夏場、帰宅したときは大急ぎでドアを開け、閉めることにしている。それでも勝手に侵入してくるお客さまがいる。蚊だ。毎度のことながら、刺されるとちょっと悔しい思いをする。
◆身近でも知らない、蚊の生態
蚊は世界で3千数百種が知られている。日本にも約100種おり、そのうち10種以上がヒトの血を吸う。吸血するのは雌だけで、その目的は、産卵のための栄養確保。といってもドラキュラと異なり、成虫の基本的な栄養源は、雄も雌も花の蜜や樹液などに含まれる糖だ。
蚊の命は約1ヵ月。雌の蚊は羽化後、2~4日で成熟し、一生に一度だけ雄と交尾する。このときに得た精子を受精嚢という袋に蓄えておき、卵を育てるための血を求めて飛ぶ。
卵は、吸血した雌の体内で成長する。産卵の途中で受精嚢の傍を卵が通るときに精子が卵子に入り、受精卵となって体外に出るという仕組みだ。産卵後も生きている雌は、また血を吸って卵を育てる。受精嚢に蓄えた精子で1~4回ほどの産卵が可能だという。
蚊に刺されている最中はあまり気づかず、まんまと血を吸われてしまうのは、蚊がヒトに注入する唾液のせいだ。唾液には麻酔成分が含まれているうえ、アピラーゼという酵素が血小板の凝集を一時的に抑制する。その後、局所的な抗原抗体反応が起きて痒くなるまでの約3分間に、蚊は叩き殺されるかどうかの勝負をかけていることになる。
吸血で腹部が膨れたヒトスジシマカ。逆U字に曲がっているのは下唇(鞘)。普段はこの中に収まっている他の6本の口針が一体となって毛細血管に挿入される。写真提供 CDC/ James Gathany
◆東京2020大会に向けた感染症対策
蚊は刺されて不快なだけでなく、感染症を媒介する。また、蚊媒介感染症の影響度合いは、環境や社会状況に左右される側面がある。2014年に話題となったデング熱は、1942(昭和17)年の夏、南方戦線からの帰還兵の増加によって、長崎・佐世保で5万人規模の流行があった。同年、大阪・神戸の流行は5千人規模だったが、1944(昭和19)年には10万人に達した。これは、軍属や商売関係の人の移動や、焼夷弾に備えて防火水槽を増やしたことが原因と考えられている。終戦後は、輸入患者の激減や防火水槽の撤去、DDTを用いた駆除によって流行が収まった。
このように、一定期間、限定された地域において、同一目的で多人数が集合する「マスギャザリング」によって感染症が拡大することがある。数百万人がイスラム教の聖地を訪れる巡礼月を機に流行した中東呼吸器症候群(MERS)が典型例だ。
2年後に迫った東京2020大会のオリ・パラを含めた開催期間は1ヵ月半。2012年ロンドン大会で、海外から訪れた観客数が2000万人にのぼったことを考えると、いまだかつてない規模の国際的マスギャザリングへの対応を求められる機会になる。
東京都が2018年3月に公表した『東京2020大会の安全・安心の確保のための対処要領(第1版)』は、大会中に世界中から訪れるアスリートや大会関係者、観客、都民を対象とした危機管理対策で、①治安対策、②サイバーセキュリティ、③災害対策、④感染症対策――を柱としている。
④について、大会中は「感染症の性質」(重篤性、感染力)と「発生の様態」(発生地域、発生範囲)によって事態を整理し、最悪の場合は競技の中止や順延も辞さない構えだ。
感染症法上、全数把握対象となっている四類感染症のうち蚊が媒介するものは6種だが、蚊を介した人への感染(感染環)がある点と、媒介蚊(特にヒトスジシマカ)の国内生息域を考慮すると、大会中に注意すべき感染症は、デング熱、ジカウイルス感染症、チクングニア熱の3種だ。
このうちデング熱とジカウイルス感染症は大半の患者が数日から1週間で回復するだけに、ウイルスキャリアから、いつの間にか拡大する恐れがある。過去には、日本を旅行したドイツ人女性が帰国後にデング熱を発症し、滞在中の感染が疑われた事例があり、感染症を輸出してしまう可能性もある。
東京都は2004(平成16)年度から都内の公園等に生息する感染症媒介蚊のサーベイランスを行っており、計25施設で採集した蚊で病原体遺伝子の有無を調査しているほか、媒介蚊の発生防止に関する啓発活動も実施している。マスギャザリングにおける危機管理対策の基盤は、こうした平時の公衆衛生活動だ。
ただ、これらは危機管理対策の全体像から見るとごく一部に過ぎない。東京2020大会に向けてチケット購入希望者のID登録が始まったが、各国からの来訪者と共に競技を楽しめる貴重なイベントであると同時に、開催国としてさまざまなリスクを乗り切らねばならない試練のときでもある(玲)。