当の本人が嫌がるのに、ほかに適当な呼称が見当たらない。そんな悩ましいケースがある。例えば、今回の沖縄県知事選では、米軍人の父を持つ玉城デニー氏が当選を果たしたが、関連するネット記事を見ていると、同じように米日の両親を持つ女性のインタビューが載っていた。


 曰く、自分は「ハーフ」でも「ダブル」でもない。玉城氏の支持者の間ですら「日米ハーフ」と呼ぶ人がいて、失望を禁じ得なかったと。だが、そんな彼女も、周囲と異なる外見で子ども時代、いじめに苦しんだ体験を語っている。では、“そうした人々のこと”を論じるには、いったいどうしたらいいのか。この女性は答えを与えてはくれない。


 さまざまな分野で活躍が目立つ若い“ハーフ”たちについて、私は以前、短期の特集連載を書いたことがある。取材で出会った人たちには、「ハーフでなくダブルという言い方をしてほしい」と申し出る家族も確かにいた。「ハーフ」という言い方には、半分とか、半人前とか、そんなイメージの響きがあり、「ダブル」ならふたつの血、ふたつの文化を兼ね備えるポジティブな感じがする、という理由だったのだろう。


 だが私は、この申し出を断った。ただ単に「ダブルの人」と言っても、一般にはなかなか通じない。外国人の片親を持つ人だという説明が必要になってしまう。そもそも、大半の人は「ハーフ」という言葉そのものに、プラス面もマイナス面も感じてはいない。逆に「ダブル」というプラス側面をことさら強調する言葉を使うことで、彼らを称賛する企画連載という誤解を生じかねない。私はフラットな記事を書きたいのだ。そんな説明をして納得してもらった。


 沖縄の女性も、言いたかったのは「自分は『憐れむべきハーフ』でも、『人より秀でた能力を持つダブル』でもない、普通の人間だ」ということだろう。だがそれでも、彼女たちについて何かを語るには、何らかの呼び方がやはり必要だと思う。


 もうひとつ、扱いにくいケースに「ネット右翼」「ネトウヨ」という呼称がある。当事者たちから見て、少なくとも後者は「蔑称」になるらしい。だが、彼らをそう呼ぶ側として、大切なポイントはそこにはない。本当の「民族派・右翼」、あるいは穏健な「保守」、そのどちらとも異なる人々を区別して呼ばなければ、「右翼」や「保守」の人に申し訳ない。そう思っているからだ。


 両者と区別できるなら、何でもいい。ただ、どんな言葉を選ぼうとも、蔑みの響きは帯びてしまうだろう。実際に彼らを蔑んでいるからだ。だが、何よりも理解してほしいのは、「右翼」や「保守」に対しては、一定のリスペクトを持っている、ということだ。そのことはハッキリ示したいのである(大雑把に「保革いずれか」と問われれば、自分も保守の一部だと思っている)。


 目下店頭に並ぶのは先週に出た合併号だが、週刊ポストのスクープを見て、改めてそう思った。『「陛下は靖国を潰そうとしている」 靖国神社トップ「皇室批判」の波紋』という記事だ。要は、小堀邦夫という靖国トップの宮司が内輪の会合で、天皇夫妻の「慰霊の旅」をこきおろし、靖国にとって邪魔だと言い放ったのだ。


 天皇や皇室を敬わず、靖国の立場をその上位に置く。この宮司の立場はどう呼んだらいいのだろう。以前、ネトウヨのツイッターで「天皇はサヨクだ」とする文を見て仰天したことがあるが、この記事の印象はそれに似ている。問題は今回の事例では、そんな人がネットの世界でなく、現実の靖国宮司として存在した、ということだ。こんなところにまで“ネトウヨ化”が進んでいる。記事の感想を記すのに、ほかの表現は浮かばない。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。