(1)『古今和歌集仮名序』 


『古今和歌集』は、以後1000年、日本文化の基礎・基本であった。


  まずは、『古今和歌集』の『仮名序』を読んでください。高校生の頃、読んだ記憶がある人も多いかと思います。全文を記述すると長いので、冒頭文章、六歌仙、最終部分だけを記載します。


  やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける。


  世の中にある人、ことわざ(仕事)しげきものなれば(忙しいため)、心に思うこと、見るもの聞くものにつけて言い出せるなり。


  花に鳴くウグイス、水に住むカワズの声を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌を詠まざりける。


  力をも入れずして、あめつち(天地)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれ(感動)と思わせ、をとこ(男)をむな(女)の仲をも和らげ、猛きものゝふ(武士)の心をも慰むるは、歌なり。


  次いで、歌史、歌論、『万葉集』が述べられ、柿本人麻呂と山部赤人の2人が歌の聖として紹介されている。そして、今より少し前の6人の歌人を紹介する。


  近き世に、その名聞こえたる人は、すなはち、 


①僧正遍照は、歌のさまは得たれども、まこと少なし。たとえば、絵にかけたる女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。 


②在原業平は、その心あまりて言葉足らず。しぼめる花の色なくて匂い残れるがごとし。 


③文屋康秀は、言葉たくみにて、そのさまみにおはず。いはば、商人のよき絹を着たらむがごとし。 


④宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、始め終わり確かならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきの雲にあへるがごとし。詠める歌、多く聞こえねば、かれこれをかよわしてとく知らず(あれこれ比較もできません)。 


⑤小野小町は、古の衣通姫(そとほりひめ)の流なり。あはれなる(趣きがある)ようにて強からず。いはば、よき女の悩める(身分が高い女が病に悩む)ところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。 


⑥大友黒主は、そのさまいやし。いはば、薪(たきぎ)負える山人の花の陰に休めるがごとし。 


 次に、醍醐天皇(885~930年、第60代、在位897~930年)より、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の4人に和歌の収集・編集を命じられ、延喜5年(905年)に奏上されたことが記され、最終部分は和歌の行く末が述べられます。


  人麻呂亡くなりたれど、歌のこと留まれるかな。たとひ、時移り、事去り、楽しび悲しび行き交うとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、まさきの葛(かずら)長く伝わり、鳥の跡久しく留まらば、歌のさまを知り、事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古(いにしえ)をあふぎて、今を恋ざらめかも。(今の世を恋うに違いない)


  この『仮名序』は、紀貫之(866または872~945?年)が書いたもので、和歌への気迫が伝わります。『仮名序』とは別に『真名序』があり、これは漢文で、『古今和歌集』の最後にあります。内容は『仮名序』とほぼ同じです。 『古今和歌集』の選者は4人ですが、実質的には紀貫之です。 『古今和歌集』の収録数は、1111首で、約4割が読み人知らず、約2割が選者4人の歌です。


  入集歌数のランキングは、①紀貫之(選者)102首、②凡河内躬恒(選者)60首、③紀友則(選者)46種、④壬生忠岑(選者)36種、⑤素性(遍照の子)36種、⑥在原業平(六歌仙)30首、⑦伊勢(昔人の物語第1話で登場)22首、⑧遍照(六歌仙)18首、⑨小野小町(六歌仙)17首、⑩藤原興風(下級貴族)17首、⑪清原深養父(清少納言の曽祖父)17首、⑫在原元方(在原業平の孫)14首、⑬大江千里(学者)10首となっています。 


『古今和歌集』は、以後1000年の日本文化の基礎・基本となった。したがって、紀貫之が、以後1000年の日本文化の大ワク組みをつくったと言えます。『古今和歌集』なくして、日本文化はあり得ないと言っても過言ではありません。 


 なお、明治時代になって、『古今和歌集』よりも『万葉集』が高く評価されるようになった。さらに、『古今和歌集』を、「くだらない」「愚劣、低級」と論じる有名文化人も出てきた。西欧文化の大流入の影響かも知れない。さらに、今や「古文よりも英語」になってしまった。日本文化は、どうなってしまうのか……。 


(2)「六歌仙」


  さて、小野小町を含む六歌仙について。


  紀貫之の『仮名序』の6歌人への評論を読めば、思わず「なんじゃこりゃ?」となる。とても歌の仙人への賛嘆には思えない。なんかボロクソに評価しているみたい。しかし、評論とは、そうしたものだと思う。テレビの食べ物番組を見ていると、ひたすら「うまい!」「美味しい!」の連発だけ。あれは、評論ではなく、たんなる宣伝である。


  多くの歌人の中から、紀貫之がいかなる基準で6人を選んだのか。6人は紀貫之の1世代前の人物である。紀貫之が子供の頃、すでに歌人として名高い6人と少々の交流があり、少年紀貫之は6人から大きな影響を受けた、ということかも知れない。


  なんにしても、紀貫之の1世代前にも、多くの歌人がいたわけで、その中から6人だけを『仮名序』で紹介したということは、当時、それなりに名のある歌人であったに違いない。


  気がかりなのは、喜撰法師で、残された和歌は、わずか2首だけです。「六歌仙」にしては寂しすぎます。そこで推理その1、当時、和歌の代詠みが普通に行われていた。地位のある者で和歌の才能がない場合、ゴーストライターに依頼する。喜撰法師は、もっぱらゴーストライターとして活躍していたのかも知れない。推理その2、紀貫之のペンネーム説がある。「喜撰」とは、「古今和歌集の撰者になって、とても喜んでいます」という意味で、紀貫之の名では不味い時に使用したという説です。その他の推理もあるようですが、まぁ「まったくの謎の喜撰法師」であります。仙人だから、当然かも……。 


「六歌仙」を絵に描くと、遍照はイケメンの僧正、在原業平はもちろん超美男子、文屋康秀は商人兼下級貴族、喜撰法師はボロボロ坊主、小野小町は言うまでもなく超美女、大友黒主はゴツイ大男、って感じかな。 


 6人の生没は、遍照は816~890年、在原業平は825~880年、文屋康秀は生年不明~885年(推定)、喜撰法師は生没不明、小野小町は生没不明ながら研究者によると、在原業平と同時代であることは間違いない。大友黒主は生没不明。要するに、紀貫之よりの1世代上の人です。 


 平安時代の貴族社会の人数は、せいぜい2000人程度で、狭い社会である。その狭い社会の中で、歌の名人となれば極めて人数が限られてくる。したがって、6人は相互に交流があったようだ。小野小町と遍照、小野小町と文屋康秀、小野小町と在原業平に関しては、エロっぽい和歌のやり取りが残っています。これに関しては、お後のお楽しみ、ということで。 


 余談ながら、「六歌仙」は江戸時代に大流行した。浮世絵、人形浄瑠璃、歌舞伎などの題材になった。太田蜀山人も狂歌にした。そのなかで落語にもなっている小話をひとつ。さる大名のお座敷で、太田蜀山人が「六歌仙」のお題で狂歌をつくるという趣向があった。蜀山人が、大名に「お題を」と求めたら、その大名もさるもので、「四」と出してきた。「六歌仙」がテーマで、お題は「四」、周りの者は、蜀山人の窮地を楽しんだ。しかしながら、蜀山人は堂々と狂歌を詠いあげた。


  四歌仙 小便に立つ そのあとは 何かひそひそ 小町業平  さすが、あっぱれ太田蜀山人! それにつけても、スケベですねぇー、エロですねぇー。 


(3)秋田湯澤の小町伝説 


 小野小町は、若女~熟女の時代、京で活躍していたことは明確なのだが、幼少期及び晩年はまるでわかっていない。だから、幾多の伝説が生まれた。


  全国に小野という地名が点在しており、そのいくつかには小野小町生誕伝説がありますが、最も有名なのが、秋田県最南部に位置する湯沢市雄勝町です。ここは、かつて小野村がありましたが、戦後、小野村は雄勝町に併合され、さらに雄勝町は湯沢市と合併して、湯沢市雄勝町となっています。ここへ行くと、小野小町の看板とパンフレットがいたる所にあります。 


 秋田と言えば、秋田美人=小野小町です。正確に言えば、湯沢市は秋田県最南部ですから、秋田美人は「秋田全県ではなく秋田南部」ということになります。誰が言い出したか知りませんが、「日本三大美人」は、京美人、博多美人、秋田美人となっています。秋田美人の原因は、諸説あり、最近では遺伝子を根拠とするものもあります。


  秋田県湯沢市雄勝町の「小野小町の生誕と終焉の地」伝説は、そこのパンフレットでは以下のようなものです。


  807年、小野良実(小町の父)が、京から出羽国雄勝郡福富にやってくる。なお、小野良実の実在自体が不確実です。ついでに言えば、『小倉百人一首』に撰ばれている参議篁(たかむら)すなわち小野篁(802~853)が祖父という話もあるが、年齢的にあり得ない。小町は小野篁の養女であったという説のほうが真実に近いようだ。小野篁に関して言えば、実に波乱万丈の生涯で誰もが好きになる正義の人です。ついでに言えば、「三跡」のひとりである書道の名人・小野道風(894~967)は小野篁の孫です。 809年、小町誕生。母は現地の女性。母は産後すぐに亡くなる。 822年、小野良実が京へ帰ることになり、小町(13歳)も一緒に京へ行く。 825年、小町16歳の時、宮中に仕える。 845年、小町36歳の時、故郷が恋しくて出羽国雄勝郡福富へ戻る。 900年、92歳で死去。


  現地でのエピソードとして、有名な「百夜通い」(ももよがよい)があります。小町の後を追って、小町に恋い焦がれていた深草少将も雄勝郡福富へ来る。深草少将はラブレターを送る。それに対して、小町は「忘れずの 元の情の千尋(ちひろ)なる 深き思ひを 海にたとへむ」と返歌した。深草少将は大喜びで面会を求めたが、「百夜連続で通い、芍薬(しゃくやく)を毎夜1株ずつ植えて100株になったら求愛OK」と返事をした。


  この頃、小町は疱瘡にかかっていて、密かに治療していた。100日以内に治るだろうと思っていたのだ。しかし、あぁ無情、深草少将は100本目の芍薬を植える途中、雨に濡れた橋から転落して亡くなってしまった。小町は涙を流しながら、少将の遺体を探し出し、二つ森(旧名は森子山)に埋葬した。その後、世を捨てて岩屋堂にこもり、木製の自像を刻み、92歳で亡くなった。亡骸は深草少将が眠る二つ森に葬られた。お涙頂戴、ありがとうございます。


  現在、伝説の場所は広大な「小町芍薬苑」となっています。芍薬の見頃は6月で、6月には「小町まつり」が開催され、光と音の小野小町と深草少将の悲恋物語が演出されます。本物の秋田美人7人が小町に扮します。


  実は「百夜通い」伝説は、もうひとつあります。小町が京で女官であった頃、深草少将が求愛して、小町が「百夜通い」を求める。小町も次第に少将へ心が移っていく。しかし、あぁ無情、99日夜、少将は雪のため命を落とす。主な舞台は、京都市伏見区の欣浄寺(ごんじょうじ)で、悲恋物語の遺跡・遺物があります。


  さて、深草少将の実在性ですが、実際の深草少将は小町誕生以前に死んでいます。だから、あの人かも、この人かも、と憶測するばかりです。一般的にフィクションと思われていて、そのフィクションを有名にしたのは、世阿弥らの能「百夜通い」です。ただ、「深草帝」(ふかくさのみかど)の存在が気にかかります。


  深草帝とは仁明天皇(第54代、在位833~850年、生810~没850年)のことです。崩御後、御陵の所在地から深草帝と呼ばれた。小野小町は宮中に仕えていたが、仁明天皇の更衣に抜てきされた。更衣とは、天皇ハーレムの中で女御の下位の女性を言う。源氏物語冒頭文章は「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひける中に、いとやむごとなき際にはあらねど、すぐれて時めき給ふありけり」で、その更衣です。「更衣室」からも連想されるように、天皇の服を脱がしたり着せたりする役目だったのが、いつの頃からか、衣服着脱とは別の役割に進化したのが更衣です。


  推定では、842年、小町23歳の時に更衣となった。850年、仁明天皇崩御の時、小町は30歳です。女性として最も輝いている時期、仁明天皇ハーレムで過ごしたのである。だから、小野小町の栄光と深草帝とは密接なる関係があった。後年、小町が「深草のミカド……」を思い出したり、「深草の……」とつぶやいたりするのは当然で、それが、深草少将伝説を生み出したのかもしれない。 


 蛇足ですが、小町は仁明天皇の子である文徳天皇(第55代、在位850~858年、生827~858年)の更衣だったとする説もあります。要するに、親子から同時に寵愛を受けたという刺激的な説です。まぁ、刺激好きな人のフィクションでしょう。 


(4)遍照、文屋康秀、在原業平とのエロっぽいやり取り 


 仁明天皇の時代は、藤原北家が勢力拡大のため権謀術数、策謀謀略が盛んに行使された。病弱かつ優しい性格の仁明天皇は必然的に権力争奪争いではなく、詩歌・管弦の世界へ向かった。藤原北家と無関係の遍照、文屋康秀との和歌の付き合いは、心休まるものであったに違いない。当然、小野小町も、その仲間です。そこは、文芸サロンだった。小町、遍照、文屋康秀は、和歌を通しての仁明天皇の心の友だった。


  仁明天皇生存中は、遍照は僧ではなく天皇の側近官僚であった。850年に天皇が崩御すると、出家して遍照と名乗った。


  出家して間もない頃、小町が一泊していた石上寺に、偶然にも遍照がいることを知り、小町に悪戯心がわいた。出家して修行しているというが、遊び大好きのあの男の心を試してやろう、というわけで遍照へ歌を贈った


 石(いは)の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔(こけ)の衣を 我に貸さなむ 


 現代訳=石上寺、つまり石の上、つまり岩の上で、旅寝をするので大変寒い。岩の上にある「苔の衣」つまり、あなたの僧衣を、私に貸してくださいな。


  それに対する遍照の返歌は、次のもの。 


 世をそむく 苔の衣は ただ一重(ひとえ) 貸さねば疎し いざ二人寝む  


現代訳=世俗に背をそむいて出家した私の衣は1枚しかありません。しかし、あなたに貸さないと嫌われてしまう。ならば、この1枚で二人寝しましょう。 


 2人の関係はエロっぽい歌をやり取りできる信頼関係があるということです。なお、この二つ和歌は『後撰集』にあります。『後撰集』は『古今集』の次の勅撰和歌集です。したがって、これは「百夜通い」のような伝説ではなくて、事実です。


  次に、文屋康秀と小町のやりとりです。これは『古今集』にあります。文屋康秀は50歳前後、小町は35歳前後の出来事です。


  文屋康秀が三河掾(じょう)になった。国司(京から地方へ派遣される国家公務員)は、守(かみ、長官)、介(すけ、次官)、掾(じょう、判官)、目(さかん、主典)の4ランクと史生(ししょう、書記)から成り立っている。それと多数の現地採用の属吏がいる。三河掾になった文屋康秀は、小町に「三河に出かけませんか」と誘った。小町の返事が次の和歌です。


  わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘う水あらば いなむとぞ思ふ 


 現代訳=つらい境遇なので、浮草の根がないように、誘ってくれる人(三河なので水と表現)があれば、行ってもいいですよ。


  この和歌は、文字だけ読むと、小町は文屋康秀の誘いで三河へ行くことになる。しかし、そもそも、この歌は「恋」の巻ではなく「雑下」の巻です。そして、2人は仁明天皇時代は、いわば仁明天皇の心の友という深い絆で結ばれている。いわば親友という気楽さで、冗談ホイホイの軽口で、「三河へいっしょに行きませんか?」と言ったら、小町も冗談ホイホイで「そうだねー、いいわよー」とおどけてみせた。にやにや、おほっほほほ……、という感じです。


  次は在原業平とのやり取りです。『古今集』にあります。日本史最高のプレイボーイ在原業平は、小野小町も口説き落とそうとしていた。 


 秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも あはで寝る夜ぞ ひちまさりける  


現代訳=秋の草野に入ると、笹の朝露で袖が濡れます。それよりも、あなたと会わずにひとりで寝るほうが、涙で袖が濡れます。


  なんとも単刀直入、「あなたと寝たい」というわけです。これに対して、小町はすぐに返歌します。 


 みるめなき わが身を浦と 知らねばや かれなで海人(あま)の 足たゆく来る 


 現代訳=海松布(みるめ、海藻のこと)もない海岸と知らないで、海岸から離れない海人(漁師)が足を引きずってやってくる。「みるめ」は、「海松布」と「(男女が互いに顔を)見る目」の掛詞、「浦」は「憂(う)し」と「怨(うら)む」のダブル掛詞、「かれ」は「離れ」と海松布が「枯れ」の掛詞。


  歌としても小町のほうが優れている感じがします。とにかく、在原業平、小野小町に完敗、ということです。なお、この2首は『伊勢物語』にも登場します。念のため、『古今集』が先で、『伊勢物語』が後の作品です。 


(5)フィクション化する小町 


『小野小町集』には全部で116首の歌がある。しかし、小野小町の真作は、その一部に過ぎない。以下は概略です。第1部は45首で、多くは『古今集』『後撰集』にあるので、真作である。第2部の32首は、小町真作も数首あるが、小町らしい歌ではあるが、断定できない、というものである。第3部の23首は、小町っぽい歌ではあるが、他人の歌と知られているもの。第4部の11首は、「他本歌11首」と書かれてあり、小町の歌ではない。第5部の5首は、最後の1首だけは小町真作であるが、他4首は他人の歌である。 


 これは、どういうことか、と言うと、最初(第1部)は小町の歌を集めた。小町の歌は人気があったのだろう。小町っぽい歌を追加して、第2部、第3部、第4部、第5部と拡大された、ということだろう。 


 同じように小町伝説は拡大した。最も流行ったのは、「衰老零落説話」です。その根本的種は、小町自身の歌にあります。最も有名な小町の歌で、『古今集』『小倉百人一首』に収められている次の一首です。 


 花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に  現代訳=桜の花の色(女性の美)は、衰えていくなぁ、むなしく。私の身に降っている長雨を眺めている間に。 


 この歌は、『新古今和歌集』の選者・藤原定家は「幽玄様」の歌と評しています。藤原定家の父である藤原俊成は「幽玄」を「和歌最高の理念」としています。この歌から、誰しも諸行無常、栄枯盛衰、盛者必衰、生老病死は度し難し……そんなイメージをつかめます。 


 この歌に、前掲の文屋康秀に送った歌を並べれば、簡単に衰老零落説話が出来上がります。あるいは、『小野小町集』のそれらしい歌を並べるだけで衰老零落説話が成り立ちます。


  小野小町の衰老零落説話は数々ありますが、最も有名なのが観阿弥の『卒塔婆小町』でしょう。ストーリーは、次のようなものです。


  高野山の僧が、卒塔婆に腰かけている乞食老女に出合います。僧が説教すると、乞食老女はスゴイ教養を見せつけ僧を言い負かす。僧が礼をつくすと、小野小町と名のる。美貌を誇った昔を懐かしみ、今の有様を嘆き悲しむ。そのとき、深草少将の怨念が憑りつき、小町は「百夜通い」を再現する。狂いからさめて、小町は成仏を願うことが最も重要な人道と悟り、仏法への帰依を決意します。


  他の説話としては、すでに紹介した「百夜通い」のような男を拒否する女のパターン。男を拒否する原因を身体欠陥とする「小町針」の話。各種の雨乞い説話はすべてフィクションです。 


 今回の原稿の冒頭に、『古今和歌集』は、以後1000年、日本文化の基礎・基本であった、と書いた。最後に一言、小野小町の「花の色は……」の一首は、日本人の心に、「無常観」を深く染みつけた。これこそが、小野小町の神髄でしょう。


  なお、『古今和歌集仮名序』にある小野小町の紹介文「小野小町は、古の衣通姫(そとほりひめ)の流なり」に関しては、『昔人の物語・第19話、軽皇子と衣通姫』を参照ください。 


———————————————————— 太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。