●美しく、潔く、苦悩せずに死ぬことの了解


  最近の新聞や雑誌、テレビ番組、つまりメディアで主流をなしているのが、「死に方」に関する異様な世論形成、社会的合意への同調圧力だ。そう感じているのは筆者だけなのだろうか。例えば18年10月の大新聞のコラムで、高名な高齢女性作家が、自らの「老衰」をこだわりなく述べつつ、継続していた執筆活動、関連事業の整理を進めていることを明らかにし、そのことを「けじめ」と標榜している。


 また同じく18年10月号の月刊小説雑誌のコラムでは、別の女流作家が、骨折入院体験を語りながら、術前と勘違いしてしまった柔らかく穏やかな全身麻酔経験を報告しつつ、終末期にはその技術を使って心地よく逝かせてほしいなどと述べている。


 たまたま筆者が散見した2つのエッセイは、一見して共通性があるように思えないかもしれないが、両者に共通して見えるのは、「死ぬことを恐れてはいない」という確固としたメッセージであり、潔く、美しく、苦悩せずに死ぬことは、すでに多くの人々の「常識」、あるいは「観念」となっているという前提がおかれていることだ。


 生き様は死に様であり、見苦しい死に方はすでに犯罪的であり、日本人の常識として死は従容と平穏に受け止め、迎え入れなければならないという考え方が「規律」になり始めているように思える。「同調圧力」をすでに超えている。


 関心を強く持たざるを得ないのは、2人の仕事が「作家」であることだ。およそ、小説、文学世界の中で、「死」は最も大きなテーマではないのかと、筆者は疑う。シェークスピアやゲーテ、「高瀬舟」を書いた森鴎外はその大きな関心を死においている。そのモチーフを作家がぞんざいに扱っても何の違和感をもたれない時代になった。


 率直に言って、このような問題意識が筆者に明確に存在していたわけではない。ただ、ずっと、最近の多様なエピソードに遭遇するたびに、もやもやと粘りついていた「違和」の存在には悩んでいた。例えば、100歳長寿者が増えて、すでに10万人に迫るという状況を報じるメディアは、かなり遠慮なく「迷惑顔」を示している。筆者が、医療関連の専門取材記者として走り始めた70年代後半には、100歳長寿者の名簿発表は手放しで明るい話題だった。どうしてこうもメディアは変われたのか。


 意識、あるいは関心として、筆者には心に粘りついていたものの正体は明確化し始めている。このレポートではそれをさらに進めて、なぜ「美しく、潔く、苦悩しない死に様」が同調圧力、あるいは規律としてこの社会を覆うようになったのかを探ってみたい。 「なぜ人を殺してはいけないのか」という設問に、完璧な回答はないが、それは疑問として存在してはならないという合意があるからだ。「なぜ見苦しく、(延命医療や介護で)人に迷惑をかけて死んではいけないのか」は、まだ疑問として存在してもいいのではないか。ほとんど支持を得られないトライであることは承知の上だが、まず手始めにいくつかの図書を読んでみることにした。


●延命医療の拒否が常識、正義になったことへの疑い


 筆者は1年ほど前、ある大企業の役員経験者OBの懇親会に、「話題提供役のゲスト」として招かれたことがある。最も若い人で75歳程度だったから、集まった20人ほどの人たちは皆、後期高齢者。懇親会に参加できるのだからすこぶる元気で、闊達だ。驚いたのは、その人たちのほぼ全員が、いわゆる「終活」に強い関心を持っていることだった。そしてほぼ全員が「寝たきりは嫌だ」と口をそろえ、延命医療を受けることを否定した。


 なかには、持ち歩く運転免許証、健康保険証に延命医療を拒否するカードを所持している人が複数いた。すでに後期高齢者の富裕層には、延命医療否定は常識であり、もっと彼らの意思を正確に反映すれば、「正義」になっていることが読み取れた。そうした意思表明カードは、救急搬送された場合などはあまり意味がないと私が水を差すと、彼らは一斉にブーイングで応えたほどだ。


 こうした「延命医療の拒否」の多数化、常識化が、現代の日本社会を覆う「正しい死に方」イデオロギーを決定的に促したきっかけではないかと筆者は考える。そして、その大きな知的刺激として、伝えられたのがアトゥール・ガワンデ著の「死すべき定め」(みすず書房、原井宏明訳、2016年6月刊)ではないだろうか。ただその結果は、この本を間違えて読んだという疑いを持っておくべきである。


「死すべき定め」は、「死にゆく人に何ができるか」という副題がついている。人が尊厳を持って最期を迎えることは何かを問いかける本であることは間違いないが、そうあるべきだとは何も書かれてはいない。「延命医療」は、むろん人生論として語られるべきものでもなく、あるいは医療経済的側面からアプローチされるべきものではない。筆者も同書で、延命医療のあり方そのものに対する、理解そのものが相当に不十分で、かついい加減だったことを思い知らされたことは率直に認める。


「死すべき定め」は、人々が生きることを大切に思うなかで、その定めは「死んで行くこと」だけで、「死に方」は尊厳のありようとは別であることを明確に語っている。延命医療の拒否が、尊厳死であるとか、平穏死であるとか、自然死であるなどというイデオロギーにはつながらないのだ。


●ゆっくりと老いることは恥ずべきことか


 同書は「自立した自己」「形あるものは崩れ落ちる」「依存」「援助」「より良い生活」「定めに任せる」「厳しい会話」「勇気」のタイトルがついた8章で編まれている。序文では、多くの読者が読み間違えそうだが、「現代の科学技術の能力は人の一生を根本的に変えてしまった。人類史上、人はもっとも長く、よく生きるようになっている。しかし、科学の進歩は老化と死のプロセスを医学的経験に変え、医療の専門家によって管理されることがらにしてしまった。そして、医療関係者はこのことがらを扱う準備を驚くほどまったくしていない」と述べている。老化と死のプロセスは、医学的経験に変えて、医療の専門家に管理されてしまってはならないと、ここでは読み取れるが、延命医療を拒否することへの飛躍を確かめることはできない。


「自立した自己」の章では、著者は長寿化が家族の在り方や社会構造、生活システムを変化させてきたことに理解を示しながら、死ではなく「引退」という概念が出現したことを切り取っている。かつて人は、元気だった時間から崖から滑り落ちるような形で、死に至った。現代では、医学と公衆衛生の進歩によって、「引退」を契機に階段を少しずつ降りるように死を迎える。「階段」は慢性疾患の治療と回復を繰り返すことだ。そして、人はゆっくりと衰えていくことに自覚的になり、「どこか恥ずべきこと」のように思い、例えば97歳の女性がフルマラソンを走ったことを聞くと、自分もそうでありたいというファンタジーが現実化しないことに、申し訳ないと思わせるようになったと指摘している。 「人はゆっくりと老いていくことを、どこか恥ずべきことのようになった」という彼の指摘、洞察を読み落としてはならないのではないか。


 さらに彼は、医学、医療、介護がこうした「ゆっくりと衰える」構造に無関心であり、無力であることを繰り返し指摘している。「医療関係者は役に立たない。治せるようなはっきりした問題をもっているのでなければ、医師は患者に興味を示さない」。端的に、身も蓋もなく言ってしまえば、延命医療拒否の短絡的なロジックは、こうした医療から無関心に捨て置かれる前に、自らを処してしまうという嫌な美意識にさえ達してしまいそうだ。


 彼は、米国では医師が老年医学が儲からないために関心がないとも指摘しているが、日本では老年者が次世代のカネの心配をしている。また、そうした「医療の管理」が、高齢者ケアの質を阻害していることにも関心を求めている。


 また、同じような慢性疾患、あるいはがんに罹っていても、高度で患者に苦痛を強いる延命治療よりも、本人の意思を優先した治療のほうが、実は延命効果が大きいということも科学的データを示しながら指摘している。そのうえで、医学や医療が強いる苦痛は、「生」への希望を持つ患者には実はあまり有効ではなく、苦痛をなるべく回避し、残された人生を自由で有意義に過ごしたい患者に寄り添ったほうが、実は余命は長いという驚くべき見解も示す。問題は延命医療の質なのだ。延命医療を拒否するのではなく、質の高い延命医療を選び取ることが必要だという議論がスポイルされていることに気付くべきである。


 そしてガワンデが「ゆっくりと衰える」ことを「恥ずべき」と考えてはならないという見解に、筆者は現在の「正しい死に方」思潮とのずれを感じる。「老衰」とは何か、日本社会は真剣に考えているのか。(幸)