週刊誌報道で始まった福田淳一財務事務次官のセクハラ事件は今も続いているが、おかしな対応ばかりが目立つ。


  まず、福田次官が「自分の声かどうかわからない」と言ってセクハラを否定しているのには驚く。麻生太郎財務大臣でさえ、「オレは福田の声だと思う」と語っているのに、自分の声は聞いたことがないから、というのだか笑ってしまう。酔っていたとしてもテープを聞けば、「あぁ、あんなようなことを言ったなぁ」と思い出すはずだ。騒ぎで仕事ができないから、と次官を辞任したが、セクハラは「全体を聞けばわかる」とセクハラを否定した。しかし、本心では、自宅で自分の立場がなくなっているのではないか、と邪推してしまう。


  麻生大臣も「本人がセクハラを否定しているのだから」と福田次官を庇い続けていたのも驚きだ。大臣を辞めたくないからかもしれないが、かつて麻生大臣は「医師は常識に欠ける」と言って物議を醸したことがある。批判されて撤回したが、常識に欠けるのは医師ではなく、麻生大臣のほうではなかろうか。


  財務省の矢野康治官房長の対応にも驚く。福田次官のセクハラを財務省全体の問題に普及させた。テレビのコメンテーターとして登場する元財務省エリートは「先輩には逆らえない」「3年先輩だったら、兄というよりお父さんのような存在」と語っていたのにも驚く。まるで運動部のような話だ。


  もし、これが逆に週刊誌のトップや上司の問題の場合だったら、記者たちは「その問題は本人の問題だから、本人に聞いてくれ」と言うだろう。たとえ、トップや上司から擁護しろ、と言われても、「個人的問題ですから自分で処理してください」と断るだろう。記事の内容についての問題なら、編集部で処理するが、個人的問題はあくまで個人で処理すべき、と判断する。 


 ところが矢野官房長は、そもそもは福田次官が女性記者を馴染みのバーだかクラブだかに呼び出してのセクハラにもかかわらず、財務省として福田次官に聴取して調査結果を発表した。これでは、財務省が主導したセクハラ事件だと宣言したようなものだ。 


 さらにテレビ朝日の発表にも驚く。発表では、被害者がテレ朝の財務省詰め女性記者であること、女性がセクハラを上司に伝えたが、財務省に抗議するでもなく、報道するでもなく、処理したことを認めたうえで、「第三者(週刊新潮)に提供したことは遺憾だ」と言うのである。


  この発言に飛びついた一部の新聞が「テレ朝の女性記者は他社に情報を流した」と問題視し、ネットでは情報ニュースらしきブログが「週刊誌に情報を流すなど、記者としてあるまじき行為だ」と書き込んでいる。さらに自民党の下村博文元文部科学相も「テレビ局の記者が隠し録音して週刊誌に売ること自体、はめられた行為だ」と批判に加わった。


  冗談じゃない。女性記者は記者であるだけでなく、セクハラの被害者である。そもそも、ジャーナリストの使命は、おかしいと思うこと、問題ではないかと判断したこと、素晴らしいと思うことを広く世間に、市民に伝えることである。媒体が新聞であろうが、テレビであろうが、あるいは週刊誌であろうが、月刊誌であろうが、業界紙であろうが、そんなことは問題ではない。自社が伝えないなら、伝える必要があると判断した媒体を通して世間に伝えることこそが、ジャーナリストの使命である。


  自社が目を瞑ったからこそ、週刊誌に情報を流し、広く世間に伝えることができたのではなかろうか。テレ朝の女性記者こそジャーナリストとして称賛すべきだ。マスメディアという巨大な媒体でありながら、自社の女性記者のセクハラ情報を抑え込んだテレビ局が「第三者に流した」などと言える言葉ではない。テレビ局が自ら「テレビはジャーナリズムではない。単なるマスメディアに過ぎない」と白状しているようなものだ。(常)