週刊文春の新連載、作家・真山仁氏による『ロッキード 角栄はなぜ葬られたのか』に刺激されたのか、今週の新潮には『「金と女」に流儀あり!


 生誕百年「田中角栄」』という特集が載った。少し前の石原慎太郎氏によるベストセラーと言い、“角栄ブーム”なるものはそれこそ数年おきくらいに起きている気がするが、今年の5月4日はかの宰相の生誕100周年という大きな節目だったらしい。


  文春連載の2回目は、米国発のニュースとして浮上したロッキード社の国際的贈賄疑惑が、日本へと飛び火した当初、田中角栄の名はまったく見当たらず、具体的内容が皆目わからないままに、報道がじわじわと広がっていった様子が描かれている。


  新潮記事のほうはまるでニュアンスが異なり、角栄流の金の配り方、人心掌握術に絞った読み物だ。元首相は「金は受け取る側が実は一番つらい。だから、くれてやるといった姿勢は間違っても見せるな」という哲学のもと、政治家から料亭の女将、運転手に至るまで、受け取った側が感激するような渡し方を徹底していたという。叩き上げの土建業者として天下を取った人物らしい逸話である。 


 とは言っても、あのロッキード事件でも自殺者は生まれている。他者の自尊心に細心の気配りをした田中氏でも、自らが窮地となればギリギリまで周辺の人を追い詰めた。となると角栄流の“見事な金の渡し方”の解説から、我々はいったい何を学び取ればいいのか。面白く読める記事だったが、同時にもやもやした読後感も残った。


  もしかしたら文春は、ノンフィクション連載を戦略的に志向し始めたのかもしれない。真山氏の連載に続いて、今週はルポライター内澤旬子氏の『戦慄の同時進行ドキュメント ストーカーとの七百日戦争』という新連載も始めた。別れ話のもつれからストーカー事件の被害者になってしまった筆者による迫真のドキュメントである。相手の豹変から警察に相談に出向くと、自分の知っていた相手のプロフィールはまったくの偽りだったことを捜査員に知らされる。まるで小説のように見事な筆運びだ。


  男女の泥沼の愛憎劇は古来、人々の目を惹きつける。それが当事者によって語られるとなれば、なおさらである。次回以降、社会問題としての広がりも出てくるかもしれないが、初回はまだ、当事者間のもめ事のレベルだ。それでも、雑誌にとって奥深い描写に勝る強みはない、と改めて感じさせる記事だった。


  この1年、モリカケ問題をきっかけに伝統的な保守雑誌、文春・新潮のスタンスが混沌としてきたように見える。何しろ今、あの新潮がセクハラ糾弾の先陣を切っているのである。今週も『「セクハラ罪はない」と強弁した「麻生太郎」は「阿呆太郎」』などとリベラル誌と見紛うタイトルの記事を載せている。 


 前財務次官のスキャンダルが自社スクープだった流れから、当然と言えば当然だが、通常ならこの手のテーマでは、一番チクチクと嫌らしく「オジサン」側の視点から女性を責めるのが新潮の常だった。あくまでも、成り行き上の展開なのだろうが、何とも言えないおかしみがある。逆に言えば、右だ左だというポジショントークがいかに、記事をワンパターン化させてしまうか、とも感じる。混沌とした編集スタンスは雑誌不況の今日では、むしろ好ましい状態のようにさえ思えてくる。 


……………………………………………………………… 三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。