(1)2つの福祉国家


 会津松平家初代藩主である保科正之(1611〜1672)は、会津の地に「福祉国家」を建設した。こう言うと、何をバカなことを、と思われることだろう。


 まず、「福祉国家」の意味を復習してみよう。欧州史では、啓蒙専制君主フリードリヒ大王(在位1740〜1786)が君臨したプロイセンは「福祉国家」と呼ばれる。当時の国家は、秩序維持などに国家機能を限定する夜警国家論が主流であった。しかし、フリードリヒ大王は「君主は国民の第一の下僕である」と宣言し、国民の生活安定確保のため積極的に人道的政策をとった。つまり、欧州史を眺めると、「啓蒙専制君主の福祉国家」が登場し、その後に「近代民主主義の福祉国家」が登場する。


 そんな理解に立てば、フリードリヒ大王よりも100年も前に、保科正之は「福祉国家」を建設したと言える。


 そうは言っても、保科正之は、池田光正、徳川光圀と並ぶ江戸時代前半の「3名君」には違いないが、せいぜい「名君による善政の実行」程度で、「福祉国家」というのは、いささかオーバーな表現ではないか、と思われることだろう。しかし、保科正之は会津の地に「領民が安心して生活できる独特のシステム」を構築し、「不安から解放された領国」を建設したのである。 


(2)会津福祉国家の大黒柱は「社倉法」(しゃそうほう)


 しからば、会津福祉国家とは……。


 保科正之は会津の前藩主に比べ、かなり思い切った年貢の減税を実施しており、これだけでも大変な「善政」である。


 あるいは、諸産物の増産、飢饉対策としての物資の流出防止策、人身売買禁止、流通経路の整備など、さまざまな施策を実施している。


 しかし、何といっても「社倉法」こそは、会津福祉国家の真髄である。


 領民の一番の不安は凶作飢饉だ。飢えれば百姓一揆となる。百姓一揆が発生しないように、藩は「お救い米」を支給して領民を救済する。藩に十分な在庫があればいいが、必ずあるとは限らない。むしろ、ないことのほうが多い。したがって、百姓は常に不安な生活が続く。百姓から、この不安を解消し平穏に暮らせる方途はないものか?


 ある日、保科正之は朱子学の中にヒントを得た。宋の時代、朱子(1130〜1200)が崇安県に設けた社倉法である。 


 言うまでもないことだが、朱子は儒教を体系化した人物で、その教え、朱子学は東アジア全般に普及し、徳川幕府のイデオロギーとなっていた。哲学的評価は別にして、君子権の絶対化、身分制度の厳格化、秩序維持が色濃く、絶対権力者には非常に都合がいい思想である。


 余談だが、朱子学は国教化されるにつれて、単なる知識偏重の体制維持機能だけに堕し、その反動として陽明学が発生する。ほとんど朱子学と同じであるが、ほんの一部に変革・革命を是とする思想が含まれていた。だから、絶対権力者側は陽明学を危険思想として弾圧した。


 話を社倉に戻して……。


 社倉とは、飢饉の時、困窮した農民を救済する倉のことである。その最大の特徴は、管理運営の権限が「官」にあるのではなく「民」にあることだ。藩がお救い米で百姓を救済するのではなく、百姓自身の自力救済を基本としている。


 保科正之はすぐさま実行に移った。


 明暦元年(1655年)、金961両で約7000俵の米を購入し社倉米とした。余った金も社倉金とした。社倉米も社倉金も、領内の代官所に預け、かくして会津の社倉法は出発した。


 凶作飢饉の時、村は石高100石につき8俵を借りられる。他の土地から会津にきた百姓や火災罹災者も米を借りられる。土木治水工事、新田開発工事に従事した場合は、お手当として社倉米または社倉金が支払われる。百姓を表彰する時は、褒美として社倉米が与えられる。病人には治療費薬代として社倉金が与えられた。


 現代なら、生活保護、最低賃金法によるタダ働き禁止、医療保険、火災保険、就職支度金などに相当する。


 借りた米は、次の収穫時に利息2割で社倉へ返却する。当時は4〜5割の利息が普通であったから、大いに感謝された。そして、返済にあたっては百姓の実情を考え、無理のない返済方法がとられた。


 そして、社倉は「民」のものだから、藩財政と完全に分離し流用を厳禁した。


 保科正之は藩財政の黒字の一部も漸次、社倉へ繰り入れた。また、利息も順調に返済され、社倉は発展していった。社倉の数は23ヵ所となり、最大5万俵にまでなった。


 保科正之が作った会津藩家訓15ヵ条の第14条は「社倉は民のためこれを置き、永く利せんとするものなり。歳餓うれば則ち発出してこれをすくうべし。これを他用すべからず。法を犯す者は宥すべからず」とあり、並々ならぬ決意を表している。


 さらに、保科正之は90歳以上の老人全員に対して、すなわち身分の上下、男女の区別に関係なく、掛金なしの終身年金制度を創設した。これは、日本初の年金制度と言われている。さらに、親孝行表彰の終身年金も実施した。


 まさしく会津は福祉国家となったのである。


 だだし、なにせ封建時代のこと、いい話も長続きしない。


 保科正之の死後、会津藩の財政は急速に悪化していく。そのため、社倉も民の救済ではなく、「藩財政の重要な収入」とみなされ、利息目的の「押し貸し」が横行するようになった。そのため、「貸し米拒否」の一揆(1749年の寛延の大一揆)すら勃発したのであった。 


(3)出生の秘密


 さて、保科正之のこうした徹底的な会津福祉国家建設への情熱は、どこから生まれたのだろうか。おそらく「出生の秘密」に隠されているのではなかろうか。彼は、ただの「おぼっちゃまお殿様」ではないのである。それでは、その「出生の秘密」とは、ジャーン、何か?


 2代将軍徳川秀(ひで)忠(ただ)は、当時では珍しい本妻一辺倒のラブラブ夫婦を信条とする男であった。本妻は、浅井3姉妹のお江(ごう)である。浅井長政とお市(織田信長の妹)の間には、茶々(淀君)、お初、お江の3人娘がいたが、その一番下の娘がお江である。


 本妻(お江)一辺倒なのだが、生涯に一度だけ浮気をしてしまった。その結果、誕生したのが保科正之である。


 夫婦円満を第一とする2人であるから、妻は「あなったぁ〜、私以外の女にうつつを抜かしたら、許しませんわよ〜」くらいのことは言う。庶民夫婦の痴話喧嘩での言葉なら何でもないが、天下の将軍様の御正室の御言葉となると、重みがまるで違う。


 お江が言ったかどうかに関係なく、周辺は、「夫婦円満⇒かかあ天下⇒浮気相手の女への弾圧」を推理してしまう。愛人、誕生した子、愛人一族に対して、将軍様の御正室から、密かに弾圧の魔手が伸び、皆殺しになるかも……周辺の者は恐怖でビクビクである。


 だから、将軍の子胤(こたね)を宿した女は、一人静かに江戸城を去り、こっそりと出産し、母子はひっそりと隠れ住むことになる。


 とは言うものの、世の中には、ちゃんと酸いも甘いも知っている人物がいる。老中土井利勝は町奉行に対して特別極秘指令を出し、内々に母子の安全を図ると同時に、内密に将軍秀忠へ母子の暮らしぶりを報告した。


 また、出産・育児については、見性禅尼(けんしょうぜんに)が決死の覚悟でお世話をした。見性禅尼は、武田信玄の次女であり、武田軍団の有力武将穴山信君の未亡人である。お江の密命を下された服部半蔵と武田忍軍残党くノ一の暗闘があったかも……あったらワクワク。


 秘密の養育は継続された。


 7歳の時、見性禅尼と土井利勝は旧武田家臣の信濃高遠藩保科家と話をつけ、正光は信濃高遠藩2万5000石の保科家の養子となる。同時に、高遠藩は5000石が加増され3万石となる。5000石は、いわば養育料であった。


 江戸から高遠への道中も、お江の嫉妬からの追撃が心配され、土井は黒鍬衆を警護に配置した。高遠藩も信濃高遠から屈指の使い手を呼び寄せ道中警護にあたった。しかし、黒鍬衆も高遠藩武士も、この若様が「超大物の御落胤」と推察するのみであった。


 こうした経歴はともすれば「ひがみの人格」の原因になる可能性にもなるが、正之の場合、「立派な人格になれば親子の対面」という母の励ましによって、ひたすら人格形成にプラスに作用したのだろう。


 歳月は流れ、正之が13歳の時、徳川家光が第3代将軍に就任した。家光は、本妻お江の子であり、正之は「腹違いの弟」である。とは言っても、家光は、保科正光が弟なんてことは全然知らない。


 16歳の時、お江が死亡。これにて、「晴れて親子のご対面」の最大障壁がなくなった。しかし、ついに、「父上!」「わが子よ!」の感動シーンは実現しなかった。秀忠は、保科正之を実子と認知せずに死亡したのである。正之が22歳の時である。


 この頃、家光は偶然、保科正之を弟と知った。家光が身分を隠し、5人のお供を連れて目黒の成就院で休息していたら、そこのおしゃべり僧侶が「将軍様には弟君がいらっしゃる。弟君は高遠藩の……」と語ったのを聞いたのが最初らしい。家光の顔色が急変したかどうかは知らないが、その後、成就院は家光からご褒美をいただいている。蛇足ながら、目黒の成就院は通称「たこ薬師」と言われ、「ありがたや福をすいよせるたこ薬師」がPR文句。目黒はサンマだけではないらしい。


 家光としては、親が認知していない保科正之を認知できないから、正式に兄弟の名乗り合いはできない。しかしながら、家光は事実上、正之を弟として扱った。保科正之は、将軍家光の片腕という別格の大名に地位が上昇していく。3万石の信濃高遠藩から、1636年出羽国最上藩20万石へ、そこからさらに、1643年、奥州会津藩23万石に転封され、別途に幕領の南山5万5000石を預かる。会津藩は、保科正之の子孫である会津松平家が幕末まで藩主を務めた。


 保科正之41歳の時、家光死去。家光は臨終に際して、正之を枕頭に呼び、「肥後(正之のこと)よ、宗家を頼みおく」と言い残した。正之は、これを胆に命じて、会津家訓15ヵ条の第1条に「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」と宣言した。会津藩は徳川宗家を守る存在であり、もし藩主が徳川宗家を裏切るようなことがあれば、家臣は従ってはならない、というわけで、時を経て、幕末・維新の会津戦争となる。


 保科正之は会津の藩政のみならず、幕閣の一人あるいは幼少の家綱の後見人として、幕政にも数々の功績を残した。明暦の大火の対策や玉川上水の敷設は、幕府の面子よりも江戸庶民の福祉・幸福を追及した賜物だ。明暦の大火で江戸城天守閣が焼失した。その再建に関して、正之は「天守閣は単に遠くを見るだけのもので実用性がない。そんなものに莫大な出費をすべきでない」と主張し、その結果、江戸城天守閣は再建されなかった。昭和後期に、江戸城天守閣の再建運動があったが、保科正之の精神を思い出してほしいものだ。


 他にも、末期養子の禁止を緩和して浪人発生を減少させ、社会不安を減少させた。また、非人道的な殉死の禁止、大名人質制の廃止を実現した。


 会津保科家が正式に徳川一門として認知されて、松平姓を許されたのは、正之死去から25年後のことである。


 蛇足であるが、保科正之は朱子学の猛烈な心酔者で、他の学問(陽明学)の弾圧に熱心であった。


 また、会津藩家訓15ヵ条の第4条は「婦人女子の言、一切聞くべからず」とあるが、これに関して一言。正之の長女・媛姫(母は継室の於万)は上杉家へ嫁した。その後、4女摩須(母は側室の牛田氏)の前田家への結婚が決まった。正室・継室(後妻)は身分が上の家の女性がなり、側室は身分が下の女性がなる。だから、通常、側室は美女である。継室(後妻)は側室よりも格が上で、継室・於万としては、格下の側室・牛田氏の娘(摩須)が、上杉よりも大藩の前田家へ嫁ぐことに我慢できなかった。そこで、摩須の毒殺を計画した。それが手違いで、我が娘の媛姫が、その毒を飲んで急死した。そんな事件のため、「婦人女子の言、一切聞くべからず」となった。大河ドラマにしたら、面白いと思うのだが……。


------------------------------------------------------------

太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。