ある朝、ラジオから時代考証家・山田順子さんのトークが聞こえてきた。話題は江戸時代の見立(みたて)番付、つまり相撲の番付に倣い、さまざまな事物に序列をつけた一覧表のことだ。テーマは料理屋、鰻屋、甘味屋などのグルメから江戸自慢、諸国の温泉、男が正しく生きる道まで多種多様。とはいえ、根拠になる統計があろうはずはなく、あくまで話題のタネとなるようなざっくりとした順位。版元はおそらく瓦版屋だが、番付上で明らかにしてはいない。本は幕府の検閲を受けたが、一枚物は対象外。瓦版で取り上げる天変地異、大火、仇討ち、心中などの事件がないときの「暇ねた」として、同じ形式と技術でできる刷り物を「さぁさ、買った買った、見立番付出たよ~」と売り歩いたのではないかという。お値段は四文(100円)程度。 山田さんの話で見立番付に興味が湧き、少し調べてみることにした。
◆番付はコミュニケーションの手段
瓦版も番付も江戸時代の庶民が最新の情報を得る手段だった。番付の始まりは17世紀中頃、歌舞伎や人形浄瑠璃の興業参加者を列記した興業案内にまで遡る。後に、勧進相撲興業で力士の格付けなどを独特の一枚摺りにするようになった。現在の番付表の中央にもある「蒙御免(ごめんこうむる)」とは、「嫌だと断る」ではなく「寺社奉行の免許を受けた」という意味だった。
その後、18世紀から19世紀にかけて、相撲以外のものを比べて番付に見立てる遊びが流行した。瓦版の「読売」同様、番付は「番附売」が、内容を面白く読み上げながら売り歩いたらしい。
見立番付は役所の許可を得て発行するわけではないので、「蒙御免」の代わりに「為御覧(ごらんのため)」という文字や、題材に合わせたタイトルが書かれることが多かった。当時、横綱は番付上の地位ではなく「横綱(一種のしめ縄)」をつけることを許された力量抜群の大関を指したらしい。そこで、番付上の最高位は「大関」、次いで「関脇」、「小結」、「前頭」の順。東西分けは地理にはこだわらず、題材次第で適当に振り分けられていた。
見立番付は大真面目なランキングというよりは、その話題を論じ合うための話題提供のような位置づけではあったが、中には「いや、ちょっとこの順はちがうんじゃねぇか」と強く異議を唱える輩もいたのだろう。文句を言わせないために、多くの人が納得するようなランキング上位の事物を架空の行司や勧進元などに据えてしまったりした。
◆温泉人気は江戸時代から
見立番付の一例として、江戸後期(1817年)に発行された「諸國温泉功(効)能鑑(かがみ)」には、東西各46の温泉が挙げられ、さらに行司や勧進元(別格の温泉)扱いの「紀州 龍神の湯」、「伊豆 熱海の湯」などを含め、計98もが一覧になっている。この頃には庶民も湯治願いを出して許可を受け、3週間程度滞在療養したり、伊勢参りや金比羅参りの行き帰りに温泉に宿泊したりする例が多かったようだ。
湯治に適する病気は、貝原益軒の『養生訓』以来、外傷(打身、落馬の傷、高所からの落下による打撲傷、刀や槍による傷を意味する金瘡など)、皮膚病(疥癬を意味する皮癬など)、長期にわたって治らない腫れ物、中風(脳卒中の後遺症)、筋肉のひきつり、手足のしびれ、体の冷えによって起こる病気(気鬱、食欲不振、血行不良など)とされてきた。一方、内臓関係の病気には向かず、汗症(汗が多く出る病気)、虚労(結核のように心身が衰弱する病気)、熱症(高熱の出る病気)には禁忌とされ、「湯治がどんな病気にもよいと思うのは大きな誤り」、「益も害もない病気の場合は温泉に入らない方がよい」など、温泉療法の基本は整理されていたようだ。
メディアにとっての「困ったときのランキングもの」、庶民の「ランキング好き」、今につながる「名湯」の数々など、見立番付を眺めていると江戸時代の暮らしがどことなく身近に感じられる(玲)。