(1)三陸リアス式海岸一揆(三閉伊一揆)


  江戸時代の百姓一揆の件数は約3000件。したがって、同程度の百姓一揆のリーダーがいたはずである。歴史は権力者中心に語られることが一般的なので、百姓一揆のリーダーの名前は、その発生地域だけの記憶となり、特別なことがない限り、例えばお芝居になって大ヒットするとか、そんなことがないと忘却されていく。


  最も有名な人物は、下総国佐倉藩領(千葉県成田市)の木内惣五郎(佐倉惣五郎)だが、史実はほとんど不明。17世紀末に「惣五郎」なる人物がいて、「なんらかの一揆的行動」があったかも知れないなぁ~、というレベルです。しかし、怨霊伝説、講釈、そしてお芝居の大ヒットで、「佐倉義民伝」として定着した。その影響は絶大で、幕末の信濃国伊那谷で起きた南山一揆のリーダー小木曽猪兵衛は、「講釈・佐倉惣五郎」で一揆をつくりあげた。田中正造の明治天皇直訴は、友人から「明治の佐倉惣五郎たれ」と励まされたことによる、という話もある。


  前述の小木曽猪兵衛(1815~1889年)は、各地の一揆を研究して、卓越した戦術を工夫して南山一揆(1855~1859年)を成功させた。通常、百姓一揆は要求は実現してもリーダーは死刑なのだが、珍しく天寿をまっとうした。長野県飯田市の大願寺に「南山之碑」がある。これは、小木曽猪兵衛の死後2年後の1892年(明治22年)に村人によって建てられたものである。地元には南山一揆の紙芝居がある。また、絵本『あっぱれ伴助』のカバーには「信州には犠牲者を一人も出さない百姓一揆があった!」とある。


  杉木茂左衛門(1634?~1686年)は17世紀末、上野国(群馬県)の沼田藩の77村のため直訴を決行。あれこれの末、直訴は成功し、藩主真田信利は改易になった。しかし、妻子もろとも磔刑になった。明治になって、戯曲「磔(はりつけ)茂左衛門」が大ヒットしました。群馬県の郷土かるた「て」の札は、「天下の義人 茂左衛門」です。もっとも、若い群馬県民に尋ねたところ、「名前を聞いたことがある」程度だった。


  多田加助(1639~1687年)は、信濃国松本藩の百姓一揆、加助騒動(貞享騒動)のリーダーです。1686年(貞享3年)10月、約1万人の百姓がスキやクワを手にして松本城下へ終結した。藩側は一揆の要求を呑んだ。しかし、一揆の百姓たちが解散するや、多田加助と家族、一揆の主要メンバーが捕縛された。そして、1ヵ月後には、松本城を望む高台で加助ら8人が磔、20人が獄門となった。加助は磔柱から集まった群衆に「これで年貢が下がるのだから、安心してあの世へ行けるぞ~」と叫んだ。群衆から、「残念だけれど、藩は俺たちとの約束を反故にした!」との声があった。がく然とした加助は怒り恨みで松本城を睨みつけ、「この恨み、必ず晴らしてみせる」と絶叫して刑死した。そのとき時、松本城の天守閣がグラリと傾いた、という言い伝えがある。そして、40年後、松本藩藩主水野忠恒は江戸城内で刃傷事件を起こし、水野家は改易となった。人々は「加助のたたり」と信じた。明治になって、自由民権運動とともに脚光を浴び、お芝居になったり、新聞小説で連載された。安曇野市には、多田加助旧宅跡、貞享義民記念館などがあります。


  さて、今回の昔人は、切牛(きりうし)の弥五兵衛(1787?~1848年)。切牛弥五兵衛の本名は佐々木弥五兵衛だが、一般的には切牛弥五兵衛です。


  切牛の弥五兵衛は、幕末の南部藩(盛岡藩)で勃発した「三閉伊一揆(さんへいいっき)」という名の百姓一揆のリーダーであります。


「三閉伊一揆」は、第1次の「弘化一揆」(弘化4年、1847年)と第2次の「嘉永一揆」(嘉永6年、1853年)があり、切牛弥五兵衛は第1次のリーダーである。第2次の準備中に捕えられて斬首となった。第1次の「弘化一揆」の規模は約1万2000人、第2次の「嘉永一揆」は約1万6000人が結集し、全国最大級規模の百姓一揆となった。少なくとも東北最大の百姓一揆だった。


  「切牛」とは地名で、今も残っており、岩手県下閉伊郡(しもへいぐん)田野畑村(たのはたむら)切牛(きりうし)です。下閉伊郡は、三陸リアス式海岸の中部(陸中、岩手県の太平洋岸の中部)に位置しており、宮古市(人口5万6000人)が最大の市である。宮古市の南北が下閉伊郡で、現在は宮古市の北側に岩泉町、田野畑村、譜代村、南側に山田村がある。


  北上山地から宮古市へ流れる東西の川の名は、「閉伊川(へいがわ)」で、最上流から峠を越えると盛岡です。三陸リアス式海岸の地域は、地図を見れば一目瞭然、農地は極めて乏しく、江戸時代では鉄の採掘と製鉄が盛んであった。その鉄を牛が運んだ。馬が多い岩手県にあって、珍しく牛が多い地方であり、そんなことで「牛切」という地名がついたのかも知れません。


  三閉伊一揆の「三閉伊」とは、南部藩は領内を33の「通(とおり)」に分けて統治して、三陸リアス式海岸の地域を、北から、野田通・宮古通・大槌通の3つの「通」に分け、3つの代官所が支配していた。この3つの「通」を、総称して「三閉伊通」と呼んでいた。「三閉伊一揆」と聞いても、岩手県民以外は「どこ?」となってしまう。わかりやすくイメージするなら、三陸リアス式海岸一揆ということである。


「南部藩」(盛岡藩)は、青森県の東側半分と岩手県の北部中部という地域から八戸藩の地域を割愛した領域である。南は仙台藩に接している。老婆心ながら、岩手県全体のイメージは、東から三陸リアス式海岸、北上山地、北上川流域の北上盆地、奥羽山脈の4つの縦割りにするとわかりやすい。


(2)レ・ミゼラブル(悲惨な民衆)


  仏作家ビクトル・ユーゴーの大河小説『レ・ミゼラブル』の直訳は「悲惨な民衆」ですが、何故だか、翻訳本では「ああ、無情」となっています。情けのない人も登場するが、情けのある人も登場する。なぜ、「ああ、無情」なのか、考え込んだことがあった。それはさておいて、江戸時代後期の南部藩領民は、まさしく「レ・ミゼラブル(悲惨な民衆)」であった。


 江戸時代になると、大名は合戦による領地拡大は不可能となり、富を増すためには米の増産、つまり新田開発に力を注ぐ。江戸時代の富の基準は、米だから当然。南部藩でも、青森の津軽藩ほどではないが、新田開発ラッシュがあった。南部藩の石高に関して、幕府は当初10万石と認定していたが、実際は20万石だった。それが、100年後には25万石に伸びた。


 しかし、これは、米がちゃんと育った平年作の数字だ。いわば米の生育の北限に位置する南部藩領域では、単純平均すると3年に一度は減作・不作・凶作となり、16年に一度は大凶作・飢饉が襲来する。江戸時代の間、南部藩では17回も大凶作・飢饉があったのです。そして、大凶作・飢饉は1年で終息せず3~4年継続する傾向があった。


 百姓は米を作っても、それを食べることはできなかった。幕府の報告書には「南部領では、百姓はいつもカテ(雑穀、野菜、海藻などの代用食)を食べ、米はお上に納めるものと心得ている」とある。


 奥羽山脈にある沢内村(さわうちむら、平成の大合併で、湯田町と合併して西和賀町になった)に伝わる「沢内甚句」に、次の歌詞がある。


   沢内三千石お米(よね)の出どこ、枡(ます)ではからねで、箕(み)ではかる


    沢内村の3000石というのは平年作のこと。沢内村は山間部であるため、平野部で1割減の減作・不作なら、4割・5割の収穫減になってしまう。年貢米を納入できないので代官に減免を嘆願したら、代わりに、美人のお米(よね)を側女に差し出せ、ということになり、お米は村人を救うために人身御供になった。「箕(み)ではかる」は「身ではかる」の意味も持っているということです。


 しかし、大飢饉となれば、「カテを食べてしのぐ」「側女を差し出して助かる」なんて、そんな甘いものではない。恐るべき地獄が出現するのだ。江戸時代の大飢饉を列記してみます。むろんこれ以外にも、数々の飢饉があったのだが、列記したのは、それこそ超大型飢饉だけである。


 寛永の大飢饉(1642~1643年)全国(特に、東日本の日本海側)


 元禄の大飢饉(1695年と1702年)東北地方


 享保の大飢饉(1732年)西日本(特に、瀬戸内海沿岸)


 宝暦の大飢饉(1754~1757年)東北地方


 天明の大飢饉(1782~1787年)全国(特に、東北地方)


 天保の大飢饉(1833~1839年)全国(特に、東北地方


 宝暦の大飢饉の時、長坂村(現在は一関市)の農民の記録に、こうあります。


「正月のうち、あちこちから、男も女も、老人も若者も、子供たちを引き連れて、自分の村を出て、何村であろうとどこかよい所はないかと、通りすぎて行くのが目にあまります。村を出たところで助かる見込みもなく、子供たちを道々に置き去りにして、親たちは足のつづくかぎり逃げてゆくのを、子供たちは泣きながら追いかけて疲れはて、親子の別れとなります。4歳、5歳、6歳、7歳、と10歳より下の子供たちは、『お父さん、お母さん、自分らも連れていってください』と泣きながら追いかけますが、親にしてもどうしようもなく捨てていくほかはない。後ろを振り返ることもなく足ばやに行ってしまう。子供たちはついに泣き死にしてしまう」


 親はどうなったのだろうか。天保の大飢饉の時、南部藩領から秋田藩領へ流れた人々の多くは、秋田も凶作だったため、ことごとく野たれ死んだ。秋田県雄物川町薄井に「無縁塚延命地蔵尊」があり、そこには130人の南部藩領からの流民が葬られた。


 天明の大飢饉では、「御城下(盛岡城下)におびただしい飢えた人間がうろつきまわっている。餓死人もいたるところに転がっている」というのが普通の光景だった。子供の置き去りどころか、昼間川原で泣き叫ぶ子供を石で打ち殺し川に捨てる母親、両親を煮て食う少女など、まさしく本物の地獄が出現した。


 天保の大飢饉では、南部藩の推定総人口30万6000人の中の6万5000人が餓死及び栄養失調による免疫力低下によって病死した。実に、5人に1人が事実上餓死したのだ。


 こうした悲惨な事態に対して、南部藩は何をしたのか。


 たまたま、1754年(宝暦4年)は豊作であったが、全部借金返済にあてた。そのため翌年(1755年)からの大飢饉に対応する米もなければ金もなしという有様で、富豪に御用金を課し、救貧小屋を建てて飢人(きじん)を救済しようとした。2500人を収容したが、役人の不正やらなんやかやで、滅茶苦茶薄い粥しか出さず、結局はほとんどが餓死した。飢人は「南無粥陀仏薄菩薩」(なむかゆだぶつうすいぼさつ)と唱えて死んでいった。


 天保の大飢饉の際、岩泉(現在の下閉伊郡岩泉町)の豪商佐々木彦七は貧民救済のため穀物を寄付したが、藩は武士救済に使用してしまった。  天明の大飢饉、天保の大飢饉では、藩は米の確保、移入に一応は努めましたが、不足量からすれば微々たるものだった。


 つまり、南部藩は大飢饉に際して、一応何かしら対策をとったが、なんら有効ではなかったのだ。近隣他藩と比べても、酷いものであった。江戸時代後期の百姓一揆の数は南部藩が異常に多いのである。南部藩は約160回、秋田藩は約90回、仙台藩はわずか5回である。南部藩と仙台藩を比較すると、「仙台藩はよくやっている」「南部藩は何もしていない。それどころか悪化を進めている」という感想を持ってしまう。繰り返しのようだが、江戸後期では、南部藩は日本一の百姓一揆多発地帯で、とりわけ三陸リアス式海岸地方は一揆常習地帯となった。


 南部藩の失政・悪政・無為無策に対して、民間の救済活動もあった。 前述したように豪商佐々木彦七は天保の大飢饉に際して貧民救済のため大量の穀物を寄付した。


 やはり豪商の吉里吉里村(現在の大槌町)の前川善兵衛は、宝暦の大飢饉に際して、延べ3万6000人(300人×2食×60日)に雑穀粥を与えた。前川善兵衛は「(三陸リアス式海岸地方は)耕地が乏しく、平生でも穀物が足りません。それに不漁が重なった。内陸から食料供給が必要なのに(藩は何もしなかった)」と嘆いた。なお、前川家は、南部藩からの度重なる御用金要求によって漸次苦境に陥っていった。


  まったくの蛇足ながら、井上やすしの小説『吉里吉里人』は岩手県の某村が独立国になる漫画的風刺小説だが、「吉里吉里村」とは無関係。ただ、なんらかのインスピレーションはあったのではなかろうか……。


 鞭牛(べんぎゅう)和尚(1710~1782年)は、宝暦の大飢饉に直面し、原因のひとつが、三陸リアス式海岸地方は陸の孤島であることから物資流通が困難であると喝破し、太平洋岸の宮古から盛岡(北上川流域)への道路、および海岸道の道路建設に生涯を捧げた。単身で始めた行動に村人は不信を持ったが、朝晩雨天かまわず、黙々と開削工事をする姿に感動し、しだいに協力するようになった。鞭牛和尚が開いた宮古~盛岡の宮古(閉伊)街道は109kmに及び、国道106号線の元となった。また、吉里吉里~山田、腹帯~南川日、宮古~岩泉、橋野~鵜住居など鞭牛和尚が開削・改修した総延長は400kmという驚異的距離であった。すごいな~、鞭牛和尚!


なお、南部藩は何も協力しなかった。


 ついでながら、大分県の「青の洞門」は禅海和尚が30年間で掘り抜いた。菊池寛の小説『恩讐の彼方に』は、この逸話をベースに書かれたもので、あくまでも小説(フィクション)です。また、『尋常小学校国語読本』でも取り上げられたので、全国的に有名です。それに比べて、鞭牛和尚は岩手県民しか知りません。


(3)百姓は天下の民


 1847年(弘化4年)、第1次「三閉伊一揆」(弘化一揆)が勃発。すでに、悪政・重税のため南部藩では各地で百姓一揆が発生していた。3つほど記載しておきます。


・1821年(文政4年)、岩泉袰綿一揆、百姓57人が代官所へ強訴。リーダー2人斬首。


・1826年(文政9年)、宮古長沢一揆、百姓119人が盛岡へ直訴しようと決起集会。リーダは斬首。


・1837年(天保8年)、天保の大飢饉の時、百姓2000人が、江戸表へ「春農種籾」の支給の取次を仙台藩へ越訴(おつそ)した。


 ちょっと解説。正規ルートは代官→南部藩→江戸の殿様だが、ルール無視で、仙台藩→南部藩を選択したわけです。こうした手続き無視を越訴という。正規ルートでは、門前払いがわかっている、また南部藩に比べて仙台藩は格段によい政治を行っている、仙台藩が南部藩と掛け合ってくれる、そんなことから越訴の作戦を実行したと思われる。仙台藩は困ってしまったが、事件を内々ですませることを条件に、一揆参加者を解散させた。そして、頭人(一揆リーダー)を処分しない約束で、越訴残留人(一揆リーダー集団)を南部藩に引き渡した。しかし、南部領内に入るや越訴残留人は手錠、腰縄をかけられ花巻の牢に入れられ、打ち首になった。百姓の南部藩への不信は決定的となった。「仙台藩と南部藩の約束なのに、南部藩の武士は平気で約束を破る」と。


  この天保の一揆と弥五兵衛の関係はわからないが、この一揆以来、弥五兵衛は南部藩領の9割の村々に「全領一揆」(要するに、超大規模一揆)の必要性を説いて回ったと言われている。


 切牛弥五兵衛の家は、肝煎(名主・庄屋と同じ)の補佐役を務めていて、貧困地帯でもやや裕福な家であったようだ。弥五兵衛は牛方(牛を使って荷物を運ぶ職業)として塩や海産物を運んでいた。また、念仏講の導師でもあった。数十年にわたって南部領内をくまなく歩いていた。この老人の真実の顔は、南部藩の悪政を語り、「全領一揆」の必要性を説くオルグマンであり、百姓一揆のアドバイザーであった。


 小説にするなら、沢内村のお米とのロマンスを挿入したいな~。鞭牛和尚との遭遇も挿入したいが、時代が違うから、「鞭牛和尚の亡霊」との対話ということかな。


 弥五兵衛は、百姓一揆は重罪のため、万六、弥五郎、万五郎、小本の祖父(おもとのおど)など名前を使い分けた。小本(おもと)は下閉伊郡岩泉町にある地名である。弥五兵衛が、第1次「三閉伊一揆」(弘化一揆)より前の個々の一揆にどの程度関与していたのか不明だが、大規模一揆のリーダーになったわけだから、「全領一揆」を説く「百姓一揆のプロ」として有名人だったに違いない。


 彼の有名なフレーズは「百姓は天下の民」です。百姓は殿様の奴隷ではない、百姓が主人公である、という感じかな。


 1847年(弘化4年)10月、南部藩はそれまでの連続的増税に加えて、さらに新重税の御用金6万両を取り立てようとした。そして、ついに60歳の切牛弥五兵衛がリーダーの一揆が開始された。最初は弥五兵衛ら4人が集まって一揆の計画をした。そして、11月20日、田野畑の大芦村の大芦野に300人が集結して、最初の一揆のノロシをあげた。


 一揆は、南部藩行政用語の「野田通」、現在の下閉伊郡の譜代村・田野畑村・岩泉町の村々の百姓が三陸リアス式海岸を南下しました。村ごとに村印を立てて隊列を組んで行進しました。かます(ワラむしろで作った袋)に食料と最小限の衣類を入れ、鍋釜を背負い、行進しました。


 数人の先発隊は、通り道にある村の肝煎宅を訪れ、百姓一揆への参加を勧誘した。ただし、一揆は重罪行為なので、一揆とは言わず、「横沢という沢に、悪い狼がすんで人々を食い殺しているので、野田通の百姓が退治しに行くところです。あなた方も狼狩りに参加してください」と、表向きは「狼狩り」であった。「横沢の悪い狼」とは、南部藩家老横沢兵庫のことです。「狼狩り」だから、火縄銃や槍も持った。


 百姓一揆のデモ隊(農民軍)は、ドンドン数を増加させていった。「野田通」から「宮古通」へ来た。


 デモ隊は宮古本町の若狭屋を襲撃した。若狭屋の経営者は佐藤儀助で、完璧な悪徳商人であった。南部藩の総鉄山の支配人に任じられていて、労働者を強制徴用する、藩から労働者の賃金を受け取っていながら全然払わない。タダ働きを「鉄山かせぎ」と言うようになったほどである。逃げ出せば捕縛して牢に入れて痛めつけた。その怒りが爆発したのだ。デモ隊は他の地域でも打ち壊しをしたが、みな佐藤儀助の経営する事業所と屋敷だった。


 蛇足だが、三陸リアス式海岸地域は、農地が乏しいのだが、北上山地の太平洋側は豊富に砂鉄・鉄鉱石を産出するため、鍛冶屋職人が多く集まって鉄産業が発達した地域でした。


 行進の途中、役人がデモ隊を説得するが、その度に「騙されるな、騙されるな」と連呼し、ほら貝を吹き鳴らし、大地を踏み鳴らした。


 そして「大槌通」へ達した。大槌から、さらに南下して仙台藩領へ向かうと思われたが、西の北上山地へ向かい笛吹峠を越えて、遠野(とうの)へ向かい、12月3日、雪の早瀬川原に集合した。早瀬川とは、北上川水系の猿ヶ石川の支流で、遠野を流れる。雪の早瀬川に1万2000人が結集しました。当時、リアス式海岸地域の人口は、6万3500人でした。


 一揆は、村ごとに、整然と四角に陣取りしました。  遠野は、南部藩の御三家のひとつ、遠野南部氏の城下町である。遠野南部の殿様は盛岡に常駐し、実際の政務は家老達が取り仕切っていた。


  南部藩の役人が一揆を説得しようとしたが、弥五兵衛は相手にしなかった。そして、遠野城の家老・新田小十郎に26ヵ条の願書を出した。おそらく、弥五兵衛は「新田小十郎は話がわかる人物」という評判を聞いていたのだろう。南部藩は、26ヵ条中の12ヵ条は即決でOKして、他は盛岡へ持ち帰り吟味するとなった。新田小十郎は、善処することを約束し、一揆の目的はおおよそ成功した。そして、デモ参加者に米1升を持たせて解散させた。約2週間の大一揆であった。


(4)第2次「三閉伊一揆」(嘉永一揆)


 第1次「三閉伊一揆」(弘化一揆)は、一応成功裏に終わった。しかし、弥五兵衛は、南部藩は約束を守らない、と思っていた。そのため、第2次「三閉伊一揆」の必要性を説いて回った。 「百姓の困窮は稲が実らぬばかりでなく、藩の政治そのものにある。みんなが安住できる地をめざし、3月には再び一揆を起こす必要がある」


  弥五兵衛は、南部藩をまったく信用していなかった。「一関の田村藩(仙台藩の支藩)へ願い出、それにより仙台へ願い出、それでも駄目なら公儀へ願い出る」 


 そして、決め台詞は「百姓は天下の民」であった。


  しかし、第1次「三閉伊一揆」(弘化一揆)の翌年、弥五兵衛は捕えられ、盛岡で牢死した(1848年)。南部藩は、天保の一揆でも、仙台藩との約束を破り一揆のリーダー達を斬首した。第1次「三閉伊一揆」(弘化一揆)によって、南部藩は新増税をしないと約束をした。しかし、その約束を破り、嘉永6年(1853年)2月、新たな巨大重税を課した。切牛弥五兵衛の心配は的中してしまった。  三陸リアス式海岸地域の住民の心は、直ぐに一致した。


  南部藩はトンデモナイ藩だ!


  南部藩は約束を直ぐに破る嘘つき藩だ!


  切牛弥五兵衛は正しかった。安住の地を求めて、再び大規模一揆だ!


  3月には「野田通」の村々で、一揆の幕開けを告げる法螺貝が鳴り響いた。


  一揆のリーダーである袰綿村(ほろわたむら)の忠兵衛が死んだため、一揆は一時的に休止となった。そんなこととは知らず、一揆はないと判断した南部藩は、4月中旬から、新重税の取り立てを始めた。


  5月、ついに、東北最大の大百姓一揆、第2次「三閉伊一揆」(嘉永一揆)が勃発した。田野畑村を出発した一揆の様子は、デモ隊というよりは、まさしく農民軍であった。第1次「三閉伊一揆」(弘化一揆)よりも格段に進化していた。「七人の侍」ではないが、どうやら、優れた武芸者が数人いたようだ。


「白布の半てん、赤布のたすきをかけた者100人、浅葱(あさぎ、薄いあい色)布の半てんに白たすきをかけた者300人、いずれも武勇の者どもを集めている。種ケ島(火縄銃)40梃、かます背負いは64人、竹杖に槍を仕込み、のぼり小旗に小〇(困るのシャレ)と書いた旗1本、赤根(茜)染めの旗1本、白地に一番と書いた旗1本、都合3本の旗を押し立て」 


 行進が進むにつれて、一揆の人数は、2000人、4000人、6000人、8000人と膨張していった。1ヵ村ごとに1組にまとまり代表者が決められた。野田通は1~13番、宮古通14~72番、その他73~136番。一揆の指令はすべて大旗組から出された。


 一揆は最初から「嘘つき南部藩」を相手にしていなかった。ひたすら南下して仙台領をめざした。6月5日、釜石に着いた時には、1万6000人に達した。藩境は目前である。ここで、「藩境の仙台藩の関所が警備厳重で大砲まであって通過が容易でない。山道の間道を抜けたほうがいい」というアドバイスを受けた。釜石で引き返す者も大勢いた。山越えの山道のため、山道の途中で引き返す者も大勢いた。それでも、仙台領の唐丹村(とうにむら)へ到着した人数は8500人であった。


 一揆側の要求は、基本要求が3ヵ条で、➀藩主の交代、②三閉伊通りの住民を仙台領民にする、③三閉伊通りを幕府直轄領か仙台領にする。そして、個別要求を49ヵ条にまとめて提出した。


  仙台藩は、一揆側の要求を最大限実現させるから、各村代表45人を残し他は帰国するように、と提案した。一揆側は受け入れ、45人を残して帰国した。仙台藩と南部藩の交渉では、最初、増税ストップが約束された。ついで、45人の南部藩への返還が約束された。


  ところが、南部藩は45人の返還が約束されるや、増税の取り立てを再開強行した。これには、仙台藩も怒り心頭「南部藩のアホ! 仙台藩をなめるよ!」となった。おりから、南部藩領は旱魃で作付けできない田が多く諸物価が高騰していた。


  7月10日、唐丹村(仙台藩領)の肝煎から野田通の肝煎へ「もう一度一揆を起こせば、仙台領の領民になれる見込みです」という一揆督促が届いた。これに応じて、田野畑村の倉治がリーダーになって、一揆軍1700人が南下し始めた。宮古へ到着した時には6000人になっていた。南部藩は、女遊戸地区に弓隊、鉄砲隊ら600人で向かえうち、死傷者が出た。一揆は四散したが、決死の一部が仙台藩へ越訴した。


  同じ頃、仙台藩で交渉にあたっていた南部藩の寺社奉行が盛岡へ帰国し、一揆の全容を藩主の父である利済(としただ)に報告した。藩主や藩主の父は、一揆の事実すら知らなかったのでビックリ仰天した。とりわけ、領民が南部藩を捨てて仙台藩の領民になりたがっていることに、事の重大性を感じた。そして、一揆側の要求の半ばを受け入れた。一揆側の要求は、半ば達成された。


  仙台藩は南部藩が約束を破ったので、45人を南部藩への引き渡しを拒否し、仙台城下へ移した。仙台藩のその心は、南部藩の一揆騒動を幕府へ通知するぞ、その証人45人も江戸で証言するぞ、そうなれば南部藩はお取り潰し必死、仙台藩をなめるな!って感じかな。


  南部藩は絶体絶命である。一揆側が要求していた3家老の交代をはじめとする全面的な藩政改革を実行するしか道はなかった。


  かくして、三閉伊一揆は百姓の勝利となった。


  ただし、第2次「三閉伊一揆」(嘉永一揆)のリーダーとなった三浦命助は南部藩に捕えられ牢死した。   


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太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。