杉田水脈・衆議院議員によるLGBTヘイト論文問題は、直後に発覚した東京医科大入試の女子一律減点問題による波紋もあり、この国に根を張る性差別全体への批判に広がりを見せている。杉田議員は伊藤詩織さんのレイプ疑惑でも、詩織さんを貶め、侮辱する発言をさんざん繰り返してきた。詩織さん事件を最初に掘り起こし、スクープした週刊新潮からすれば、この議員の歪んだ思想には、十二分に気がついていたはずだ。
それが、同じ社の月刊誌『新潮45』が杉田論文の当事者媒体となったことで、週刊新潮も一連の騒動に口をつぐんでいる。自分たちのスクープに言いがかりをつけ続けた杉田氏に、月刊誌が勝手に寄稿を依頼したならば、週刊誌も無用な気遣いはせず断罪すればいいように思うのだが、そのへんは社内力学も関係するのだろう。見て見ぬふりをしてやり過ごすつもりらしい。結果として新潮社全体が杉田氏を擁護する形になっている。
その点、週刊文春は歯切れがいい。『杉田水脈衆議院議員に「育児丸投げ」「不倫」騒動を糺す』と銘打って、妻として母親として自分自身は“古き良き大和なでしこ”と言えるのか、という文春ならではの切り口から、この議員の言行不一致を暴いている。考えてみれば、詩織さん事件も、新潮のスクープで始まったものなのに、疑惑を書籍化した詩織さん自身の著書『ブラックボックス』は、文藝春秋社から刊行されている。その辺りの入り組んだ両社の関係も興味深い。
今週、特筆したいのは週刊女性による『要塞化する沖縄 基地と戦争 終わらない、伝えたい』という大掛かりな特集だ。辺野古問題で病身の翁長知事がいよいよ“最後の切り札”となる「埋め立て承認の取り消し」を打ち出し、秋の知事選も近づいてくるなかで、総合誌は悲痛な現地の声をほぼ黙殺する。しかし、女性誌でありながらこの雑誌は、総合誌顔負けの“社会派”の誌面展開をしているのだ。
過去3年以上、現地取材に深く関わっている立場から言えば、辺野古問題で沖縄県の主張を退ける大義は国にはない。基地問題では本土も応分の負担をしてほしい。沖縄だけに押し付けないでくれ。そのシンプルな訴えを、国は問答無用で踏みにじっているのだ。海兵隊基地を沖縄に置く必要は必ずしもないこと(本土への配備でも抑止力に差はないこと)は、すでにさまざまな角度から論証され尽くしている。これを認める日米高官や軍事専門家の証言も山ほどある。だからこそ、政府は壊れたレコードのように「唯一の解決策」と言うだけで、具体的議論の土俵には絶対に乗らないのだ。
ネットに蔓延するネット右翼的なカキコミも、専門的検証の蓄積に見向きもせず、海兵隊が沖縄にいなければ中国に侵略される、という妄想を言い募るだけだ。一朝有事の際、海兵隊が出動するためには、佐世保から輸送艦の到着を待たねばならないことさえも知らない。最初から佐世保にいるほうが機動力は高まるのである。あとの論点は、辺野古で座り込みをする人々への「過激派」「日当で雇われている」というデマ宣伝だけだ。百歩譲ってその一部に左翼セクトの活動家が紛れ込んでいたとしても、その人数は翁長支持の県民の0・1%以下。反基地世論の99・9%とは無関係な話だ。
だが、本土の保守メディアは過去3年、翁長県政を誹謗し続けてきた。今週の週刊新潮も『埋め立て承認撤回 翁長知事の遅すぎた“最後っ屁”』と相変わらずの記事を載せている。そんなことをやっても裁判では勝ち得ない、と冷笑する内容だ。法的な手続き論で言えば、おそらくその通りだ。この国の司法は事実上、行政の一部になり果てたし、手続きの手順それ自体には、そこまで明確な違法性も見い出しにくいだろう。
だが、米軍基地という「迷惑施設」を、町内のゴミ集積所に置き換えて考えてみればいい。本来、持ち回りで各家庭が引き受けるべき役目を、ひとつの家の前に長年固定する。町内会の多数がそれをよしとする。「理不尽だというなら町内多数派の同意を得て、投票で“持ち回り”に変えればいい」。そういって今日もまた、自分のゴミをその家に押し付ける。そんな多数派の横暴に与している己の醜悪さを、こうした記事の執筆者はまったく自覚しないのである。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。