来春から在留資格制度が改められ、外国人労働者の受け入れが拡大する。それに伴って、にわかに「移民問題」をめぐる記事が目立ち始めている。今週の週刊新潮は『「移民大流入」でどうなるニッポン』という特集を掲載した。


 私も約10年前、自民党の中川秀直元幹事長らが打ち出した「外国人移民1千万人構想」をめぐって月刊誌でこのテーマを取材したことがある。その体験からしても、この問題をめぐる議論は、ちょっと見では違いのわかりにくいトーンになりがちだ。たとえば今月の月刊文藝春秋は『亡国の「移民政策」』と銘打った特集を組み、ブラジルへの日本人移民に詳しいノンフィクション作家・高橋幸春氏が『外国人比率トップ群馬県大泉町の悲鳴』というルポ記事を書いている。


 今週の新潮記事も高橋氏の記事も、安易な外国人労働者受け入れ拡大には問題が多過ぎる、と警鐘を鳴らす内容だ。政府方針に賛成か反対か、という二分法でいけば、どちらも反対論になる。しかし注意深く記事を読めば、両記事の底流にある視点はかなり違う。そもそも来日外国人全体を危険視する偏見交じりの性悪説なのか、“どう見ても弊害が多い受け入れ策だから”賛成しないのか、その点の違いである。


 高橋氏は日本からブラジル、私はペルーへと渡った日本人、つまり“外国に受け入れてもらった日本人移民の足跡”を長年調べてきた取材者であり、移民労働そのものを否定する立場ではない。歴史をさかのぼり、諸外国に視野を広げれば、強力な経済的要因がある限り労働力は結局、国境を超えてゆく。だからこそ各国は、さまざまな摩擦を最小化する「送り出し」や「受け入れ」を追求すべきであり、その点において日本の政策はあまりに問題が多いのだ。


 日本政府のスタンスは、来日して働く人々を頑なに「移民」と認めない欺瞞に象徴されている。原理主義的な移民反対論、排外主義を刺激しないために、在留資格に規制のある「外国人労働者」と、日本に根を下ろす「移民」を異なる存在だとごまかそうとするのだ。必要な頭数は、職場とアパートを往復するだけの人でなるべく賄おうとする。そんなコントロールは到底困難で、だからこそ不法残留者や地下に潜る犯罪者が発生し、日本サイドからの人権侵害も生まれるのだ。


 経済界の意思は明白で、労働力を求める潮流は強まる一方だ。政府もそれを拒めずに、なし崩し的に人を入れようとする。しかし一方に、強固な「移民」排斥論者がいる。その結果、編み出された姑息な弥縫策によって、現場での摩擦は不必要に膨れ上がってゆく。そんな悪循環がすでに目に見えている。


 とりあえず立ち止まり熟考する必要がある。そしてもし、深刻な人口減少からどうしても外国人材が必要なら、何よりも日本社会の一員となる意思を持ち、文化や価値観を学ぼうとする人を優先すべきなのだ。日本で得る金銭にしか関心のない人は、よき隣人にはまずならない。「期限の縛りのある労働力」でなく「しっかりと日本社会に定着しようとする移民」へ。そんな180度の方針転換がない限り、私たちは図らずも、移民排斥論者と同じ側に立ち、反対論を唱えるしかなくなってしまう。


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 三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。