●悪意のイラストが象徴する将来 


 この稿は「医療の大量消費時代」の締めくくりである。そのなかで、医療消費のこれからの主題となるであろう「終末期医療」にスポットを当てている。連載では、繰り返し、医療の大量消費は1972年の老人医療費無料化からスタートしたのであり、それが需要・供給のいずれのサイドからも旺盛な医療消費の機運を醸成し、保険医療費を市場化し、消費意欲を増幅するメカニズムを確立し、「医療費」に集約される問題の構造化を促した。83年に当時の厚生省から発信された「医療費亡国論」は、政策誘導の匂いが否定できないとはいえ、将来予測としてはまことに的確な指摘であったことは認めねばならない。


  しかし、2025年問題としてこの課題が成熟してきたとき、政治も、メディアも社会全体も、関心は終末期医療の「費用」に向いている。おかしくはないか。医療費亡国論が登場したとき、すでに社会は2025年問題の到来を予測できていたし、していた。だからこそ医療費が国の財政を圧迫し、それによって国の命運が左右されるかもしれないとの予測が生まれたのだ。最近の政策、メディア報道は、83年にすでに確信されていた高齢者人口爆発の時代が突然やってきたかのような認識で語る。この高齢者の人口爆発は、予知できない地震ではなく100%予測されてきたものなのだ。


 前回触れたが、それでも90年代には高齢者医療では、高齢者の低栄養の問題にスポットが当たっていたし、廃用症候群などという「寝たきり医療」の弊害が盛んに論議され、高齢者医療の技術的前進に関係者の意識は傾いていた。「高齢者をいかにして金をかけずに死なせるか」などという論議はあってはならないことだったのではないか。


  90年代後半から緩和ケアが人々の認識の範疇に入ってきたが、その対象は「がん」だった。それから時をそれほどかけずして、「認知症」がクローズアップされると、「認知症になるより、がんで死にたい」という「感情」が大手を振る。終末期医療の対象となるのは「がん」であるという誤った観念がそうした感性を国民に定着させたのだ。2025年までには、がんも認知症も循環器不全(脳梗塞、心筋梗塞)も「老衰」で括られるだろう。 


筆者はその括りに必ずしも反対ではないが、終末期医療がその給付の範囲を絞りながら、老衰ビジネスの自由市場化が進む可能性には一応の抵抗は示すべきだと考える。がんと認知症という疾病間のヒエラルキーが存在した時代を超え、団塊世代の後期高齢者時代はすべてひっくるめて、疾病の単元化「老衰」時代の始まりだ。かつては廃用症候群として問題視された状態も「老衰」になるだろう。老衰の時代には、再び高齢者間の格差拡大を作り出し、老衰時間に金を払えるか否かでその時間が決まる。付言すれば、こうした構造の大きな一因である「少子化」は、団塊世代にその責めを負わせる人はいないはずだ。


 多くの若年世代に支えられて笑顔の高齢者のイラストは、かつては支えている側も笑顔だった。下で笑っていた団塊世代は、現イラストでは、少なくなった支え手の苦り顔の上で未だに笑っている。団塊世代からみれば、悪意としか思えないイラストだ。 


医療コストを見えにくくする在宅医療


  終末期医療に向かうなかで、政策としてとられているのは在宅医療だ。実は在宅医療は、それほど病院医療とかかる費用は変わらないという主張も散見する。しかし、政治がみている在宅医療(終末期)は、保険診療としてのコストパフォーマンスであり、保険費用としては在宅のほうが低コストであることは明らかである。訪問診療医の小堀鴎一郎医師の試算をみると、認知症と高血圧を併発する高齢者医療では、死亡前11日間の病院診療費用は33万円程度かかる。それに対して在宅は約3万1000円で、ほぼ10倍の開きがある。


  終末期在宅医療を自宅だと短絡するのは間違いである。かなりの割合で施設での訪問診療を受けることになる。施設入所費用、食事を含む日常生活費等々を考えると、病院診療費との落差30万円は、介護保険からの支給があるとしてもかなりの部分が個人負担となる。年金で支弁できない高齢者は生活保護の世話になるしかない。


  介護保険、生活保護というネットで考えれば、公的扶助の格差は少ないと見えるかもしれないが、まず保険診療費という目に見える単純化された費用負担が見えにくくなるうえに、自由市場で消費される諸々の負担も見えにくい。さらにこれが自宅となると、家族の負担もコストとしてカウントされるべきである。こうした丁寧なコスト算定、あるいは見えにくい自由診療部分での負担の算定が行われたことはあるだろうか。


  2012年の総務省就業構造基本調査によると、07年から12年にかけて介護・看護を理由に転職、退職した人は約44万人。うち女性が35万人以上を占めている。さらに転退職した人の年齢階級をみると、40~59歳の人が50.7%、ほぼ半数を占める。彼らの介護・看護する相手が後期高齢者の親であることは推定するまでもない。そして、こうした転退職者のボリュームは社会的コストに還元すると相当な負担である。親の年金で生計を立てながらその親を介護するという構図は、すでに一般化し始めている。それでも保険医療費だけ抑制できればいいのだろうか。失われているコストの計算はどうなっているのか。 


●選択を狭める包括ケア 


 こうした疑問が提示されると、社会がそうした在宅の後期高齢者、終末期医療の当事者を全体で寄り添い、ケアすべきだという理想論が台頭する。地域包括ケア構想はその具体化だろうが、これにもその進め方には検証が必要。というのも、地域包括ケアが一定のスキームで進められると、高齢者の求めるものが切り捨てられる惧れを拭いきれないからだ。 


 地域包括ケアは多職種によるチームであたることが理想とされている。医師、看護師、介護士、社会福祉士、ケアマネジャーなど、多様な関係職種が集まることになるが、こうしたチーム介護・看護が終末期医療では、そのスペックを単純化し、カンファレンスを様式化し、「あるべき在宅終末期医療の標準化」に向かう可能性は小さくはない。少し意地の悪い表現をとるなら、患者や、その家族の意向は専門家の調整の中で軽視される状況が生まれるとの想像を捨てられない。


  2025年の後期高齢者は、自らの希望で受けたい医療からは遠ざけられ、望む死の舞台も自分で選ぶこともできない。そして、家族も含めて多くのコストを自助で負担し、その生活を終えることになる。2025年問題は国が社会保障破産するリスクばかりがステージに上がっているが、家族の崩壊という悲惨も用意しているのだと想像すべきだ。


  その崩壊を食い止めるために、団塊世代とその周辺世代の多くは、「迷惑をかけない」選択を余儀なくされる。平穏死や尊厳死に至る環境整備も実は進んでいないことも周知の通りである。エンディングノートも制度的に整備されているわけではない。団塊世代が後期高齢者となる2025年以降、彼らの多くが「老衰」でこの世を去るだろう。しかし、そのコストをどう負担していくかの論議が具体的で迅速に進められなければ、この国も「老衰」を免れない。大量消費時代の後は、大量供給過剰が待っている。(幸)