近年、科捜研(科学捜査研究所)や監察医が登場するテレビドラマがヒットしたこともあって、「法医学」の存在が一般にも知られるようになってきた。『死体からのメッセージ』は、50年にわたって法医学者として数々の事件や事故に関わってきた著者の記録である。
冒頭の第1章では、法医学の基本事項をわかりやすく解説してあり、この分野に明るくない人でも全体像がつかめる。
例えば、法医学の重要な3つの役割。著者によれば、なかでも〈一番大きな役割は、人が殺される、あるいは死亡事故が発生したとき、その遺体を解剖して真相究明を図〉ること。治療の結果、患者が死亡した場合などに〈医療事故の究明〉も重要な役割だ。そして、もうひとつは、血液型やDNA型の検査などの手法で〈親子関係の鑑定〉をすることである。
外観から真の死因を推定するのは思いのほか難しい。慶応大学医学部の教授だった柳田純一氏の調査では、〈死体を外から検案したときに「これは病死だろう」とか「予想できる死因はこれだろう」とノートに記しておき、実際に行政解剖して判明した死因の結果と照らし合わせると、誤診率が40%近くもあり、予想死因が大幅に外れていた〉という。
にもかかわらず、死因がはっきりしない死体を〈日本の90%ほどの地域では、法医学の専門家がチェックできない状態で、火葬にしている〉という(本書によれば、先進国では異状死体を100%近く解剖している国もあるそうだ)。
第2章以降は、著者の経験した事件やトラブルをもとに、技術の進歩や社会の実態など、法医学にまつわるさまざまなトピックが紹介される。
死亡推定時刻は犯罪者を探すうえで、捜査に重要な情報であるが、「相続」でも重要な情報となる。死亡時刻のずれで、引き継ぐ財産の額や相続人になるかどうかが変わってくるからだ。
阪神・淡路大震災や東日本大震災といった大規模地震、1985年の日航ジャンボ機墜落事故など、多数の死者が出る災害、事故では遺体の損傷が激しかったり、身元がわからないケースがある。こうした災害や事故では、遺体の引き渡しのタイミングや、検査体制の構築など、通常の事件・事故とは別のスキルやノウハウが必要になる。法医学の専門家が現地にいなかった1971年の全日空雫石事故では、〈死亡者162人中7人の遺体取り違え事件が発生してしまった〉という。
■鑑定結果が“無視”されることも
事件が絡んでくるだけに、法医学者は、通常の医師で経験しないであろう実験も行う。1997年人に発生したいわゆる「東電OL殺人事件」では、犯人とされたインドネシア人男性の弁護側から〈射精した精液を、ブルーレットを溶かした便器内の溜まり(古い水)に混合した場合の精子の経時的変化について検討してほしい〉という依頼を受けたという。 もっとも、苦労して提出した鑑定結果でも無視されるケースもある。
東電OL事件では、著者は被告に有利な鑑定結果を提出したが、〈鑑定については一言の文言もないまま無期懲役が確定した〉。
1990年に栃木県足利市の河川敷で少女が死体となって発見された「足利事件」でも、最高裁で著者の「検査報告書」が提出されたが、〈検査報告書については一言も述べていなかった〉という。
幸いこの2件は、報道などを通じて社会的に注目され、あらためてDNA鑑定などが行われた結果、無罪が証明されたケースだが、「思い込み」は誰にも起こり得る。冤罪のリスクは常にあるのだ。専門家が科学的に検証した結果については、裁く側も真摯に耳を傾けるべきだろう。
筆者が今、危惧しているのが、科学が進歩すればするほど、〈人為的に検査結果を捏造することさえ容易にできてしまう可能性〉だ。昨今、さまざまな分野で改ざんや捏造が明るみになっているが、法医学に携わる人々には〈誠実さと慎重さが一層求められ、科学者の良心がまさに問われている〉のである。(鎌)
<書籍データ> 『死体からのメッセージ』 押田茂實著(洋泉社950円+税)