自民党・杉田水脈衆議院議員による「LGBTカップルには生産性がない」という差別的主張が波紋を呼んでいる。『「LGBT」支援の度が過ぎる』と題した杉田論文は、新潮社の月刊誌『新潮45』に載ったものだ。これに対し、LGBTの関係者のみならず、新潮社と縁のある文筆家の間からも、編集部の姿勢を非難するツイッター書き込みが現れている。


  一時期は骨太のノンフィクション雑誌を目指していた『新潮45』だが、2年前に現在の編集長が就任して以来、『Hanada』や『Will』、『正論』と見紛うような誌面に一変した。毎号のように記事を書く執筆者の顔ぶれも、これらの雑誌とほぼ同じだ。これは編集長個人の思想信条の問題か。それとも、深刻な雑誌不況のなか、あくまでも算盤勘定として、ネトウヨ・ヘイト路線こそ部数減を食い止める打開策と思い込んでいるのかもしれない。


  似たような路線上の迷いは、週刊新潮にも見て取れる。文春・新潮と言えば、古くからの保守系誌だが、少なくとも産経新聞のような極端なイデオロギー路線とは一線を画してきた。最近でもモリカケ問題では、むしろ政権の疑惑を追及する報道を続けていた。


  そればかりか、警察幹部による“捜査潰し”が濃厚な伊藤詩織さんへのレイプ疑惑や、財務省前事務次官のセクハラ問題では、週刊新潮は鮮やかなスクープを連発した。安倍一強の”数の支配“の下、目を覆わんばかりの権力の腐敗が進んでいる状況は、新潮の記者たちもさまざまな調査報道で感じてきたはずだ。


  にもかかわらず、今週の週刊新潮は『口舌の徒ばかり!「野党ボスたち」通信簿』と題し、空しく議論が空転した今国会の問題を“パフォーマンスで目立つことしか考えなかった野党の責任”とする特集を組んでいる。政府答弁でこれほどまで質問にまともに対応せず、論戦を無意味化した国会運営は、過去なかった。その本質的部分には一切言及せず、悪いのは野党だというのである。新潮45のみならず週刊新潮も、いよいよ政権にすり寄るスタンスに舵を切ったのか。そんな疑念を抱かせる記事だった。


  いくら経営が厳しいとは言っても、天下の新潮社の雑誌がHanadaや正論のようなヘイト雑誌じみた誌面になってしまったら、あまりにも物悲しい。保守には保守の知性があり、新潮社はその担い手だったはずである。


  今週は文春・新潮とも、元暴力団組員だったという野田聖子総務大臣の夫の問題を取り上げた。不適切な運営の仮想通貨会社に金融庁が行政指導をしたところ、野田事務所の秘書が業者の側に立ち、金融庁の役人を呼びつけたとされる。両誌の報道では、業者と大臣を結びつけたのは、大臣の夫だったらしい。岸田文雄政調会長は先に総裁選不出馬を表明しているし、野田大臣もこうして墓穴を掘ることになった。自民党内で安倍首相の総裁選対抗馬になり得るのは、石破茂元幹事長だけになってしまったのだ。


  もしかして“さらにまた3年”という安倍政権の大長期化を想定したうえで、新潮もスタンスを変えようとしているのだろうか。だとしたら、それこそ情けない限りである。経営戦略として考えた場合も、ヘイト書籍マーケットはすでに飽和状態ではないか。プライドをかなぐり捨て、後発で参入したところで、売上げに結びつくかどうかはわからない。下手をすれば、凋落を加速するリスクだってある。そのことを、当時者は冷静に考えてみてほしい。 


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。