(1)古代
「忍者」という単語が一般的になったのは、1950年代からで、それ以前は「忍び」であった。「忍び」は、乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)、草(くさ)、かまり、奪口(だっこう)など、さまざまな呼ばれ方をした。
人には、自分たちの出身を「できるだけ古く」「できるだけ偉大な人」に関連づけて、うぬぼれたいという習性があるみたい。『日本書記』には、「間諜」という単語が登場する。これを以って忍者の起源とする論もあるようだが、どうかな。「スパイ=間諜」と「忍者」とは、なんかイメージが違うように思う。 江戸時代に書かれた各種の忍術書にも、神武天皇の神武東征の功労者・道臣命(みちのおみのみこと)が忍者の元祖であるとか、聖徳太子が「志能便(しのび)」を使ったとか……あれこれ書かれてある。「忍び」の地位が低いことへの反発心の発露であろう。
(2)源義経は忍者である
「忍者」は、影の存在というイメージが強いが、時として表舞台で大活躍ということもある。源義経(1159~1189年)は鞍馬山で天狗から各種武術を学んだ。天狗とは、修験者(山伏)であり、修験道と忍術は関係が深い。五条の橋や壇ノ浦で見せた跳躍力は修験者に習った忍術に間違いない。一の谷や屋島の活躍も、忍術特有の奇策・ゲリラ戦法である。
それよりもなによりも、江戸時代の3大忍術秘伝書のひとつ『万川集海』(ばんせんしゅうかい)に、忍術の極意を詠んだ『義盛(よしもり)百首』が載っている。源義経の家来は弁慶だけが超有名だが、優秀な武将が大勢いた。そのなかのひとりが伊勢三郎義盛(?~1186年)で、義経四天王(正確には追加の四天王)のひとりである。『義盛百首』は、義盛本人が詠ったのではなく、『万川集海』を編集していた当時の忍術の極意和歌(忍術ハウツー和歌)を「忍術の元祖のひとり」と目されていた義盛に託したものである。どんな歌か、いくつか紹介しておきます。
・忍びには 習いの道は 多けれど 先ず第一は 敵に近づけ ・窃盗(しのび)には 時をしるこそ 大事なれ 敵の疲れと 油断する時
・軍(いくさ)には 窃盗(しのび)物見を つかはして 敵の作法を 知りてはからへ
・夜討には しのびのものを 先立てて 敵の案内 知りて下知せよ
・はかりごとも 敵の心に よるぞかし しのびを入れて 物音をきけ
・しのびには 三つの習いの あるぞかし 論と不敵と さては知略と(※論=口が上手いこと)
・敵にもし 見つけられなば 足はやに 逃げて帰るぞ 盗人(ぬすびと)のかち
なお、義盛の出自は、『平家物語』では伊勢鈴鹿山の山賊、『平治物語』では上野国の宿屋の息子、『源平盛衰記』では伊勢出身の前科者(殺人罪)である。
(3)悪党が忍者の源流
源平合戦の時代から漸次、武士の時代へ移行していった。武士の時代とは、基本的に暴力である。「切り取り強盗は武士の習い」「親子兄弟の殺し合いは当たり前」の弱肉強食の時代である。悪党が大手を振るう時代となった。播磨国の地誌『峯相記』(みねあいき)に、悪党の様子が書かれてある。
1300年頃は、10~20人規模で、みすぼらしい武具で、所々乱妨、浦々の海賊、寄取、強盗、山賊、追落をし、異類異形なる有様で、裏切り約束破りはものともせず、博打・博奕を好み、忍び小盗を業とする……といった程度であった。それが、1330年頃には、立派な馬に乗りつらなり50騎100騎と続き、兵具には金銀を散りばめ、所々を押領し、徒党を組んで契約し、城を落としたり、城を構えたりする。一目をはばかり、恥じ恐れる様子はまったくない。
要するに、1300年頃は10~20人のボロボロのみすぼらしい強盗集団が、1330年頃には数百人規模の堂々たる傭兵集団に成長したのである。なかには城を構える者もいた。それが、悪党の姿である。
なお、1333年鎌倉幕府滅亡(建武の新政)、1336年建武の新制崩壊(楠木正成湊川の戦いで戦死)という時代である。
勝つためには(金のためなら)、裏切り、恥なんかは、どうでもいい。正々堂々の戦いなんかは、どうでもいい。奇策・ゲリラ戦法こそが悪党の基本戦術である。 楠木正成(1294~1336年)が、小規模の強盗集団から大規模な傭兵集団に成長したという純粋な悪党であったかどうかは疑問がある。でも、当時の畿内では悪党的行動は常識であったから、楠木正成を悪党と呼んでも間違いではない。周知のとおり、楠木正成は奇策・ゲリラ戦で足利の大軍を蹴散らした。これは典型的な悪党の戦術である。
悪党の行動様式は、㋑忠義ではなく金銭契約である、㋺奇策・ゲリラ戦を特徴とする。そして、悪党の奇策・ゲリラ戦は、戦国時代に向かって急激に進化していく。生きるか死ぬかの合戦の時代、後世に述べられる「綺麗ごと武士道」なんかを奉っていたら、確実に死である。悪党の奇策・ゲリラ戦の進化のなかで忍術が磨かれていった。
(4)忍者が大活躍の戦国時代
悪党は生死を賭けた奇策・ゲリラ戦のなかから、業(わざ)を進化させた。その業は子へ孫へと継承され、さらに業に磨きがかかった。
伊賀の地は現在の三重県の最北で滋賀県に接している。山を越えると滋賀県で甲賀の地である。伊賀も甲賀も、あまり農耕に適さなかった土地である。動乱の京に近いこともあって、傭兵の需要が高まっていた。伊賀・甲賀の出身の悪党は、業(技術)を磨くことが、自身の命を守ると同時に高給臨時傭兵の雇用にありつくことを、おのずと知るようになった。百姓ではなく、「特殊技術で高級臨時傭兵」すなわち「忍び(忍者)」の誕生である。
江戸時代初期、伊賀に生まれた菊岡如幻の『伊乱記』には伊賀の風俗が書かれてある。「伊賀に住む人々は兵術をたしなみ、ことには忍びの道を励み、午前中は家業を行い、午後は平楽寺・薬師寺に集まって忍びの術の訓練をした」「伊賀衆は堅固な守りを固める寝殿にもたやすく侵入し、堀・塀を飛ぶ鳥のように超えるなど不思議の術をする者が多い」とある。
伊賀・甲賀の忍者集団が脚光を浴びたのは、1487年の「鈎(まがり)の陣」である。第9代将軍足利義尚(1465~1489年、在職1473~1489年)が近江の六角高頼を攻めた。将軍自ら8000の兵を引き連れて出陣し、それに加えて、多くの大名(細川、畠山、斯波、山名、一色、京極……)が参陣した。将軍本隊は、「鈎の陣」(現在の滋賀県栗東市、琵琶湖の南東)を本拠地にし、その周辺各地に諸大名が布陣した。
これに対して六角高頼は伊賀・甲賀の忍者集団を傭兵とした。忍者集団は「亀六ノ法」で戦った。敵が攻めてきたら、亀が甲羅の中に手足頭を引っこめるように、山中に隠れる。そして、神出鬼没に敵を攻撃する。将軍の本陣、各大名の陣地に頻繁に夜襲をかけ、各陣地では火事が続発した。諸大名の目の前での、伊賀・甲賀のゲリラ戦が展開され、伊賀・甲賀忍者は「スゴイな~」となった。
将軍側は、いかに大軍であっても敵の姿が見えないのでは攻撃のしようがない。ゲリラ戦が2年間続いた。
そして、将軍が本陣で病死した。しかし、病死ではなく、忍者の暗殺と噂され「スゴイな~」が強化された。ともかくも、「鈎の陣」によって、伊賀・甲賀の忍者集団は、特殊技術集団として極めて高い評価を獲得した。
雇用主の立場からすると、「必要な時だけの臨時雇用」のほうが、終身雇用よりも総体としては安くつく。したがって、足軽・雑兵など単純作業兵員は合戦のある時だけの臨時雇用で事足りる。しかし、特殊技術の忍者の場合、雇用終了後、敵に雇用されるリスクがある。たとえば、夜、忍び込んで放火をさせるという仕事をさせていた場合、雇用終了後、自宅が放火されてしまう危険性がある。だから、有力者の場合、忍者を終身雇用で契約するようになる。ゆえに、有力大名は自前の忍者集団を抱えるようになった。
➀武田信玄……「歩き巫女」と称する「くノ一」集団。これは、甲賀の上忍望月家の望月千代女がトップで、信玄は「歩き巫女」養成所をつくった。ハニートラップで情報収集、なんてことは当然あったが、チャンバラ能力は期待されていない。「くノ一」がチャンバラをするようになったのは、戦後、女性の社会進出の影響である。また、武田24将のひとり、近年は軍師として有名になった山本勘助は、多くの忍者を抱えていた。『万川集海』によると、信玄には直属の忍者が30人いて、厚く遇し、「三者饗談」略して「三者」と呼んだ。30人の忍者を間見・見分・目付の三者に分けて、常々心を通わせていた。
②上杉謙信……「軒猿」という忍者集団で情報収集した。さらに、軒猿のなかから「戦忍び」を選び、ゲリラ戦や破壊工作をさせた。
③北条……関東の覇者北条一族には、「風間」(=風磨)なる忍者集団がいた。現在の神奈川県足柄下郡の風間谷を根拠とする数百人規模の山賊集団で、親分を小太郎という。北条の初代北条早雲は、風磨党と契約を結び支配下におく。以後、北条と風磨党の契約は代々続く。風磨党の活躍で最も有名なのが川越夜戦(1546年)である。8万の敵軍の配置・弱点を風磨党忍者は詳細に調べ上げ、それに基づき8000の北条軍は合戦に勝利した
④毛利元就……中国の大大名になった毛利元就(1497~1571年)は、謀略の達人であった。それを支えたのが忍者である。元就が使用した忍者集団は2つあり、ひとつは世鬼一族である。もうひとつは、盲目の琵琶法師集団で座頭衆と呼ばれた。「世鬼」と言うと不気味な響きがあるが、広島県高田郡にかつて存在した地名である。幕末の高杉晋作奇兵隊の中には世鬼一族の末裔がいたようだ。
⑤伊達政宗……東北の大大名伊達政宗の忍者集団は3つある。ひとつは「草」と呼ばれる忍者集団である。そのなかに「芭蕉」という名の虚無僧忍者がいた。江戸時代の俳人「芭蕉」の忍者説が流布されているが、それからの推理かもしれない。2つ目は、「黒脛巾(くろはばき)組」である。商人、修験者に扮して諸国の情報収集に当たった。ただし、「黒脛巾組」は、本当に存在していたが不明である。3つ目は、出羽三山の修験者を忍者として活用した。大林防俊海が知られている。
⑥真田……真田一族そのものが忍者集団であったかもしれない。真田の本拠地の近くは、戸隠忍者、飯綱忍者の地域である。また、真田家は、甲賀の上忍望月家と系図上関係が深い。現在、戸隠流忍者道場は日本のみならず世界中にある。飯綱忍者は「飯縄使い」と呼ばれ、忍術よりは妖術のイメージである。狐をよく使う。
⑦織田信長……織田信長は、『万川集海』によると、忍者を「三者饗談」を略して「饗談」と呼び、今川を桶狭間で破ったのも「饗談」の功績と記されている。
⑧豊臣秀吉……秀吉も忍者集団を抱えていたが、どうもハッキリしない。蜂須賀小六(正勝)は野武士の親分で、秀吉自身も若い頃、そこに属していた、というのはフィクションである。秀吉の御伽衆である曽呂利新左衛門は落語の元祖とされているが、その実像は各種旅芸人ネットワークによる全国情報収集の元締めであった、とする説もある。滝川一益は甲賀出身の忍者という説もある。
(5)第1次天正伊賀の乱
前述したように伊賀の地は、「忍術という特殊技術者」の供給地域になった。雇用形態は「臨時雇用」であった。伊賀は「集団雇用」が多く、それに比して甲賀が「個人雇用」が多かったらしい。
伊賀は、特定の大名が支配する地域ではなく、有力土豪たちの自治地域であった。『伊賀惣国一揆』というのが自治組織の名前で、66人の土豪の平楽寺(現在は上野城公園)での評定が最高機関であった。『伊賀惣国一揆掟書』は、他国の勢力が伊賀に侵入したら、惣国が一味同心して防ぐ、といった掟が書かれてある。伊賀は、百姓の地ではなく、戦闘能力がある忍者集団(出稼ぎ忍者集団)の自治地域なのである。そして、『伊賀惣国一揆』は、甲賀とも連携していた。甲賀もまた『甲賀郡中惣』という名の自治組織であった。
なお「惣(そう)」とは、中世の自治組織をいう。
さて、織田信長(1534~1582年)は、1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。1567年、斎藤龍興(1548~1573年)を敗走させ、美濃国を手に入れ、稲葉山城を岐阜城と改名し、天下布武をスローガンとする。そして、滝川一益が伊勢国北部の攻略を開始する。伊勢国北部は翌年には一応平定された。
そして、1575年頃には、織田勢力は伊勢一国を支配した。4人の分割統治であった。4人とは、信長の二男・織田信雄(当時は北畠、1558~1630年)、信長の三男・織田信孝(当時は神戸、1556~1583年)、信長の弟・織田信包(当時は長野、1543~1614年)、滝川一益(1525~1586年)の4人である。4人が分割統治する伊勢衆は信長の命によって、各地を転戦する遊軍の位置づけであった。
1578年(天正6年)、織田信雄は隣接する伊賀への攻撃拠点として、滝川勝利(伊勢北畠氏の一族、滝川一益の養子になった)に命じて、神戸の丸山城の修築を始めた。『伊賀惣国一揆』は驚き、築城の様子を調査した。伊賀忍者にとって簡単なことで、巨大・堅固な城であることが判明した。伊賀忍者が平楽寺に集まり、「完成したら伊賀存亡の危機。完成までに破壊を」で方針が一致した。1578年10月25日、伊賀忍者の総攻撃、不意をくらった滝川勝利ら築城側は大混乱で敗走した。
1579年(天正7年)9月16日、織田信雄は、信長に相談なく、独断で8000の兵で伊賀国を三方から侵攻した。伊賀忍者集団は、夜襲、奇襲のゲリラ戦法で、わずか2~3日で信雄軍に大被害を与え敗走させた。 1578~1579年の戦いを「第1次天正伊賀の乱」という。
忍者を束ねる頭領を上忍と言い、伊賀には3人の上忍がいた。百地家の百地丹波、藤林家の藤林長門守、服部家の服部半蔵(初代)である。「第1次天正伊賀の乱」の総大将は、百地丹波と藤林長門守の2人である。
服部半蔵保長(初代)は何をしていたか。服部忍者集団200人は、伊賀を出て、第12代将軍足利義晴(1511~1550年、在職1521~1546年)に雇用されていたが、給金の支払いが悪かったようで、そこに、三河の松平清康(徳川家康の祖父、1511~1535年)が、服部忍者集団200人をそっくり雇用することになって三河へ行った。清康の下では給金もよく相当頑張ったようで、その功によって清康は西三河を統一した。
しかし、清康が家臣によって斬られて即死すると、松平家は一気に衰退し、服部忍者集団に支払う給金どころではなくなったが、服部半蔵保長は三河に留まっていた。つまり、「3大上忍」のひとり、服部半蔵は伊賀に居なかったのである。なお、本能寺の変(1582年)直後、徳川家康は、明智光秀の襲撃から逃れるため伊賀越えをするが、それを助けたのは服部半蔵正成(2代目)である。
「3大上忍」のひとり、藤林長門守に関しては、記録・資料らしきものは何もない。ただ、服部半蔵がいない伊賀で、北部は藤林長門守、南部は百地丹波の管轄だった。記録・資料が何もないので、「藤林長門守=百地丹波」同一人物説があるくらいだ。3大忍術秘伝書のひとつ『万川集海』の作者は、藤林長門守の子孫と言われている。そのなかに「人に知ることなくして、巧者なるを上忍とするなり」という一節がある。中忍・下忍200~300人を知られることなく使いこなしたわけだから、まさに上忍である。
「3大上忍」のひとり、百地丹波を有名にしたのは、「天正伊賀の乱」である。「第1次」では見事に勝利した。しかし、後述するが「第2次」では信長の大軍によって敗北し、戦死したとも逃げ延びたとも、定かではない。
なお、小説・漫画などでは、「百地三太夫」が登場するが、一応は百地丹波をモデルにしている。しかし、江戸時代の読本のフィクションである。百地三太夫は孤児の石川五右衛門に忍術を教えた。五右衛門は恩を仇で返した。百地三太夫の妻と愛妾を殺害し、金を奪って逃げた、そして――(省略)――というストーリーです。大正時代の立川文庫では、霧隠才蔵にも忍術を教えている。
(6)第2次天正伊賀の乱 織田信雄は「第1次天正伊賀の乱」(1578~1579年)の失敗で、父信長にこっぴどく叱られた。
そして、2年後の1581年(天正9年)9月3日、信長自ら安土城を出て、5万の大軍が伊賀盆地に押し寄せた。「第2次天正伊賀の乱」が始まった。 織田信雄は伊勢口から、筒井順慶は笠間口から、浅野長政は長谷口から、滝川一益、丹羽長秀、藤堂将監は柘植口から、蒲生氏郷、脇坂安治は玉滝口から、滝川雄利、織田信包は加太口から、堀秀政は信楽口から、織田の錚々たる軍団は伊賀盆地の四方から侵入した。1週間で大勢は決まり、後は掃討作戦で、約1ヵ月後、栢原城で和睦を結んで城を明け渡して終了した。百地丹波が柏原城で討ち死にしたという話もあれば、脱出したという話もある。
伊賀の住民の半数が殺戮されたとされている。たぶん、話がオーバーに、オーバーに展開していったのだろう。信長の比叡山延暦寺の全山焼き打ち・皆殺しも、最近では、焼けた寺院は少々、殺戮も少なかった、という検証が述べられている。
負けるとわかったら、恥も外聞もなく「逃げる」のが忍者である。 「戦って死ぬのが美」なんて思想は、忍者のみならず戦国時代の武士だってもっていない。忍者が、負けるのがわかっているのに死ぬまで戦うなんてことは、あり得ないことだ。
実際問題、伊賀から逃げて、岡山池田藩に仕えた忍者もいる。あるいは、三河の徳川家康へ逃れて、かくまわれた者もいた。それに、信長の三男・織田信孝の1582年(天正10年)の軍勢の中には伊賀衆・甲賀衆が700~800人もいる。
(7)その後の忍者 「第2次天正伊賀の乱」(1581年)の翌年、本能寺の変(1582年)が勃発した。徳川家康は少数の家臣と堺にいた。明智光秀の襲撃から逃れるため伊賀越えをするが、それを助けたのは服部半蔵正成(2代目)を中心とする伊賀忍者であった。「3大上忍」は消滅したが、新世代の服部半蔵正成(2代目)が上忍として成長していたのだ。そして、伊賀忍者は徳川家康の家臣団に組み込まれた。甲賀忍者も同じである。
時代は下って、8代将軍徳川吉宗(1664~1751年、在職1716~1745年)のことである。周知の如く、吉宗は御三家紀州藩出身である。将軍職就任にあたり、紀州から紀州藩士200~300人連れてきて幕臣とした。そして、「御庭番」という公儀諜報機関を新設し、その全員を紀州藩出身者で占めた。つまり、「御庭番」は紀州流忍術なのである。
紀州流忍術書『正忍記(しょうにんき)』は、俗に言う3大忍術秘伝書のひとつである。紀州流の名取三十郎正澄が1681年に書いたものである。 再三記載した『万川集海』は、伊賀・甲賀の忍術書で、「3大上忍」の藤林長門守の子孫が書いた。
3大忍術秘伝書の残りの1冊は『忍秘伝』は、服部半蔵保長(初代)が書き残したものである。 大正時代の立川文庫がつくった忍者ヒーローは、猿飛佐助と霧隠才蔵である。最後に、江戸時代に作られた忍者のヒーローを紹介しておきます。
●天竺徳兵衛……巨大ガマの妖術を使う。
●二木弾正……伊達騒動がモデル。ネズミに化ける。
●児雷也……ガマの児雷也、オロチの大蛇丸(おろちまる)、ナメクジの綱手(つなで)の三すくみが面白いですね。なぜ、これが三すくみなのですか? そうなってるのっ!
————————————————————
太田哲二(おおたてつじ) 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。