古代史の有力豪族について、若干説明しておきます。


 応神王朝(4世紀末~5世紀)の有力豪族としては、葛城氏が筆頭であった。奈良県の北西部(現在の葛城市、御所市)あたりを本拠にしていた。応神王朝(15代~25代)の仁徳(16代)~仁賢(14代)の9天皇のうち1人を除く8天皇は葛城氏の娘が后妃もしくは母であった。このことは、蘇我氏を語るうえで超重要なことである。


 応神王朝は、大王と葛城氏の両頭政権だったという説がある。また、「欠史八代」は葛城王朝であった、という説もある。さらに、「高天原」とは葛城地方であるという説もある。「高天原=葛城地方」説は、結構有力な説になっているようだ。私の推理では、大王家(天皇家)と葛城家は、当時、同レベルの権威があったのでは、なかろうか。


 しかしながら、葛城氏は5世紀中葉に皇位継承の対立抗争によって衰退していった。


 なお、葛城氏の始祖は、武内宿禰(たけのうちすくね)の子とされている。 


 武内宿禰は、何と申しましょうか、「古代史のキーマン」の感じです。『古事記』『日本書記』では、景行(12代)・成務(13代)・仲哀(14代、皇后が神功)・応神(15代)・仁徳(16代)の歴代天皇に仕えた忠臣。もっとも、仁徳以外は実在しないというのが有力説である。単純に約300歳というあり得ない長寿であることからも、史実と伝説が入り乱れた「謎だらけの武内宿禰」である。


 葛城氏、平群氏、蘇我氏、紀氏、巨勢氏、波多氏などの共通の祖とされている。共通の祖ということは、これらの氏族は「仲よし連合」というわけだ。「仲よし連合(武内宿禰の子孫)」の盟主が葛城氏であったと言える。


 平群氏(へぐりうじ)は奈良市の西部(現在の平群郡平群町)を根拠地とした。葛城氏の衰退・没落後(5世紀中葉)、急きょ勃興したが、5世紀末には武烈天皇の命を受けた大伴金村(5世紀~6世紀)によって、当主親子が殺され、衰退する。


 なお、平群氏の始祖は、武内宿禰の子とされている。


 大伴氏の始祖は、ニニギの天孫降臨の従者2人のうち1人、天忍日命(アメノオシヒ)を始祖とする。根拠地は摂津・河内の沿岸部のようだ。いわゆる軍事氏族である。大伴氏は、葛城氏、平群氏の没落後、急速の勢力を拡大する。全盛期は大伴金村である。しかし、蘇我氏の台頭、および物部氏から任那政策の失敗を追及されて失脚する。ただし、大伴金村は失脚したが、大伴氏全体では、有力豪族として存在した。

 物部氏は奈良県北部から大阪府東部を本拠地とした。始祖はニギハヤヒノミコト(饒速日命)とされている。神武東征において大和地方で抵抗した豪族が奉じる神がニギハヤヒである。ニギハヤヒの正体は謎である。神武東征以前に大和にはすでに王朝(王権)が存在していたのではないか、そんな説もあるようだ。


 物部氏は5世紀の皇位継承抗争において軍事力で台東した。6世紀初頭、物部氏、大伴氏、蘇我氏が有力3氏族となった。大伴金村失脚後は、物部氏と蘇我氏が2大勢力として対立するようになる。 


 蘇我氏の出自は、『古事記』『日本書記』では、武内宿禰が祖であると記されている。そして、突然のように、蘇我稲目(?~570年)からの活動が記される。武内宿禰は伝説・神話の人であるから、稲目より前の蘇我氏の実像はわからない。蘇我氏の本拠地は現在の奈良県橿原市曾我町ということになっているが、諸説ある。いずれにせよ、飛鳥ではない。いつの頃か、飛鳥に移った。飛鳥の地は渡来人集団が非常に多い地域であった。蘇我氏は天皇家のため飛鳥の地を開発することになる。 


 なお、蘇我氏渡来人説がある。面白いので、それなりに流行っているみたい。


 あらかじめ一言。『日本書記』は、蘇我入鹿殺害を正統化する意図をもっている。すなわち、入鹿は極悪人であり、さらに入鹿ひとりではなく蘇我氏それ自体を貶めたいという気分があったと思う。それゆえ、稲目より前の蘇我氏に関しては沈黙したのではなかろうか。 


(2)蘇我稲目 


 蘇我稲目(?~570年)の子が蘇我馬子(?~626年)。馬子の子が蘇我蝦夷(?~645年)。蝦夷の子が蘇我入鹿(?~645年)である。蘇我氏本家は4代で終わる。 


 系図上では、伝説の武内宿禰から蘇我稲目(?~570年)まで人名が連なっているが、はっきりしているのは蘇我稲目からである。稲目の妻は葛城氏の女性であった。葛城氏はかつては最有力実力豪族であったが、すでに衰退していた。でも、葛城氏のブランドは、天皇家に次ぐ高貴なものであった。「稲目は葛城氏の入婿になった」あるいは「稲目は葛城氏を吸収合併した」という事態である。蘇我氏が飛躍的に発展した原因のひとつは、間違いなく「葛城ブランド」の効果である。


  欽明天皇(第29代、在位539~571年、生509年~没571年)は継体天皇(第26代)が父であり、母は応神王朝の2つの血脈を受け継ぐ手白香皇女である。当時、天皇を出す血脈は3集団あり、欽明天皇は3つとも受け継いでいるのである。欽明天皇は分散している天皇血脈を統合した完璧な天皇血脈と認識されたのである。以後の天皇はすべて欽明天皇の血統となった。ここに、血統による世襲皇位継承の「天皇家」が確立したのである。だから、それ以前は「大王」と称したほうがいいのかも知れない。  


 その後宮へ蘇我(=葛城)稲目は2人の娘を送り込んだ。それが可能になったのは、蘇我氏=葛城氏だったからである。冒頭で葛城氏を説明したように、葛城氏は天皇家へ后妃を送り込む名門・名家であったのである。後宮へ入った2人の娘は、18人の皇子・皇女を生み、その中から用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)という3人の蘇我系天皇が即位した。 


 さて、血統による世襲皇位継承の「天皇家」が確立したが、財政基盤の確立のため、各地に「ミヤケ」(屯倉)を設置することとなり、稲目は積極的に取り組んだ。「ミヤケ」に所属する農民を支配・管理するため戸籍も作成した。「ミヤケ」の設置管理のため渡来人の技術・文化を活用したので、蘇我氏と渡来人の関係が深くなった。  


 なお、6世紀前半、仏教伝来によって、崇仏派(革新・開明)の蘇我氏と廃仏派(保守・守旧)の物部氏・中臣氏の対立図式がよく描かれる。これは、ほぼ間違いで、蘇我氏は外来の仏教の管理を天皇家から委託されたに過ぎない。 


(3)蘇我馬子  


 蘇我稲目が亡くなり、蘇我馬子が後を継いだ。なんら問題ないのだが、22歳(推定)の若さである。晩年の稲目は、馬子と蘇我氏の安泰のため、当時の最大実力豪族物部氏との友好親善のため、馬子と物部守屋(?~587年)の妹の結婚を成し遂げた。  


 血脈上実質天皇の初めである欽明天皇(第29代)が571年に崩御し、敏達天皇(第30代、在位572~585年、生538年~没585年)が即位する。敏達の父は欽明天皇、母は宣化天皇(第28代)の娘である。要するに、敏達天皇は蘇我系ではない。そして、敏達天皇の皇后には、推古が就任した。推古は後に第33代天皇になるが、父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘Aである。推古の皇后就任は皇子を生む役割だけでなく、敏達天皇を補佐する役割があったと言われる。推古と敏達天皇の間には2男5女の7人の子が誕生している(その1人が竹田皇子)。推古は『日本書記』に「姿色端麗(みかほきらぎら)しく」とあるように美女であっただけでなく、頭脳明晰であった。それは歴史が証明している。  


 馬子は天皇の経済基盤である「ミヤケ」の拡大とともに、皇后の経済基盤となる私部(きさいちべ)を諸国に設置した。敏達天皇は非蘇我系、皇后推古は蘇我系ということで、皇后の私部は急速に拡大していった。  


 585年、敏達天皇が崩御する。後継天皇は用明天皇(第31代、在位585~587、生?~没587年)に満場一致スンナリ決まるはずであった。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘Aである。つまり、推古と父母を同じくする。ところが、穴穂部皇子(父は欽明、母は稲目の娘B)が異議を叫んだ。これを、物部守屋が支援した。用明天皇が即位しても、穴穂部皇子の皇位への野望は衰えず、こともあろうに、未亡人推古を「奸(おか)さむ」としたのである。未亡人推古をレイプして、推古の夫の地位を得れば、皇位獲得と目論んだのだが、失敗。蘇我馬子は、穴穂部皇子と物部守屋を引き裂き、穴穂部皇子に謝罪させ、なんとか、物部守屋ひとりに罪を押し付けようとした。しかしむろん、未亡人推古は穴穂部皇子を許すわけがない。  


 用明天皇が天然痘で崩御(587年)するや、一挙に、「穴穂部皇子・物部氏」連合と「未亡人推古・蘇我氏」連合の合戦となり、「未亡人推古・蘇我氏」の完勝となった。穴穂部皇子も物部守屋も戦死し、物部氏は滅びた。「丁未(ていび)の乱」あるいは「物部守屋の変」と呼ばれる。  


 そして、崇峻天皇(第32代、在位587~592年、生553年~没592年)が即位した。父は欽明天皇、母は稲目の娘Bである。穴穂部皇子の両親を同じくする弟である。もしも、穴穂部皇子が焦って皇位を狙わずじっとしていたら、自動的に天皇になれたのに。用明が天然痘ですぐに死ぬなんて、人の身ではわからないから、まぁ仕方がない。  


 崇峻天皇の即位はスンナリ決まった。ところが、崇峻はかなり能力が欠けていたようで、馬子と対立する。その結果、592年、崇峻は渡来人によって暗殺されてしまう。この暗殺事件の黒幕は馬子とわかっているが、どこからも非難の声が上がらなかった。崇峻はよほど愚鈍だったに違いない。 そして、スンナリ、推古女帝(第33代、在位593~628年、生554年~没628年)の誕生となる。日本のみならず東アジア初の女帝誕生であった。  

 

推古女帝は、内政を蘇我馬子、外交を厩戸皇子(後に聖徳太子、574~622年)に任せた。厩戸皇子の両親はいずれも蘇我系である。『日本書記』では、厩戸皇子が皇太子になった、と記されているが、この時期は「皇太子制度」はまだなかった。  


 なんにしても、推古女帝は蘇我馬子と厩戸皇子の2人を巧みにあやつり、久々に大和に平和がやってきた。 


(4)蘇我蝦夷  


 622年、厩戸皇子が亡くなった。626年、蘇我馬子が亡くなった。 


 馬子の後は蘇我蝦夷(?~645年)が継いだ。蝦夷は若い時から蘇我馬子の後継者としてある程度は認知されていた。推古女帝も蝦夷を好意的に扱っていた。しかし、蝦夷の母は物部守屋の娘で、葛城氏ではなかった。「蘇我氏=葛城氏」が蘇我氏の権威の源泉である。蘇我一族の中には、「蘇我氏=葛城氏」の血脈が濃い者がいた。馬子の弟である境部摩理勢(さかいべのまりせ、?~628年)である。摩理勢は、内心、不満を持った。  


 628年、推古女帝が崩御した。死期を察した女帝は、次期皇位継承者と目されている2人に関して遺詔した。次期天皇は舒明(亡夫敏達天皇の孫)を指名し、厩戸皇子の後継者山背大兄王(やましろのおおえのみこ、?~643年)に対しては、「まだ若いから今回は見送りなさい」であった。女帝崩御後、群臣の多数派は舒明、少数派は山背大兄王であった。山背大兄王もヤル気満々であった。蝦夷は、山背大兄王派の群臣および山背大兄王を、亡き推古女帝の遺詔であるからと、根気よく説得した。そして、蝦夷の説得は成功した。その間にあって、山背大兄王擁立の急先鋒は蘇我一族の境部摩理勢で、蝦夷は摩理勢を滅ぼした。  


 かくして舒明天皇(第34代、在位629~641年、生593~没641年)の世となる。舒明天皇の時代は約13年であった。  


 641年、舒明天皇が崩御した。舒明天皇は次期天皇を自分の皇后にと遺詔した。山背大兄王にしてみれば、「舒明の次は自分」と思っていたから、ショックだろうな……。  


 642年、皇極女帝の即位。  蝦夷は舒明・皇極のための王宮、寺院、墳墓などの公共事業に一族あげて天皇の権威高揚のため行動した。その献身的努力に報いるため皇極女帝は、天皇直轄地の葛城県の地を蘇我蝦夷に下賜した。葛城県、そこは葛城氏の本拠地であった。葛城県の地を獲得することは、葛城氏の血脈がなくても葛城氏と証明されるのだ。ここに、蘇我氏の悲願、「蘇我氏=葛城氏」が達成された。「蘇我氏=葛城氏」は后妃を送り出す、そして天皇の母になる権威ある一族に公認されたのである。  


 643年、58歳の蝦夷は子の入鹿(?~645年)に蘇我氏の族長の地位を禅譲した。しかし、蘇我一族の中には、この禅譲に不満を持つ者がいた。蘇我倉山田石川麻呂(?~649年)である。境部摩理勢の滅亡後、石川麻呂は急速に実力をつけてきた。   


5)蘇我入鹿  やっと蘇我入鹿にたどり着いた。  


 皇極天皇にしてみれば、山背大兄王の存在自体が目障りだったに違いない。あらゆる家系図はドンドン枝分かれしていくものだ。天皇系図も同じこと。欽明天皇(第29代)の統合された天皇の血脈は、大きく2つに分かれようとしている。ひとつは、敏達(第30代)→舒明(第34代)→皇極(第35代)の血統。もうひとつが、用明(第31代)→厩戸皇子→山背大兄王の血統。皇極天皇は当然、自分達の血脈で独占したい。山背大兄王のあれこれの行動は、いずれ自分が天皇になるという意思表示である。  


 643年、皇極は入鹿に、斑鳩宮に住む山背大兄王を襲撃・殺害を命じる。そして、実行され、山背大兄王は自殺した。『日本書記』では、入鹿が「独り謀りて」とあるが、入鹿を貶めるために、そう書いたに過ぎない。ついでに言えば、入鹿を貶めるためには、「聖徳太子は立派な人物です。その子供である山背大兄王はとてもいい人です。善人の山背大兄王を殺すなんて、蘇我入鹿って、なんて悪い人! 殺されて当然よ!」という手法も採用している。


  蝦夷も入鹿も、ひたすら舒明・皇極へ献身的行動をしていた。あぁ、それなのに、それなのに……。 


(6)645年乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)  


 中学生の時、645年を「虫を殺して大化の改新」と覚えた。日本史で絶対暗記しなければならない年号のベスト10のひとつは、「大化の改新」の645年であった。 


 正確に言うと、645年は、蘇我入鹿殺害(クーデター)の年で、「乙巳の変」と言う。そして、そして、翌年(646年、大化2年)1月出された「改新の詔」をもって「大化の改新」の始まりとされ、元号が「大化」から「白雉」(はくち)に改元された650年(大化6年=白雉1年)をもって、大化の改新の終了とされる。  ただし、ご注意を。


  元号「大化」は『日本書記』によると、我が国最初の「元号」とされている。でも、最近の研究では、「大化」なる元号は存在していなかったが、『日本書記』の編纂者による捏造らしい。当時は、「干支」を使用していた。


『日本書記』は天武天皇(第40代天皇、在位673~686年、生?~没686年)の命令で編纂され、天武天皇没後の720年に完成された。天武天皇の直接命令あるいは忖度によって、基本的に、蘇我入鹿殺害(乙巳の変)を正統化する立場で書かれてある。当然、反射的に、蘇我入鹿は極悪人である。蘇我入鹿殺害を輝かしく見せる仕掛けのひとつが元号「大化」の捏造である。 蛇足ですが、一応、飛鳥時代の元号に関してまとめておきます。


 大化…645~650年…『日本書記』編集者の捏造。 


 白雉…650~654年 


 元号なしの期間…孝徳天皇崩御のため元号定めず。


 白鳳…?~?…「白雉=白鳳」という説もある。


 朱雀…?~?


 朱鳥…686年…「朱鳥=朱雀」説もある。 


 元号なしの期間…天武天皇崩御(686年)のため元号定めず。 


 大宝…701~704年…大宝から継続的に元号が使用され始めた。


 本筋に戻って、「乙巳の変」のダイジェストに移ります。


  645年7月10日(皇極4年6月12日)早朝、蘇我入鹿は甘樫丘にある「谷の宮門」と呼ばれる大邸宅を出発し、皇極女帝の飛鳥板蓋宮に到着した。当日、朝鮮3国(高句麗・百済・新羅)による朝貢の儀式が行われる。入鹿は儀式用衣服に着替えたが、小さな異変が発生した。履(くつ)が、なかなか脚に入らないのだ。いらだった入鹿は儀式参加を止めて自邸に帰ろうとしたが、付き人に急かされて、大極殿(だいごくでん)前の広場に入った。


  大極殿には、すでに皇極女帝が高御座(たかみみくら)に座し、傍らには次期天皇と目されている古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)が座している。  古人大兄皇子は舒明天皇(第34代)の第1皇子で母は蘇我馬子の娘である。


  広場には朝鮮3国の使者及び群臣が並んでいる。入鹿の席は大極殿の一番近い所にある。入鹿の横には蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂がいる。彼は朝鮮3国の上表を読み上げる役目である。


  儀式が始まった。石川麻呂が上表を読み上げ始めた。どうしたことか、石川麻呂は、つっかえつっかえ読み上げ、顔からは汗、手は震えている。いつもの様子とまるで違う。 


 入鹿が「交代したら」とアドバイスすると、石川麻呂は「陛下の御前なので緊張しているだけです」と答えた。


 その時、大極殿の横から、数名が入鹿に殺到し、そのひとりが入鹿を斬りつけた。斬りつけたのは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)である。


 中大兄皇子は、舒明天皇(第34代)の第2皇子で、母は皇極天皇(第35代)である。後の天智天皇(第38代)である。なお、舒明・皇極の子には大海人皇子(中大兄の弟、第40代天武天皇)がいる。


 入鹿は血まみれになりながらも、高御座の皇極女帝の近くへ這いあがった。


  入鹿「陛下、皇位継承は天孫と決まっていること、重々承知いたしております。それなのに、このような暴力に遭うとは。どうか、ご詮議を!」


 皇極「中大兄よ、説明なさい」


 中大兄「入鹿は、天皇家に取って代わろうと企んでいます」


  中大兄の言葉の途中、皇極天皇は、高御座から降りて奥へ退いてしまった。すると、別の刺客が入鹿にトドメを刺した。


  入鹿の亡骸は、入鹿の父の蘇我蝦夷のもとに運びこまれた。報復の声もあったが、クーデター側は準備万端整えていた。蝦夷側に勝ち目がないとわかると蝦夷側はバラバラになって逃げた。翌日、蝦夷も殺され、蘇我氏本家は滅びた。 


(7)大化の改新とは


 蘇我氏4代は、天皇に取って代わろうというのではなく、天皇の后妃、天皇の母を出す「蘇我氏=葛城氏」を確立したかった。蘇我氏4代は、天皇の権威高揚、天皇を中心とする集権体制確立に献身的に奔走していた。天皇の経済基盤である「ミヤケ」や皇后の経済的基盤である「私部」の大々的拡充は公地公民制の前段階であった。 


 蘇我氏は渡来人技術者集団の大半を支配していて、大陸の文化・制度に詳しかった。当然のこと、蘇我氏は天皇を中心とする中央主権体制を構想していた。そして、天皇中心の律令国家構想に向かって、推古女帝、蘇我馬子、聖徳太子たちは、すでに動き出していた。


「乙巳の変」の翌年(646年、大化2年)1月出された「改新の詔」にある改革方針、第1条・公地公民制、第2条・首都、国郡制度、第3条・班田収授の法、第4条・租庸調制度に関しても、少なくとも第1条と第4条は、『日本書記』編集者の捏造であることが判明している。「大化の改新」なる大改革のためクーデターを起こしたわけではない。


 それでは、「乙巳の変」そして、いわゆる「大化の改新」の本質とは何か。あっさり言えば、単なる権力闘争である。敏達(第30代)→舒明(第34代)の血脈は、舒明の夫人(蘇我馬子の娘)の皇子(古人大兄皇子)と舒明の皇后である皇極(第35代)の皇子(中大兄、大海人)の血脈に枝分かれしていた。  


 何事もなければ、古人大兄皇子が次期天皇だったが、「乙巳の変」によって強制的に出家させられた。


 皇極女帝(第35代)は「乙巳の変」の直後に退位して、皇極の同母弟である孝徳天皇(第36代、在位645~654年、生596~没654年)が即位した。それゆえ、「乙巳の変」の黒幕は孝徳天皇とする説もある。 


 蝦夷・入鹿の蘇我氏本家は消滅したが、分家にあたる蘇我倉山田石川麻呂が蘇我氏を引き継ぎ、蘇我氏全体を見れば「乙巳の変」の後も大豪族であった。孝徳天皇も石川麻呂ら蘇我氏を重んじた。


  繰り返しになりますが、『日本書記』は「乙巳の変」を正統化するため、歴史の削除・捏造がなされたわけで、多くの謎が残っています。  それにしても、蝦夷・入鹿は気の毒だなぁ~。 


(8)蘇民将来 


 ソガは元来は「スゲ」「スガ」であったという。漢字は、宗我、宗賀、宗何、曾我、忌宜、曾賀……などいろいろあるようだ。いつの頃からか、「蘇我」が一般的になったわけだが、「我、蘇(よみがえ)る」とは、意味深長ではないか。


 さらに、私個人としては「蘇民将来」の民話とその信仰を思い出してしまう。


 貧しい兄の蘇民将来と裕福な弟の巨旦将来がいた。旅人が宿を裕福な巨旦将来に乞うたら拒否された。貧しい蘇民将来に乞うたら粗末ながらもてなしてくれた。旅人は帰路に再び訪れ、蘇民将来の娘に茅(カヤ、イネ科の植物。ススキかも)の輪を付けさせて蘇民将来の一族を助け、巨旦将来の一族を皆殺しにした。旅人の正体はスサノウであった。スサノウは、茅の輪を付けていれば疫病を避けると教えた。


  蛇足ですが、茅は「茅ぶき屋根」の言葉どおり屋根の材料であり、家畜の飼料、畑の肥料として使われた。野原に無尽蔵にある茅は、「いろいろ役に立つ」と教えたのだろうな。


 蘇民将来の民話とその信仰は、全国的にあるようだが、とくに岩手県内の蘇民祭は有名だ。京都の八坂神社、伊勢志摩地方でも盛んだ。


 たぶん、蘇我氏の「蘇」と蘇民将来の「蘇」が同じ漢字だけのことかも知れないが、なぜか、昔から気になってしまう。


  なお、蘇我氏の始祖とされる武内宿禰、天孫降臨の道案内役の猿田彦、そして、スサノウの三者を関係づけるお話もある。あるいは、『古事記』『日本書記』に登場するアメノヒボコ(天日槍、天之日矛)という渡来した新羅王子と関係づけるお話もある。 


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太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。