サッカーW杯、対ポーランド戦での日本代表の戦い方が論議を呼んでいる。「1点差負け」のまま試合を終わらせようとする10分にも及ぶ引き伸ばし作戦。国内には擁護論が強いが、ヨーロッパ・メディアは嫌悪感を露骨に示している。反則ではないし、正当化する理屈もあるだろう。だが、問題は世界中に広まった映像の強烈な印象だ。擁護論者はこれを甘く見過ぎている。下手をしたら10年後も20年後も、「ロシア大会の日本」ということで、世界の人々はあのシーンを語り続けるかもしれない。


  星稜高校時代の松井秀喜、という話で、甲子園での5連続敬遠が語られるのと同じである。敬遠をした側は、高知の明徳義塾。「結果がすべて。勝ち進むことが最優先」などといくら擁護しようにも、そもそも世間は明徳の大会結果など記憶していない。星稜戦の5敬遠を語るだけだ。今回、もし「日本サッカー史上初の8強入り」という快挙が生まれても、世界的な記憶には残らない。我々がアフリカ諸国の8強入りなどを覚えていないように。その一方、あの“前代未聞の球回し”は語り草になる可能性がある。記録より記憶。私はこれもまた、試合がもたらす「結果」だと思うのだ。


 明徳の選手たちは成人後、酒の席などで自分から松井の星稜との対戦を語ることはあっただろうか。極力その話題を避けた者も多い気がする。日本代表はどうか。国内では称賛に囲まれても、海外でマイクを向けられたらどうか。延々と同じ質問が続けば、さすがにうんざりするはずだ。もしそれが、10年後も20年後も続いたら……。マラドーナの「神の手」のように、日本代表と言えば醜悪な球回し、ということで、“歴代迷シーン”に残ってしまったら、それこそたまったものではない。  2002年、日韓W杯では韓国が4強に入ったが、世界的なイメージでは、あの大会の韓国はいくつもの“疑惑の判定”とともに記憶されている。誤審の連続は単なる偶然で、チームに責任はなかったかもしれない。それでも、ダーティーなイメージはもはや拭えない。「栄光」とは何か、「結果」とは何か、という話である。日本代表の時間稼ぎ戦術は、本当に得策だったのか。私は素直には頷けない。


 今週、週刊文春は、週刊新潮が6号連続で続けている目玉企画『食べてはいけない「国産食品」』シリーズを批判する『食品安全委員会、東大名誉教授が異議 「週刊新潮」食べてはいけない「国産食品」は本当に食べてはいけないのか』というトップ記事を掲載した。新潮の企画は、添加物や化学調味料などの危険性を毎回、手を変え品を変え訴えているものだが、文春は、その一つひとつにエビデンスはあるのか、「量の問題」を正しく伝えているか、と疑義を示している。たとえば新潮が「危険」と指摘するリン酸塩の場合、ソーセージなら67本、マルハニチロの「ソースとんかつ」なら88枚を1日で摂取しなければ健康への悪影響を危惧される量にならないという。


 私は新潮のこの企画、初回から“新潮らしからぬ企画”と眺めていたのだが、専門知識もなく、また内容にも興味を持てずにいて、これまで読み飛ばしていた。何しろ自分自身は未だ禁煙ひとつ実現できずにいる。そんな人間が、食品添加物を細かく気にするのも無意味に思えるからである。“新潮らしからぬ”というのは、その昔、週刊金曜日に載ったヒット企画「買ってはいけない」を思い起こすからだ。 


 そもそも新潮は、福島の低線量被爆に関しては、その影響に神経を尖らせる人々を鼻で笑っていたはずだ。そのくらい大したことではない、気にし過ぎだ、というスタンスなら、食品でもそれを通さなければ、ちぐはぐな感じがする。リニューアル『新潮45』のヘイト路線といい、週刊新潮が突如、健康に目覚めたことといい、雑誌不況による苦し紛れの迷走に感じられてしまう。 


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。