サウジアラビア人記者、ジャマル・カショギ氏殺害事件ほど世界に衝撃を与えた事件はない。なにしろ、サウジアラビアから法医学者を含む15人がプライベートジェット機でトルコに入国し、在イスタンブールのサウジアラビア総領事館内でカショギ氏を殺害。その直後にサウジに帰国したというのである。


 しかも、サウジ側が嫌々発表するや、全貌を掴んでいるトルコ当局が事実を小出しに公表し、サウジ側の責任を追及、世界中の耳目を集めている。米トランプ大統領も昨年、12兆円にも上る武器購入契約をしてくれたサウジを庇いたい気持からか発言は曖昧で困りぬいている様子が見て取れる。


 ところで、カショギ氏の名前を聞いたとき、「あれ、どこかで聞いた名前だな」と思った人も多かったのではなかろうか。しばらくして思い当たったのが、かつて中東で「死の商人」と呼ばれた武器商人のアドナン・カショギ氏である。当時は「カショーギ」と呼んでいた気がするが、ジャマル氏は、この死の商人のアドナン氏の息子だった。


 1960年代から80年代にかけて中東の紛争地帯では必ずと言ってよいほどカショギ氏の名前が取り沙汰された。アメリカやソ連でさえ、中東への武器売却では「カショギ氏を通さないと売れない」とまで言われ、さすがアラブ商人と感心したものである。おそらく、「死の商人」カショギ氏が売った武器で死んだ人も多かっただろう。そのカショギ氏の息子が母国、サウジアラビアの独裁体制を批判していたというのだから世の中、変われば変わるものだ。


 もっとも、ジャマル氏の記事はサウジにとって殺さなければならないほどの内容のものではないとも言われているが、ジャマル氏は高等教育を受け、民主主義を信奉し、母国が民主的な国になることを切望していたのだろう。だが、死の商人の息子が独裁を批判していたというのは皮肉でしかない。


 話は変わるが、日本で有名な長崎のグラバー邸の住人だったグラバー氏も「死の商人」である。アメリカの南北戦争後、有り余っていた銃を買い集め、幕末の日本で勤皇方と幕府方双方に売り込もうとした人だ。だが、大政奉還に続き、勝海舟と西郷隆盛の品川会談で江戸城明け渡しが決まり、国を二分するほどの戦争が起こらなかったため、グラバー氏は当てが外れ失意を味わった。それでも彼の住居はグラバー邸として後世に名を残した。ジャマル・カショギ氏と彼の父親の「死の商人」との関係には何か因縁のようなものを感じる。


 しかも、舞台はトルコとサウジアラビアだ。サウジアラビアとは「サウド家のアラビア」という意味であるのは周知の通り。だが、この初代国王のサウドは映画でも有名になった『アラビアのロレンス』に出てくる。第1次世界大戦中、サウドはオスマン・トルコが支配するアラビア半島全体の独立を約束したロレンスを信じ、右腕として最後まで行動をともにした部族長だ。最後にロレンスの約束と違い、英国はアラビア半島全体をひとつにした独立を反故にしたため、サウドはロレンスに「あなたは私たちを裏切った」と怒りの言葉を投げ付け、ラクダに乗ってリヤドに帰る姿が映画でも描かれている。ロレンスはヨーロッパでは「英雄」扱いされるが、アラブでは「裏切りのロレンス」と呼ばれているのもよく知られた話である。


 以来、サウド家の首長であるサウジアラビア国王は「メッカの守護者」を任じているように、サウジではイスラム教の戒律に厳しい。サウジとクエートの境界線上の洋上にカフジ油田を持っていた日本のアラビア石油は、理由は後述するが、現地社内に監獄を持っていた。


 サウジでは飲酒は禁止で、赴任していた邦人が酒を飲みたいときは、当時、パーレビ国王が支配していたイランに行っていた。が、ホメイニ師によるイラン革命以後、酒は飲めなくなった。どうも中東では革命が起きると、宗教色の強い中世に逆戻りしてしまうような印象だ。


 ともかく、サウジではスリは手首を切り落とされ、レイプは斬首だ。外国人には見せないが、広場で行われる公開裁判でレイプ犯は被害者の家長に土下座をして許しを乞う。家長が許すと言えば、死罪を免れるが、首を縦に振ってくれなければ、その場で斬首刑である。こっそりビルの屋上から斬首刑を見た知人の商社マンは3日間、食事がのどを通らなかったという。


 そんな厳罰の国だから、万一、赴任中の邦人社員が犯罪を起こした場合、サウジ側に引き渡すわけにはいかない。どういう処罰になるかわからないからだ。そのため、アラビア石油は社内に監獄を用意し、「われわれは犯罪人を監獄に入れて懲罰に処している」と言い訳することにしていたのである。いわば、社内監獄は邦人社員を保護するためなのだが、こういう監獄が必要なのもサウジならではである。カショギ氏殺害事件もいかにもアラビアらしい荒っぽい事件である。(常)