イスラム国で人質となった後藤健二さんに対する、命の瀬戸際でのバッシング特集や、報道ステーションの出演者降板騒動で、官邸の圧力やテレ朝の“屈服”という報道の根幹にかかわる問題を無視したまま、渦中のコメンテーター・古賀茂明氏への個人攻撃を大展開した特集など、このところの週刊文春には、従来、それなりのバランス感覚を見せてきた穏健な保守路線を逸脱する“2チャンネル的攻撃性”が目に余る。
より強い言い方をしてしまえば、まさに官邸の“オピニオン誌”になったかのような“目ざわりな存在”への敵意である。同社に数多くの知己をもつ筆者は、必ずしもこの論調は文春全体のカラーでなく、アクの強い編集長の個性によるものだと理解しているが、それにしても、あまりにも読後感が苦い。
例示した2つの特集はいずれも単発で、キャンペーン化せずに終わっていることから、おそらく発売後の反応が思わしくなかったのだろう。とくに後藤さんの場合は、誹謗中傷を大展開した直後に惨殺されてしまったから、さすがに気まずさを感じたのか、次の号では180度タッチを変え、慌てて死を悼むトーンで記事をまとめている。
しかし、基本的に“官邸ベッタリ路線”は譲るつもりはないらしく、今週は「反沖縄」である。しかも今回は「総力特集第1弾」と銘打って、しばらくは沖縄バッシングを連打する構えだ。もはや明らかに確信犯としてのヘイト路線だし、当方としても無視したかったのだが、こんな時に限って他誌に目ぼしい記事が見当たらない。
3月に沖縄取材に行ってきた経験からすれば、この渾身のキャンペーンはあいにく、現地に何ひとつ動揺を与えないだろう。辺野古集落の米兵向けミニ飲食街で聞けば基地建設容認の声が強いこと、基地前の座り込みには県外や那覇市の活動家も多いこと、沖縄独立を望む中国が裏で糸を引いている、中核派が反基地運動に紛れ込んでいる……いずれも手垢にまみれた「本土からの中傷ネタ」ばかりである。
翁長知事を支持する多数派の沖縄県民にしてみれば、この記事に何ら新味はなく、「またか」とため息をつくだけだ。そして、そういった敵意への絶望は、現地の「反ヤマト感情」を強めこそすれ、弱めはしないだろう。保守論者の大好きな「国益」という視点から見ても、亀裂をどんどん深めてゆく効果しか生まない。
問題は極めてシンプルである。保守系の現知事は、非武装中立や反安保を訴えているわけではない。米海兵隊の抑止力を言うならば、その機動力となる輸送艦の母港は長崎の佐世保にある。海兵隊基地は沖縄にある必要はなく、佐世保に近いほど、抑止力が高まるのだ。元防衛相の森本敏氏が明言したように、「辺野古しかない」というのは「政治的理由」によるもので、防衛力の問題ではない。
つまり、九州に海兵隊基地を造ろうにも、猛烈な反対運動が予測され不可能だ、ということであり、沖縄の人に言わせれば、我われだって嫌なのは同じ、なぜ沖縄だけ民意を無視するのか、ということだ。対案を出せ、と本土の保守論者は言うが、地元民の同意を得ることができる移設可能な代替地を沖縄自らが本土に見つけ出せ、という要求が、無理無体なものだということがわからないのだろうか。
おそらく続報では、沖縄の“利権体質”を叩く流れになるのだろう。だが、たとえば原発の立地地域を考えても、この手の問題は必ず利権と抱き合わせになっていて、それは沖縄だけでなく、日本中の「田舎」に共通する話だ。つまり、「中央」に造れない施設を、札びらを切って地方に押し付けてきた手法は、戦後、一貫して押し進めてきたやり方であり、土建屋を中心とした利権体質は全国津々浦々、そうやって国策として育て上げてきたものだ。ここに来て突如、手のひらを反すようにして、沖縄だけ、その“卑しさ”をあげつらうのは、果たしてどうなのか。
簡単に解決する話ではないし、筆者にも出口は見出せない。だが一方的に沖縄を罵倒する態度が、あまりにも醜悪であることは明白である。こんなことを続けるほど、沖縄の心は本土から離れてゆく。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町:フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。