(1)後家の頑張り 


 高校時代、日本史をがっちり勉強(暗記)した人の、阿仏尼(あぶつに、推定1225~1283年)に対する知識は、次の2つである。


➀鎌倉時代の女流歌人


②夫が死んで、相続争いのため京から鎌倉へ下る。その時の紀行と鎌倉滞在を記したのが『十六夜日記』である。


「後家の頑張り」という用語がある。その意味は、夫と死別した女性が、再婚せず家族を支えるため、なりふりかまわず奮闘することで、「後家の踏ん張り」とも言う。いつの頃か「後家」は放送自粛(禁止)用語になった。そのためであろうか、「後家の頑張り」も、使用されなくなったようだ。「未亡人の頑張り」とでも言い換えるのかしら……。ともかくも、阿仏尼は「後家の頑張り」で行動し、そのかいあって、冷泉家は800年間存続している。


 言葉にからんで、『十六夜日記』の「十六夜』は「イザヨイ」と読む。その理由は何か。十五夜(満月)の翌日が十六夜である。約50分、月の出が遅い。これは、お月様が、「出ようかな、どうしようかな」とためらっていたからで、「ためらう」を古語では「いざよう」と言った。『十六夜日記』は書かれた当時は題名がなく、『阿仏日記』と称されていたが、後世の者が、旅の出発日が「10月16日」なので、『十六夜日記』と呼ぶようになり、それが定着した。


「阿仏尼」は30歳代に出家した時の法名であるが、当時の常として、本当の名は知られていない。別段、女性蔑視というのではなく、本名を知られることは、呪術によって人格が支配されるという思想のためである。安嘉門院(あんかもんいん)=邦子内親王(1209~1283年)に、女房として長く使えていたので、文献では安嘉門院四条の名で記されることが多い。面倒なので、阿仏尼で通します。


 なお、出家=禁欲というイメージがありますが、阿仏尼の出家は、単に髪を短くした程度のことで、まるで世俗の人です。髪型ファッションと思ったほうがわかりやすいと思います。


 安嘉門院は、言うまでもなく皇族・女院で、膨大な荘園群を所有していた。 (2)失恋『うたたね』  阿仏尼の父(または養父)は平度繁(のりしげ)で、その父・平繁雅(しげまさ)は、京に在住し皇族に仕えながら源頼朝の御家人という立場で、かなりの富裕かつ実力があったようだ。つまり、京の皇族とも縁があり、鎌倉の幕府との縁がある。晩年の阿仏尼の行動の背景には、父・祖父ルートの鎌倉幕府人脈があったのかもしれない。


 阿仏尼の母は、知られていません。


 阿仏尼(30歳代の頃)は、若い頃を思い出して『うたたね』という失恋日記を書いている。当時の日記は「読まれることが前提」の日記で、それなりに脚色があるものだ。しかしながら、『うたたね』の場合は、ノンフィクションよりは物語(フィクション)に近いと評価されている。まぁしかし、若い女性ならば恋もしたろうし、失恋もしたでしょう。


(前半)早春に上流貴族との恋が始まり、夏には熱い恋となり、秋には男の訪れが疎遠となり、冬には途絶える。主人公は嘆き悲しみ、翌年の春の夜、自ら髪を落として、激しい雨の中、夜道をさまよい、西山の尼寺へたどり着く。でも、男は見向きもしない。彼女は病気となって、自宅へ帰る。


(後半)彼女は嘆き悲しみ続ける。秋になり、遠江(現在の静岡県西部)から都に出てきていた養父に誘われて、気がすすまないまま遠江へ行き浜松で過ごす。しかし、都の乳母が病気との知らせがあり、寒い冬に帰京する。


『うたたね』は、若干の自分の体験をもとにした短編小説(フィクション)なのだが、専門家によると『源氏物語』の文体に似ているそうだ。つまり、阿仏尼は『源氏物語』を暗記するくらいよく読んでいたので、自ずと似た文体になったと推測されている。間違いなく文学女性である。しからば、若き阿仏尼の恋の真相は、いかに。別の文献『源承和歌口伝』(げんしょうわかくでん)と『阿仏の文』の2つから、次のような推測がなされている。なお、『源承和歌口伝』は源承(藤原為家の子)の歌論書、『阿仏の文』は阿仏尼が自分の娘が宮中へ宮仕えするにあったて心得を書いたものである。


 若き阿仏尼は安嘉門院に仕えていた。阿仏尼には親が決めた婚約者がいたが、別の男に恋をしてしまった。そして妊娠した。親からは勘当され、法華寺(尼寺)に入寺しようとしたが許可されず、慶政上人を頼った。そして法華寺の「ほとり」に住み、娘を出産した。約2年間は親類縁者から見放され困窮と孤独にあった。そんな時期、藤原為家の娘である後嵯峨院大納言典侍為子(ためこ)が、父藤原為家(1198~1275年)のために、『源氏物語』を書写する女性を求めていて、法華寺の長老慈善尼の相談をしたら、阿仏尼を紹介された。阿仏尼は為家の助手になり、すぐに2人に愛が芽生えていった。


 若干の解説を。


 当時の奈良の法華寺は貴族社会から離脱した独身女性が身を寄せる聖域(サンクチュアリ、アジール)のような場所であった。宮中に仕えていた女房達も多く入寺していた。したがって、貴族社会との人脈が自ずと形成されていた。また、寺の周辺には多くの在家女性が居住しており、かなりの規模の女性集団を形成していた。いわば、女性専用福祉地帯であった。


 為家は、藤原定家(1162~1241年)の次男である。その祖は、摂関政治の黄金時代にあった藤原道長(966~1028年)の6男・藤原長家であり、その系統を御子左家(みこひだりけ)という。藤原俊成・定家の親子によって、御子左家は歌道の家と認知された。


 藤原定家は『新古今和歌集』の中心的選者、『小倉百人一首』の選者であり、18~74歳までの克明な日記『明月記』は、当時の歴史を知るうえで必須文献である。その死後、藤原定家の権威は完全無欠にまで高まった。


 為家は、藤原定家の次男であったが、歌道の家たる御子左家を継いだ。  あらかじめ言えば、為家には、正妻(宇都宮頼綱娘)がいて、後妻が阿仏尼である。正妻の2人の子は「二条家・二条流」と「京極家・京極流」となり、阿仏尼の子は「冷泉家・冷泉流」となった。つまり、歌道の家たる御子左家は、3分割されたのだ。そして、二条家・京極家は南北朝時代には途絶えたが、冷泉家は今も存在している。


(3)阿仏尼と為家の恋の歌  前述したように、阿仏尼は藤原為家の助手になり、すぐに恋愛関係になった。阿仏尼29歳頃、為家56歳である。


 2人の恋愛贈答歌が10首残っている。そのなかのひとつ。


 暁の時雨に濡れて阿仏尼のもとから帰った為家が、次の歌を送った。


  かへるさの しののめ暗き 村雲も わが袖よりや しぐれそめつる 


<現代訳……帰り道、東雲(しののめ)の空を暗くしたむら雲(むらがり立つ雲)も、私の(涙に濡れた)袖に誘われて、しぐれ始めたのだろうか>  それに対して阿仏尼が返した歌は第2句「しののめ暗き」をそっくり含んで詠んだ。


  後朝(きぬぎぬ)の しののめ暗き 別れ路に 添えし涙は さぞしぐれけん 


<現代訳…後朝(きぬぎぬ)は「衣衣」とも書く。当時は掛布団がなく、男女の衣を重ねて寝た。衣の袖の涙は、(私が)添えた涙なので、しぐれたのです>  サラッと読んでも、エロですな~。深読みすれば、さらにエロエロですな~。60歳前後の為家、30歳前後の阿仏尼にメロメロになるのが、実によくわかる。もうひとつ紹介しておきます。


 阿仏尼の所に少しだけ立ち寄ってお話しただけで帰った為家は、次の歌を送った。 


  まどろまぬ 時さへ夢の 見えつるは 心に余る 行き来なりけり


<現代訳…まどろんでもいないのに、夢を見たような気になるのは、私の恋心があふれて、行ったり来たりしたのです>  為家の熱烈ラブレターに対して、阿仏尼の返し歌は、次のものです。


   魂は うつつの夢に あくがれて 見しも見えしも 思いわかれず 


<現代訳…あなたの魂は、現実にあった夢のようなひとときに、あこがれて(心と体が離れてこちらへ来られたのを)私には見たのか見えたのか、(私にとってもすばらしいひとときでうわの空状態でしたので)わかりません>  2人は青江三奈の『恍惚のブルース』状態でございました。


 ただし、2人は恋だけに熱中していたわけではない。藤原定家亡き後は、歌道の家、御子左家を継いだ為家が、事実上文化人ナンバーワンであるから、為家の嵯峨の邸宅には、連日のように客が訪れ、和歌、連歌、源氏物語講義、朗詠や今様、音楽、蹴鞠などが催されて、まさしく文芸サロンであった。この文芸サロンは、ひと段落すると必ず酒宴となった。


 客から、為家は「あるじ」と呼ばれ、阿仏尼は「女あるじ」と呼ばれた。「女あるじ」阿仏尼は、場を盛り上げるのがとても上手で、感激して泣きだす人もいた。しかし、阿仏尼は料亭の女将ではない。「かど」がある女性であった。「かど」とは、才気、利発、活発、明朗、鋭敏という意味である。「なよなよと、ものおもいにふけり」とは正反対の性格である。「かど」ある阿仏尼は、為家が亡くなるまでの20数年間、為家の妻であり、最高の助手であった。阿仏尼の人生にとっても、最高に幸福な時期であった。


(4)相続は争続なり


 1275年、為家が78歳で亡くなる。阿仏尼は51歳である。御子左家の重要な荘園は、近江国の吉富庄、播磨国の越部庄、播磨国の細川庄の3つであった。為家は、最初は3つとも嫡男・為氏(先妻の子)に与えた。ところが、後妻の阿仏尼を愛し、その子・為相(ためすけ)を溺愛するようになった。3つとも為相に与えようしたが、さすがにそうもいかず、最重要荘園の吉富庄は為氏のものとなった。越部庄は為相のものとなった。問題は細川庄である。細川庄をどっちが相続するか、である。


 当時の法を大雑把に説明しよう。  まず、荘園の支配権には領家職(朝廷が管轄)と地頭職(鎌倉幕府が管轄)がある。あっさり言えば、領家職は名目的で、地頭職が実質的な支配権である。


 遺言状の効力は、朝廷と幕府によって異なる。朝廷の司法では、一度、遺言状が書かれたら、それが有効であり、後日書かれた別の遺言状は無効である。幕府の司法では、後日書かれた別の遺言状は有効である。


 それから、中世にあっては後家は亡き夫と子の間を繋ぐ夫の代行者としての責任・権限があった。現代よりも、はるかに重い役割があった。


 ついでに現行法では、公正証書遺言だろうが自筆遺言だろうが、最後に書いた遺言が絶対的に有効である。しばしば、自筆遺言よりも公正証書遺言のほうが優先すると錯覚している人がいるが、間違いである。例えば9月1日に公正証書遺言で「財産全部を長男Aに譲る」、同年10月1日に自筆遺言で「財産全部を次男Bに譲る」と書いた場合、公正証書遺言は無効で、自筆遺言が有効となる。さらについでに言えば、私が直接見聞きする範囲では、「先妻の子供と後妻」の相続争いは、かなり多い。


 本題に戻る。細川庄は、最初、為氏(先妻の子)に与えられた。しかし、後日、為家は為相(後妻・阿仏尼の子)に与える遺言状を書いた。朝廷の法に立てば、為氏の勝ち、幕府の法に立てば為相の勝ちということになる。


 この相続争いは、京で行われていた。京の司法は、幕府の出先機関(六波羅探題)であっても、朝廷の法の影響が強かった。阿仏尼・為相は京での4年間の法廷闘争に負けた。そこで、阿仏尼は鎌倉へ下って、逆転に賭けた。


 阿仏尼55歳、1279年10月16日、京を出発。冒頭に書いたように、16日に出発したので『十六夜日記』と呼ばれるようになった。10月29日、鎌倉に到着。14日間の旅であった。輿(こし)や馬を利用した旅であっても、初老の女性にとって、さぞや、しんどい旅だったろう。


 第1泊目は、鏡宿まで行く予定だったが、そこまで行けず、手前の守山宿で泊まった。「今日は十六日の夜なりけり。いと苦しくて、打ち臥しぬ」と日記に記されている。くたびれてバタンキュウであった。しかし、すぐに旅に慣れ、旅の風景・風物・風俗などを好奇心をもって書き記し和歌に詠んだ。


 そして、旅の途中の各地有名神社へ立ち寄り、必勝祈願をして自作の和歌を奉納した。熱田宮では、5首を奉納した。三嶋明神(三嶋大社)、走湯山(伊豆山神社)、箱根宮(箱根神社)では、それぞれ100首を奉納して必勝祈願をした。さすが、歌人である。


『十六夜日記』の前半は紀行文であるが、後半は鎌倉滞在記である。とはいうものの、大半は、京との手紙(和歌)のやりとりである。


 鎌倉では、月影の谷に住んだ。江の島電鉄の極楽寺駅の南の線路沿いに「阿仏邸旧蹟」という碑があるが、これは江の島電鉄の商魂の作用によるものであろう。実際は、そこから、さらに北の奥へ進んだ山麓と推理されている。


 鎌倉へ到着して、すぐさま鶴岡八幡宮(若宮)へ必勝祈願100首和歌を奉納した。翌年(1280年、阿仏尼56歳)正月に、稲荷社へ必勝祈願100首和歌を奉納。3月に聖福寺の新熊野社へ必勝祈願100首和歌を奉納。6月に荏柄(えがら)天神社へ必勝祈願100首和歌を奉納。荏柄天神社は、大宰府天満宮、北野天満宮とともに三天神と称されている。なお、『十六夜日記』後半部分は、この頃で終わる。


 1281年3月、鎌倉の亀ヶ谷(現在の鎌倉市扇ヶ谷)に転居した。その近所の新賀茂社、新日吉社へ必勝祈願のため和歌100首をそれぞれ奉納している。なお、新賀茂社も新日吉社も、どこにあったのか、現在不明である。同年秋、常陸国の鹿島神宮に必勝祈願100首和歌を奉納するため、常陸国の知人へ送る。


 1282年正月、常陸国の知人から無事奉納したとの知らせが来る。


 さて、阿仏尼が鎌倉に住み始めた1279年(弘安2年)とは、いかなる年か。元寇の渦中の時代である。1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役である。鎌倉幕府は、テンヤワンヤの時期である。そのためであろう、訴訟はなかなか進展しなかった。


 そして、1283年4月8日、阿仏尼は鎌倉で死す(59歳)。お墓は、鎌倉の英勝寺(の近く)にある。お墓ではなく、後世の誰かが建てた供養塔という説がある。また、京都市南区の大通寺にも阿仏尼の墓と伝えられているものがある。


 訴訟の行方であるが、1289年判決は為相(阿仏尼の子)の勝ち。しかし、1291年判決は逆転して為世(為氏の子)の勝ち。そして、1313年鎌倉幕府の最終判決で為相(阿仏尼の子)の勝ちとなった。阿仏尼が鎌倉へ下って34年後、阿仏尼が没して30年後、やっと細川庄は為相(阿仏尼の子)のものとなった。 


  阿仏尼の総合評価に関しては、「女流作家」と「(家を守った)良妻賢母」の2つがある。明治~昭和は、国家によって「(家を守った)良妻賢母」が強調された。しかし、〇×思考、二者択一思考を脱ぎ去れば、わかりきった話、「人間は複雑」で、ひとつの側面から評価できるものではない、ということである。


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太田哲二(おおたてつじ) 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。