結び付き、反社会的状況とも言うべき事態であるという認識にまで高まっていると言える。 


 そして、これが「尊厳死」という言葉の浸透によって生み出された「常識」となり「モラル」となっており、同調圧力にまで発展していることを裏付ける。問題は法的整備がついていけていないのは当然として、こうした考え方が日本という独特の社会構造の中で深く、多様な議論もなく倫理化していくことではないだろうか。


  どんな状態であっても、生きる、生き続けることに価値を見出し、願う人もいるだろう。そういう人を切って捨てる同調圧力が育ち始めていることは、やはり立ち止まって議論をし直すときではないか。そうした考え方をモラル化し、終活にまでジャンプアップすることは、やはり歪な死生観に思える。必要のない人間だからという暴論を根拠に起きた「やまゆり園事件」を鏡として、その思潮を問い直す必要はないのだろうか。 


 それにしても、政府の医療費に対する危機感のプロパガンダは、延命医療拒否の時代認識を煽りまくる。昨年秋に発表された2015年度国民医療費統計は、国民医療費が前年度比3.8%増の42兆3644億円に上り、65歳以上の医療費が占める割合は59.3%で、ついに6割を占めるに至ったと喧伝されている。前年度から0.7ポイントアップである。2015年度は団塊世代がすべて65歳以上になったときである。


  こうした高齢者医療費の背景を終末期医療に挙げる人は多い。ネットをみればそのことに気付く。とくにエコノミストや、規制改革推進派の官僚や学者にはこうした主張がずらりと並んでいる。例えば、経済財政諮問会議の作業チームの一員であった元官僚の学者は、医療のコストパフォーマンスを医療費対延命効果で測定し、一定以下の医療をやらなければいいのではないかと高齢者医療費抑制の処方箋を示している。


  終末期医療はわかっちゃいるけどやめられない「悪い部分」の医療機関が存在することを指摘したうえで、結局、問題解決には終末期医療をどうするかに帰着すると結論を示している。エコノミストにもこうした論理が蔓延しており、終末期医療の医療費を縮小することで医療費の増嵩を食い止めるのが最大の課題だという指摘が主流だ。


  一方で、山形大学の村上正泰教授は、「医薬経済」3月15日号のコラムで、死亡前1ヵ月の医療費は一般診療費全体の3.8%というデータを示しながら、終末期医療費は医療費増加の主要原因ではないし、その医療費削減効果は限定的だとの見解を示している。まさにデータで示すとそうなるのだ。全体に終末期医療にすべての要因があるというプロパガンダは見直されてもいい時期だ。 


●それほど遠くない尊厳死の法制化 


 とは考えるのだが、筆者は終末期医療、延命医療悪玉論が医療費問題上の常識に育ったことを覆すことには悲観的。それは冒頭から延々と示したエピソードのように、終末期医療が医療費増の主犯であるという定説を前提に一般人に浸透し、すでに倫理化した思潮はもう元に戻ることはないと考えるからだ。たぶん、こうした思潮構造を背景に、今後の医療費改定は延命医療削減を誘導することは間違いない。そして、それを補強するために、団塊世代が後期高齢者になる2025年を前に、尊厳死が法制化されるだろうと予測する。健康保険証に束ねられた宣言カードが有効になる日がやってくる。 


 団塊世代は、その塊ゆえに、死生観も同調圧力の中で医療費の調整の役割を担わされることになる。思えば、所得の急増時代にはベースアップの調整役となり、さらに年金でも不安定な雇用政策の中で支給開始年齢の調整弁となった。そして最期の医療も、在宅や高齢者施設で延命医療とは無縁の世界で自分の生と向き合うことを余儀なくされる。


  課題は、実は大変シンプルで、医療経済の問題から見れば、公的保険医療費の抑制さえ果たされればよいのだから、団塊世代の高齢者医療は民間にシフトしていく。つまり、在宅や高齢者施設での看取りまでに至る「医療費」は民間の高コスト市場に委ねられる。塊の分だけ、医療から形を変えた高齢者の終活ビジネスが本格化する。公的保険という枠組みから外れる分だけ、民間事業者の自由度と選択性は高まる。


  富裕な高齢者は、公的保険を食わない市場で延命医療を受けるし、そうでない階層は尊厳死という新たな死生観にからめ捕られて行き場の選択肢は限られる。高齢者医療の大量消費時代は、公的費用から離れるだけで実際は多様なシステムの中で継続されていく。次回からは具体的にどのようなビジネスが台頭しつつあり、成長するのかを観測する。(幸)