前回触れた『新潮45』の件は、同誌の休刊(事実上の廃刊)という何とも苦い形で決着した。直接のきっかけとなった『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』という特集やこのところの新潮45の誌面には、私自身、拒絶反応を抱く側のひとりだが、それでも休刊という新潮社の判断には、喜ぶ気になれない。
現在の編集長になって以降、確かにグロテスクな雑誌に変質してしまった。それでも、それ以前はある程度まともな雑誌だと思っていたからだ。直接仕事をする縁はなかったが、知り合いの編集者もいて、「何か書かないか」と声をかけてもらったこともある。必ずしも自分と“趣味の合う雑誌”ではなかったが、それはそれとして、幅広いプロの文筆家に開かれた媒体、という印象を持っていた。
ある程度社会的に認められた媒体は、基本的に書き手の力量や原稿のクオリティーを第一に考える。デマやデタラメを散りばめて極論を書く人は、当然のように排除される。編集者や校閲の存在には、そういった書き手や原稿の“質”を保証する役割もあった。その意味で、最近の新潮45は“ヘイト雑誌化”した、と言われても仕方のないものだった。
今回の問題を受け、本当に必要とされたのは、出版社の責任においてことの本質を徹底検証し、正常な誌面を取り戻すことだった。部数減に悩み、ネトウヨ化を進め、にもかかわらず部数減に歯止めがかからない。そんな悪循環のなか、“渡りに船”と不採算雑誌を切り捨ててしまった。今回の社の措置には、そんな印象が残る。
そもそも長文の記事を掲載する雑誌媒体は年々減り続けている。これはまさに、出版という文化そのものの死活問題だ。世の文筆家の大半は、書籍の印税と雑誌原稿料、この2本立てで何とか生きている。書き下ろし書籍の印税のみでやっていける人は、ごくひと握りだ。だがこの調子で雑誌媒体が減少し、原稿料収入を得る道を失えば、遠からず文筆を生業とする人は激減し、書籍の質も低下するだろう。
ネット向けに短文を書く仕事は、決して雑誌消滅の受け皿にはなり得ない。ごく一部“天賦の才”を持つ人は別として、作家と呼ばれる人の大半は、プロの雑誌編集者のもとで長文を書く修練を積み、初めて読むに堪える本を書けるようになる。雑誌連載の原稿料プラス書籍化した際の印税という合算で収支の辻褄を合わせることも不可能になってしまう。
新潮45を休刊するという発表は25日(火)だったから、各週刊誌はどこもまだこの件には触れていない。来週の各誌はいったいどのように、この件を取り上げるのだろう。もちろん『Hanada』や『Will』などの“特定読者向け専門月刊誌”は、“サヨクの大言論弾圧”と次の号で大特集をするのだろう。ネット上の呟きを見る限り、おそらくそんな流れになる。
そういえば、『Hanada』の花田紀凱編集長自身、その昔、ナチスによるホロコースト否定という“筆禍事件”によって、文藝春秋の『マルコポーロ』を廃刊に追い込んだ編集長でもあった。雑誌廃刊については、そうした問題誌面を作った側の責任より、記事に抗議する人々への反感、つまり“被害者意識”のほうが強いのではないか。そうでない限り、現在のような雑誌作りを続けられるとは、到底思えない。
今回のLGBT差別問題で、雑誌そのものの廃刊・休刊を求める訴えはほとんど見ず(少なくとも文化人の批判者にそういった声はなかったように思う)、その点では安心した。かたや問題の“火点け役”杉田水脈議員らと近しい立場にいる『Hanada』などの常連執筆者は、長年にわたって彼ら自身、朝日新聞の「廃刊」を要求し続けてきた。となると、今回はいったいどのような論理構成で「言論弾圧」という話を仕立て上げるのか。常識的に見れば“無理筋”に思えるが、彼らお得意の詭弁を駆使すれば、どうということもないのか。
興味深いのはそんな彼らより、一般の総合誌がどう捉えるかだ。個人的には、問題の根本にある“ネトウヨ系執筆者”との距離の取り方について、率直な自省を読みたい気がする。昨今の出版業界にとって、最もセンシティブな話だけに、お茶を濁し終わる可能性が大きいとは思うが、たとえ行間にでも、雑誌編集者の良心や苦悩を感じ取ってみたい。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。