●「終活」はまともな議論を経てきたか
このコラムでは、「終活ビジネス」というタイトルを採用しているが、実は「終活」という言葉は明確に定義されていないように思う。筆者は、主として終末期医療や看取りのフェーズでのビジネスと捉え、その観点から、公的社会保障政策からそのフェーズが自由市場へ転換してくるのではないかとの見立てを軸に語ってきた。
その意味は、大きく社会保障、あるいはその大きな面積を占める医療保険費用は、終末期医療、看取りの部分では予想されている規模より少ないコストで推移するのではないかと予測しており、さらに平均寿命から健康寿命へと政策側の意図的な医療消費構造認識の転換の促進が進められていること、その浸透が図られている途上が現在であり、それはとにもかくにも団塊世代が後期高齢者となる2025年くらいまでには確立した世界として現出しているであろうという推論をベースにしたものである。
終活が「ビジネス」としてすでに認知されている景色は、現在公的サービスで行われているコンテンツを、自由市場化することによって「ビジネス」となる。公助や共助ではなく自助の世界を前提に市場化されるということは、「終活ビジネス」というもっともらしい言葉で自由市場になるのだ。そのなかでは公的費用を減らすという「目に見える」効果は確かに生まれるだろうが、関連コストそのものは小さくはならない。自助、つまり市場消費へ転換されるだけである。
その意味で、「終活」あるいは「終活ビジネス」という言葉は、自助への緩やかな意識構造改革を狙ったものであり、もっと直截的にいえば「誤魔化し」に近い「マジック」、あるいは最近はやりの「フェイク」に近い印象を筆者は拭いきることができない。
終活に乗り遅れ、終末期に入った団塊世代のかなりの数の人びとの後期高齢時代は、極端な表現になるが民間に搾取される不十分なセーフティネット下で、不遇な最期を迎えざるを得ないだろうと想像する。終活という準備を怠れば、野垂れ死には避けられない、そうなりたくなければ金を使え、と筆者は言われているようにしか思えない。その意味で、「終活」は、そうした意識構造転換のための言葉の装置である。その観点から、「終活」「終活ビジネス」そのものをあらためて浚ってみたい。
●メディアが囃し国が旗振る構図
終活という言葉はいつごろから使われ始めたのか。いくつかの文献をみると、2009年秋から冬にかけて、週刊朝日が連載した「現代終活事情」というタイトルが最初だという説が有力だ。ただし、その前にも終活を使った言葉がまったくないわけではなかったようで、週刊朝日の連載タイトルが「終活」を一定の固有名詞化を定着させたとみるべきかもしれない。この頃の終活のニュアンスは、葬儀や墓の準備行為を指していたと思われる。
ただ、こうした言葉が生まれた背景には、特に葬儀に対する認識の変化が90年代から顕著になってきたことが指摘されている。一言でいえば、葬儀は遺された者たちの葬祭ではなく、自らが望む葬祭、葬儀を否定することを含めて個人の意思を尊重するという気運が拡大浸透し、そうした潮流を掬い取って一言で表現したのが「終活」だったといえよう。 「個人の意思」の尊重は、90年代末から商品化もされた「エンディングノート」の浸透も大きく預かっている。さらにエンディングノートの登場は、「医療・介護」にもすでに踏み込んでおり、その後の「尊厳死」、「平穏死」という言葉の浸透の前兆の役割を果たしている。
終活は言葉としては、10年に流行語大賞にノミネートされている。その意味では、終活が定着したのは09年とみて間違いなさそうだ。この言葉がビジネス用語として認識されるのは、11年8月に経済産業省が出した、「安心と信頼のある『ライフエンディング・ステージ』の創出に向けて~新たな『絆』と生活に寄り添う『ライフエンディング産業』の構築」という長いタイトルの報告書である。
ライフエンディング産業を今後の有力なサービス産業分野と位置付けるこの報告書は、政策側が、「終活」をビジネスとして位置づけた瞬間といっていい。とくに、タイトルに使われている「絆」は、東日本大震災から半年後のレポートであることを考え合わせると、日本人の死生観が盛んに語られた時期と符合し、公的セクターが終活ビジネスを一定の方向に集約させつつ、そのカギとなるのが「死生観の変化」であると分析した跡を想像せざるを得ない。
そして、これが「終末期医療」もあわせて、葬祭と同じく「自己選択」が尊重されるという認識の構造変化を促したとみられる。自己選択の背中合わせにあるのは自助であり、自己責任だ。翌年に出された経産省の11年と同じタイトルの「研究会報告」は、終活ビジネスは、葬祭ビジネスなどだけでなく、医療や福祉との連携も重要であることが明確に示されている。
●市場で消費される団塊世代の最期
終活という言葉が09年にメディアによって、その意味を確定させ、社会に浸透したという状況分析は、筆者も否定はしない。しかし、メディアがこの言葉を迎合的に受け入れ、そして経産省を嚆矢としてビジネス、産業化への道筋がきわめて短期間のうちにつけられていったことに、受け入れがたい違和を感じる。それがどこかしら「終末期医療」に関する個の尊厳に関する議論や、倫理的な環境整備に対する準備をスポイルしたのではないかという疑いを捨てきれない。
ビジネスが期待するのは「消費」だ。終活ビジネス、関連産業市場はいまや5兆円規模とされる。多死時代を目前にして、その隆盛を観測するのは難しいことではないだろう。しかし、「健康寿命」、「尊厳死」の名目のもとに、特に終末期医療のあり方が「個の尊重」というより、「こうでなければならない」という同調圧力で一定の方向に収斂するエネルギーを「終活」には感じる。それは、とりあえず延命医療の公的負担からの切り崩しにつながっていくという予測を十分に持たせる。繰り返しになるが、「個の尊厳」のあり方について深い洞察に基づいた議論が行われた形跡があるのだろうか。尊厳死を標準化する倫理的な環境整備、つまり合意形成は本当に行われているのだろうか。
メディアが言葉をつくり、そのありようを誘導し、政府が産業化の道筋をつけていく。言葉は悪いが、震災でのナーバスな日本人の死生観に対する迷いや悩みにつけこみ、深い議論という準備もないままに進められることは正当なのだろうか。
このコラムで執拗に示してきたように、団塊世代は高度経済成長時の所得拡大時には調整弁として使われた。その前の世代、60年安保世代、あるいは「焼け跡派」とよばれる世代との生涯収入格差は小さくはない。多くは述べないが、年金でも調整弁として使われている。そして、人生の終わりも「尊厳死」、「健康寿命」、「終活」の名目のもとで、消費の標的として使われる。保険医療費の大量消費時代は間もなく終わる。その後に、団塊世代の多死時代での、巨大な自由医療市場が始まり、短期間で終わる。この歪な医療大量消費時代を支えてきたのは団塊の世代だ。
しかし、自らがその大量消費の当事者になるとき、早くその終焉を待望される世代でもある。歪な医療大量消費時代のスタートは老人医療費の無料化である。その政策がスタートしたとき、団塊の世代は大学生か、新社会人であった。(終)