安倍首相の3選が濃厚になっている影響なのだろうか。モリカケ問題の追及をきっかけとして一時期の委縮状態から息を吹き返したかに見えたメディア状況に、再び暗雲が垂れ込め始めている。テレ朝「報道ステーション」の変質である。7月にプロデューサーが交替し、スポーツニュースばかり目立つ“ワイドショー化”が急速に進んでいる。


  今週の週刊文春は、その舞台裏を報じている。とは言っても、タイトルは『嵐櫻井と破局 富川アナの「イビリ」 小川アナが「もう限界……」』。番組変質の内実も暴いてはいるものの、記事全体のトーンやタイトルの付け方は、メインキャスターとサブキャスターの軋轢、という話に矮小化されている。そんな文春の“ゴシップ風ネタさばき”にも、世間の風向きをうかがう“腰の引けた雰囲気”が漂っている。


  番組をめぐる動きのひとつとして、プロデューサー交代にも言及はしている。だが問題の本質は、まさにこの部分にこそあるのだ。テレ朝会長から視聴率アップの“厳命”を受けて着任した新プロデューサーは《(今の報ステの)イメージは偏差値七十くらい。偏差値五十の庶民が見た時に理解できない》と“大衆番組化”をスタッフ一同に命じたという。硬派の特集を得意とする制作会社ディレクターの中には、番組との契約打ち切りを通告されたディレクターもいるのだという。原発問題などで高視聴率の実績を残してきたスタッフにもかかわらず。


  文春が記事の中心に据えている社会派アナ・小川彩佳さんの降板も、芸能色の濃い女子アナに交代する人事を考えれば、同じ文脈で語られるべき話だが、そこはなぜか富川悠太アナとの相性の悪さ、という話で説明されている。


  それにしても、テレ朝上層部が目指す“番組大衆化”の狙いは、本当に視聴率の向上にあるのだろうか。新プロデューサーが言うように、これまでの番組ファンがもし“高偏差値の報道”を好む階層なら、内容の幼稚化には到底耐えられず、必ずや番組離れを引き起こすように思える。


  結局のところ、これは政権や右派世論への新しい“忖度の手法”と考えたほうがわかりやすそうだ。政治的な路線転換はあまりにも露骨で、目立ちすぎる。しかし、番組そのものを“くだらなくする改変”だと、その点を曖昧にカモフラージュできる。政権に不都合な諸問題を追及する報道を減らすのは、決してスタンスを変えたわけではなく、あくまでも「庶民に難解な話を避けるため」と言い逃れできるのだ。テレ朝上層部の職業的プライドはいったいどうなっているのだろう、その有無を疑わざるを得ない。 


 また、今週の文春、新潮では、翁長雄志・沖縄県知事の死去についてほぼスルーだった。沖縄の戦後史を振り返れば、間違いなく指折りの存在感を示した人物であった。しかし「ヤマト」の保守メディアはついぞ、彼の主張を正面から受け止めることはなかった。反辺野古を訴える背後には中国の影がある、などとこじつけの陰謀論を常に吹聴し(海兵隊は尖閣防衛に即応するものではなく、西日本に基地を置く形でも対中国の抑止力は変わらない)、沖縄の辿ってきた歴史的不条理とその帰結である現状を見ようとはしなかった。


  それでも今週の誌面では、これまで散々重ねてきた“いつもの誹謗中傷”も目につくことはなかった。両誌にしてみれば今回、彼の死を“黙殺”し、中傷を思いとどまっただけでも、死者への冒涜を避ける礼節のつもりだったかもしれない。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。