①三角関係ありやなしや
額田王(ぬかたのおおきみ、生没不詳)の間違いなしの基礎知識は、「飛鳥時代の女性歌人で、皇族」ある。『万葉集』に、長歌3首、短歌9首の合計12種が収録されている。
ところが、一般に広く信じられている「三角関係」に関しては、どうか?
お相手は、大海人皇子(後に天武天皇)と中大兄皇子(後に天智天皇)である。時の最高権力者2人から愛されたのだから、絶世の美人に違いないと推理される。だから、現代でも額田王は人気がある。小説にも漫画にも、さらには宝塚歌劇団の豪華絢爛なお芝居にもなっている。ただし、「三角関係」は状況証拠的に「かもしれないな」という曖昧レベルである。昭和の戦後になると、状況証拠が覆されて「三角関係なし」という説が学会では強まりつつある。しかし、一般庶民の額田王ファンは、「学者の屁理屈だ」と断じ、「三角関係の絶世の美女」は揺らぎそうにない。
額田王を語るうえで、「三角関係あり」を前提とすべきか、「三角関係なし」を前提とすべきか、実に興味津々の大問題であるが、答は「謎の額田王」である。
ともかくも、額田王の『万葉集』に収められている全部の歌(長歌3首、短歌9首)を紹介しながら、「謎」を追ってみる。
②大スター歌人
間違いないのは、額田王は『万葉集』の歌人であること。なので、とりあえず『万葉集』の解説を少々。
『万葉集』は、全20巻、4536首の歌が収められている。天皇・皇后から農民・乞食まで、渡来人、東国人、防人など、あらゆる人々が登場する。作者で記名がある数だけでも、約480人いる。
編纂は一時期になされたのではなく、4つの時期になされ、最終的に、大伴家持(推定718~785年)がまとめた。第1期(初期万葉)の代表的歌人が額田王である。第2期は柿本人麻呂、第3期は山上憶良・山部赤人・大伴旅人、第4期は大伴家持が代表的歌人である。
『万葉集巻一』の最初の部分を眺めると、額田王が代表的歌人、人気歌人であったかがわかる。 (巻1-1)籠(こ)もよ み籠持ち……(雄略天皇)
『万葉集』最初の歌は、雄略天皇(第21代、5世紀末在位)のガールハントのナンパ歌である。雄略天皇が籠(かご)を持って若菜をつんでいる娘に対して、ナンパするのである。なお、雄略天皇は日本を統一した特別偉大な天皇と意識されていた。それで、雄略天皇の歌が、『万葉集』冒頭の歌(巻1-1)となった。
(巻1-2)大和には 郡山あれど……(舒明天皇)
舒明天皇(第34代、594~641年、在位629~641年)の「国見(くにみ)の歌」である。「国見」とは、山の上から、平地を見渡すことである。この歌は、舒明天皇が香久山から「大和の国は美しい、すばらしい」と詠っている。ただし、「国見」は儀式(呪術、祈り、願い)であって、「本当に美しい、すばらしい」ではない。「国見」の儀式をすると、その偉力で、そうなる、と信じられていた。
舒明天皇は、推古天皇(第33代、在位593~628年)の後を継いだ天皇である。推古女帝の時代は、大豪族蘇我馬子とIQ抜群の聖徳太子に支えられて、王権をめぐる血みどろの権力闘争が珍しく終息していた平穏な時代であった(第17話・推古女帝を参照ください)。舒明天皇も、推古時代と同じように平穏を願っていたのだろう。実際問題、舒明天皇の時代も平穏であった。
なお、『万葉集』は4つの時期に分けられると前述したが、第1期(初期万葉)は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までの歌である。なお、巻1~巻4は皇室関係の歌が大半である。
(巻1-3)(巻1-4)は「中皇女の間人老」の歌で、「中皇女の間人老」とは、舒明天皇の皇后か皇女である。
(巻1-5)(巻1-6)の歌は、舒明天皇に随行している「軍王(いくさのおほきみ)」の歌である。
そして、額田王の登場となる。3首連続です。
(巻1-7)秋の野の み草刈り葺(ふ)き……(額田王)
(巻1-8)熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと……(額田王)
(巻1-9)莫囂圓隣之大兄爪湯気 我が背子は……(額田王)
「莫囂圓隣之大兄爪湯気」の読み方は、30種類の説があるとのことです。
(巻1-10)(巻1-11)(巻1-12)は、中皇命(なかつすめらみこと)の歌である。中皇命は、舒明天皇(第34代)と皇極天皇(第35代)の皇女、中大兄皇子(第38代天智天皇)の妹、大海人皇子(第40代天武天皇)の姉、孝徳天皇(第36代)の皇后である。
(巻1-13)(巻1-14)(巻1-15)は、中大兄皇子の歌である。三角関係に関係しているので、3首とも後で紹介します。
そして、再び、額田王の登場となる。3種連続。
(巻1-16)冬ごもり 春さり来れば……(額田王) (巻1-17)美酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山……(額田王)
(巻1-18)三輪山を しかも隠すか……(額田王)
(巻1-19)は、井戸王(ゐのへのおほきみ)の歌で、額田王の(巻1-17)(巻1-18)の歌に添えたもの。井戸王に関しては、「王」であるから皇族の一員であるが、詳細は不明。
次の2種が、三角関係の一大根拠とされる額田王と大海人皇子のやり取りである。
(巻1-20)あかねさす 紫野行き……(額田王)
(巻1-21)紫草の にほへる妹を……(大海人皇子)
(巻1-22)は吹黄刀自(ふきのとじ)の作、(巻1-23)は作者不明、(巻1-24)は麻続王の作である。
吹黄刀自は、十市皇女(とをちのひめみこ)に仕えている女官。十市皇女は、大海人皇子と額田王の間に生まれた皇女。そして、中大兄皇子の皇子である大友皇子の正妃となった。古代史最大の内乱、壬申の乱(672年)は、彼女の実父・大海人皇子と夫・大友皇子の戦争であった。大友皇子は内戦に敗れ首を吊って自害した。
蛇足ながら、大友皇子は正式に即位して弘文天皇(第39代)になったかどうかは、古代から論争されていた。幕末では即位説が多数派だったので、明治3年に明治政府は大友皇子を弘文天皇として認めた。明治初期までは、即位の是非は活発に学問的論争がなされた。明治3年の政府決定も単純に多数派学説を採用しただけのことであった。しかし、皇国史観が強まるにつれて、天皇を議論の材料にすること事態が不敬とみなされ、遠慮だらけの研究となった。戦後の研究では、正式な天皇即位はなかったが、実質上、天皇として行動した、ということで落ち着いている。弘文天皇を除いてしまうと、以後の天皇の第〇〇代が、ひとつ引き算しなければならないので、それは面倒ということで、歴史学ではなく、面倒回避で、弘文天皇を第39代としている。
麻続王(をみのおほきみ)は、何らかの罪で配流された「かわいそうな皇子」という伝説の人物である。(巻1-23)の作者不明の歌も麻続王を詠んでいる。
なんにしても、(巻1-22)(巻1-23)(巻1-24)は、額田王の関係者関連の歌である。
(巻1-25)(巻1-26)(巻1-27)は天武天皇の歌である。 (巻1-28)春過ぎて 夏来にけらし……(持統天皇)
そして万葉集ナンバーワン歌人と称されている柿本人麻呂の登場となる。紀貫之は『古今和歌集』序文で、柿本人麻呂と山部赤人の2人を歌聖と称賛している。
(巻1-29)(巻1-30)(巻1-31)は柿本人麻呂の歌である。
(巻1-32)(巻1-33)は高市古人の歌である。高市古人は高市黒人とも言う。下級役人。
(巻1-34)は川島皇子の歌。川島皇子は天武天皇(第40代)の皇子。 (巻1-35)は元明天皇の歌。元明天皇(第43代)は、天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である。
(巻1-36)~(巻1-42)は柿本人麻呂の歌である。 (巻1-43)は、當麻真人麿の妻の歌。當麻真人麿は壬申の乱で功績をあげた大和の豪族。
(巻1-44)は、石川磨の歌。持統天皇時代左大臣になった。(巻1-43)は、妻が旅先の夫の無事を祈った歌、(巻1-44)は、旅先の夫が家にいる妻を祈った歌で、セットになっている。
(巻1-45)~(巻1-49)は、柿本人麻呂の歌である。 (巻1-50)は、藤原宮の役人の歌。 (巻1-51)は、志貴皇子の歌。志貴皇子は天智天皇の皇子。壬申の乱によって、皇統が天智から天武へ移ったため、もっぱら文化人として過ごした。
(巻1-52)(巻1-53)は、作者名不明である。 学問上は、万葉集第1期の編纂は(巻1-53)までとする説もあるようなので、順序通りの紹介は、ここまでとする。なお、巻1は(巻1-84)まである。
『万葉集』の第1巻の前半を眺めると、額田王が、当時のトップ歌人であることが容易に推測される。
私のイメージは、人々に姿を見せるだけで華やかな雰囲気になる。「ワ~、キャー、女優のナントカさんだわ~」って感じ。そして、見事な歌をソプラノで朗々と披露する。むろん楽団つきである。観客はウットリする。現代用語ならば、大スターなのだ。
なお、額田王の歌は、(巻2-112)(巻2-113)(巻2-151)(巻2-155)(巻4-488)もある。
③額田王は「秋の野」、天智天皇は「秋の田」、さてどう考えるか
秋の野の み草刈り葺(ふ)き 宿れりし 宇治の宮処(みやこ)の 仮廬(かりほ)し思ほゆ(巻1-7) (直訳)秋の野の草を刈って、それで屋根を葺(ふ)いて泊まった、宇治の宮処、あの仮宿が思い出されます。
この歌の頭注には、「皇極天皇の代、額田王の歌、未詳」と書かれてある。皇極天皇の時代、額田王が歌ったが、「詠み人知らず」かも知れない。
(推理力にまかせて)三角関係を信じる者は、仮宿で泊まったのは額田王ひとりじゃないだろう、一緒に泊まったのは誰だ?
そう言えば、小倉百人一首の第1番の天智天皇の歌に似たのがある。
秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ 我がころもでは 露にぬれつつ(『後撰集』、『小倉百人一首』1番) (直訳)秋の田に仮の小屋に、(カヤやスゲで編んだ)むしろが粗いので、私の衣は露に濡れていく。(天皇が、百姓の秋の風景を詠んだ) (推理力にまかせて)元来は、「詠み人知らず」の歌であった。それが、なぜか、天智天皇の歌になってしまった。なぜか?
2人は仮の心で仮宿で1泊した。濡れた原因は露だけではなかった。女は「秋の野の……」と詠って思い出し、男は「秋の田に…」と詠って思い出している。と、まぁ、三角関係を信じる読者は強引に深読みする。
④紀伊白浜の温泉へ行った (巻1-9)莫囂圓隣之大兄爪湯気 我が背子は……の歌の「莫囂圓隣之大兄爪湯気」の読み方は、30種類の説があるとのことです。一応、次の説を記載する。
この歌は、658年に斉明天皇が紀伊白浜の湯崎温泉へ行った時、額田王が詠った。
三諸(みもろ)の山 見つつゆけ 我が背子が い立せりけむ 厳橿(いつかし)が本(巻1-9) (直訳)三輪の山を見つつ行きなさい。私が愛する人がお立ちになっていた、あの山の麓の神聖なる樫の木のもとを。
日本人は昔から温泉が好きだった、と思うだけで、とりたてて付け加える説明はありません。
⑤中大兄皇子の大和三山三角関係の歌
ここで少々古代史のおさらいをします。
推古天皇(第33代、在位593~628年)、舒明天皇(第34代、在位629~641年)の時代は、平和であった。舒明天皇の死によって、その皇后(48歳)が天皇になった。すなわち皇極天皇(第35代、在位642~645年)である。舒明天皇と皇極天皇の間に、中大兄皇子、大海人皇子がいた。 皇極天皇の時代に入ると、急に、最高権力をめぐる血みどろの戦いが連続的に勃発する。まず643年、最大豪族の蘇我氏の本家蘇我入鹿が山背大兄王(聖徳太子の子)を攻撃し自害させる。近年の説では、入鹿は皇極天皇の意を汲んで行動したと推測されている。この事件には中大兄皇子は関与していなかったようだ。 645年6月、中大兄皇子は皇極天皇の眼前で蘇我入鹿を殺害し、翌日には入鹿の父の蘇我蝦夷を攻撃して自害させる。これによって、蘇我氏本家は亡ぶ。乙巳の変という。皇極天皇は皇位を弟に譲った。孝徳天皇(第36代、在位645~654年)である。中大兄皇子は皇太子になった。そして、実権は徐々に中大兄皇子に移っていく。 同じく645年9月、中大兄皇子は古人大兄皇子(皇極天皇の皇太子だった)を謀略で処刑する。
649年、中大兄皇子は、乙巳の変では仲間であった蘇我氏分家の蘇我倉山田石川麻呂を謀略で自害させる。
孝徳天皇が死去し、皇極天皇が再び天皇に返り咲き斉明天皇(第37代、在位655~661年)となった。実権は完全に中大兄皇子が牛耳っていた。 658年、孝徳天皇の皇子・有間皇子が中大兄皇子の謀略で絞首刑になる。 659年、中大兄皇子の命令で、阿倍比羅夫の蝦夷(東北・北海道)遠征。 660年、朝鮮半島では、百済が唐と新羅によって滅亡。中大兄皇子は百済復活の軍事介入を決断する。
661年正月6日、百済救援の大船団が、難波津から九州の筑紫へ向かった。船中には、60歳の斉明天皇もいた。中大兄皇子、大海人皇子もいた。その妃もいた。女官もいた。額田王もいた。 途中、播磨国の印南郡(現在の姫路市東部)で停泊して夜宴をした。そのとき、中大兄皇子が、長歌(巻1-13)と反歌2首(巻1-14)(巻1-15)を詠った。
香久山は 畝火(うねび)ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代(かみよ)より 斯(か)くにあるらし 古昔(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそうらしき(巻1-13)
(直訳)香久山は、畝傍山をめぐって、耳成山と相争ったというが、神代より(恋争いは)あったらしい。昔もそうであったからこそ、今の世でも妻を相争う。
反歌 香久山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)(巻1-14)
(直訳)香久山と耳成山とが争ったときに、(阿菩大神(あぼのおおかみ)が仲裁のため出雲から)出て来られた印南国原(とは、ここなんだな) 反歌 わたつみの 豊旗雲(とよはたぐも)に 入日射(さ)し 今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけかりけり(巻1-15)
この反歌は直訳する必要もないでしょう。
通過する土地をたたえたり、その土地の神を誉めることは、旅の無事に繫がるという習俗である。それはそれとして、三角関係を信じる者にとっては、(巻1-13)(巻1-14)の歌の隠された意味は、額田王をめぐる中大兄皇子と大海人皇子の三角関係となる。
⑥熟田津出航の歌
さて、大船団は1月14日、伊予(愛媛県)の熟田津(にきたつ)に入港した。斉明天皇は道後温泉へ行った。一行は約2ヵ月間、ここに留まった。おそらく、遠征のための物資・兵員の調達のためであろう。準備が整い、いよいよ北九州の筑紫へ出航だ。そのときの儀式というか、兵員鼓舞の歌というか、額田王がソプラノ美声で、朗々と歌ったのが、次の歌である。むろの各種の楽器の伴奏つきである。
熟田津(にきたつ)に 船(ふな)乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(巻1-8)
(直訳)熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていると、(ちょうど)潮も満ちてきて、さぁ、今こそ漕ぎ出しましょう(エイ、エイ、オー!) 661年3月25日、一行は北九州筑紫に到着した。しかし、7月に斉明天皇が崩御した。中大兄皇子が事実上、天皇職を代行した。
663年3月、400余の軍船と2万7000人兵が筑紫を出航し、朝鮮半島へ向かった。しかし、同年8月27~28日の白村江の海戦で、完敗し、9月末に残存兵は帰国した。 大敗北を喫した中大兄皇子(実質的天皇)は、防衛のため朝鮮式山城、水城、のろし台を建設したり、防人制度を拡充した。そして、667年、都を飛鳥から近江大津宮(667~672年)へ遷都した。そこで、やっと正式に天智天皇(第38代、在位668~672年)に即位した。 天智天皇が亡くなると、天智の子・大友皇子と天智の弟・大海人皇子の間で、古代史最大の内乱である壬申の乱(672年)が勃発。前述したように、大海人皇子が勝利し天武天皇(第40代、在位673~686年)となった。その間、一応、大友皇子は弘文天皇(第39代、在位672/1~672/8)とされている。
⑦春秋争い
天智天皇が、「春山の花の艶と、秋山の紅葉の色、いずれが良いか競わせよ」と命じた。コンテスト発表会で額田王は詠った。観客は額田王のソプラノ美声に一言一句、聞き惚れたに違いない。むろん、コンテストの優勝者は額田王であったろう。 蛇足ながら、「春秋争い」のコンテストは『源氏物語』にもある。また、今東光の小説によると、戦前までは学校の弁論大会でも多くあったようだ。
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみ)つをば 取りてぞ偲(しの)ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし怜(たの)し 秋山我は (巻1-16)
(直訳)「冬ごもり」は春にかかる枕詞。春が来ると、鳴かなかった鳥もやってきて鳴き始める。咲かなかった花も咲くけれど、山は木が茂るので、入って花を手に取ることもできない。草が深いので取って見ることもできない。(しかしながら)秋山の木の葉を見ては、黄色に色づいたのを手に取って観賞する。まだ青い葉をそのままにし、紅葉するのを待ってため息をつく。そこが楽しい。秋山が良い、私は。
⑧額田王、近江大津宮へ下る時に詠める歌
667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江大津宮へ遷都した。群臣みな、故郷を離れて引っ越しであった。故郷を離れるのは、誰しもしみじみとするものだ。
美酒(うまさけ) 三輪の山 あおによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 心なく雲の 隠さふべしや (巻1-17) 反歌 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや(巻1-18) (直訳) [長歌]「美酒」は三輪山の枕詞。神酒をミワと言ったので。三輪山は、奈良の山々の山間に隠れるまでも、道の曲がり目が幾重にも重なるまでも、つくづくよく見ながら行きたい、何度も眺めてやりたい山なのに。無情にも雲が隠すなんて。
[反歌]三輪山をどうして隠すのか、雲にだって情心があったらな、隠さないでよ。
⑨三角関係の最大根拠の歌 『日本書記』には、額田王は大海人皇子と結婚し、十市皇女を生んだ、と記されている。そして、十市皇女は、中大兄皇子の皇子である大友皇子の正妃となった。『日本書記』には、三角関係を思わせる記述はまったくない。三角関係最大の根拠は『万葉集』の(巻1-20)と(巻1-21)からの推理である。
668年、天智天皇は近江の蒲生野へ薬狩りの催しをした。大海人皇子も中臣鎌足も諸王群臣こぞっての行事であった。むろん、額田王も参加している。その時の額田王の歌が「あかねさす」である。額田王と言えば、この歌である。
あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る(巻1-20)
(用語解説)「あかねさす」は「紫」の枕詞。紫草は貴重な染料となる。「標野」とは一般人の立ち入り禁止の野で、標(しめ)とは、「しめる」という占有のしるしで、縄をはったり杭を打つ。「野守」は、標野の番人。「袖振る」は、恋心の意思表示。
(直訳)紫草が生える野原へ行き、そこの(立ち入り禁止地区)の標野へ行った。番人が見ているではありませんか。あなたが(私に向かって)袖を振っているのを(求愛ジェスチャーしているのを)。
「あかねさす」の歌に応じて、大海人皇子の歌が登場する。 紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも(巻1-21)
(直訳)紫草のように、よい匂いがするあなたを憎いならば、どうして人妻になったあなたを、私は恋慕うのか。 この歌を素直に読めば、大海人皇子は人妻の額田王に恋している。完璧に三角関係が成立である。
額田王は大海人皇子の妻だった。今は人妻である。誰の人妻なのかは、この歌からはわからない。とにかく、人妻との三角関係だ。ワ~ワ~、誰だろう、ワ~ワ~。芸能記者の気分で、どうしても探したい。
誰かが、おそらく大和三山の歌、あるいは、次に述べる天智天皇崩御後の歌などから、中大兄皇子(=天智天皇)と推理した。三角関係のスキャンダルは、興味津々、相手が大物ならば、なお興味津々。しかも、古代のことで、誰にも迷惑をかけない。そんなことで、爆発的に、その推理が流行ってしまった。そんなことだろう。 最近の学説では、近江の蒲生野での宴会でのお遊びで歌ったものとされている。野原での内緒の恋のやり取りではない。天智天皇もいる宴会で、おそらく、大海人皇子は宴会芸で踊って額田王に向かって袖を振ったのだろう。スター額田王は、それに対して「あかねさす」の歌を詠って座を盛り上げた。それに応じて、大海人皇子も「紫の」歌で、さらに座を盛り上げた、ということらしい。恋に年齢は関係なしであるが、2人はすでに40歳前後である。 大海人皇子と中大兄皇子は額田王への気持ちは、恋ではなく、大スター額田王へのファン感情に近いのではなかろうか。 そうは言っても、三角関係を信じる者は、禁断の恋とはバレナイ恋だから、この2首は、さらに深読みしなければいけない、と言う。
それに、次の歌もある。
⑩天智天皇崩御後の歌
672年1月、近江大津宮で天智天皇が崩御した。額田王が亡き天智天皇をしのんでつくった歌がある。
君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く(巻4-488)
(直訳)あの方をお待ちし、恋しくお待ちしていると、我が家の簾が動いた、(あの方かと思ったが)秋の風だった。
未亡人、亡き夫を恋しく思い出す、という感じである。やはり、額田王は天智天皇の妻だったのだ。正妃、夫人でないにしろ、少なくとも天智天皇(中大兄皇子)は額田王のもとへ通っていた時期があったことは事実なのたろう。天智天皇の心が、恋心なのか、スターへのファン感情なのか、内心はわからないが、通っていたことは間違いない。
大海人皇子は額田王への恋心が発覚しないように隠忍していたのだ。天智天皇は、いわば恐怖政治の権力者である。逆らう者、疑わしい者は、容赦なく粛清した。疑われたら身の破滅だ。近江の蒲生野の宴会での歌は、大っぴらに「人妻に恋している」と詠うことによって、冗談ホイホイで済ませる高等戦術なのだ。と、「三角関係あり」信奉者は考える。 以下の2首は、三角関係とは無縁の歌である。心がこもった弔辞みたいなものであろう。
ひとつは、天智天皇の大殯(おおあらき)の時に、額田王が詠んだ歌である。殯(あきら)とは、埋葬までの間、遺体を棺におさめて安置しておくこと。
かからむと かねて知りせば 大御船(おほみふね)泊(は)てし泊に 標(しめ)結(ゆ)はましを(巻2-151)
(直訳)こんなことになると、以前から知っておれば、天皇が船遊びをなされていたとき、船が停泊した港に、しめ縄を張り巡らしておいたものを。(悪霊の侵入をふせげたのに)
もうひとつは、御陵への埋葬を終えて、帰路についた時の額田王の歌である。天智天皇の御陵は「鏡の山」と言って、京都府山科区にある。
やすみしし 我が大君の 畏(かしこ)きや 御陵(みはか)仕(つか)ふる 山科の 鏡(かがみ)の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや 百敷(ももしき)の 大宮人(おおみやひと)は 行き別れなむ (巻2-155)
(直訳)「やすみしし」は「我が大君」の枕詞。我らの大君の、おそれ多い御陵にお仕えする、山科の鏡山で、夜は夜通し、昼はずっと、大声で泣いてばかり、(このまま)宮廷の人々は散り散りに別れていくのか。
⑪みんな死んでしまった
額田王は60歳を過ぎていた。私が愛し、愛された天智天皇も天武天皇も、みんな亡くなってしまった。今の天皇は、天武天皇の皇后であった持統天皇(第41代、在位690~697年)である。
持統天皇が吉野宮へ行幸した。その随員に弓削皇子(ゆげのみこ)がいた。弓削皇子は天武天皇の皇子のひとりで、歌が大好きな青年皇子だった。『万葉集』に8首ある。若き弓削皇子が往年の大スター歌人・額田王へ、吉野から飛鳥へ、歌を贈った。弓削皇子が贈った歌が(巻1-111)で、これは記載省略するが、次の2首(巻1-112)(巻1-113)は額田王の返歌である。
古(いにしへ)に 恋ふらむ鳥は 雀公鳥(ほととぎす) けだしや鳴きし わが念(おも)へる如(ごと)(巻1-112)
(直訳)古い過去を恋しいと思って飛ぶ鳥というのは、ホトトギスですね。もしや、ホトトギスが鳴いたのかも。私が古い過去を恋しいと思っているのと同じように。
み吉野の 玉松が枝は はしきかも 君が御言(みこと)を 持ちて通はく(巻1-113)
(直訳)弓削皇子の歌には松の枝が添えられていた。「玉松」の「玉」とは、「魂」と同じで、霊力のことである。「玉松」は「霊力ある松」の意味。「松」は常緑樹であるから、松の枝を添えるということは、私(弓削皇子)は、額田王おばさまがいつまでも若々しいことを願っています、という意味である。それに応じて、額田王は「吉野の松の枝はなんと麗しいものよ、あなたの言葉を持って飛鳥まで通ってくるとは」と返歌したのである。
歳はとっても、大スター歌人、その才能は衰えていない。弓削皇子は大スター歌人に憧れていたのだろう。
締めくくりに、「人妻」の件であるが、ある説では、額田王は藤原(中臣)氏一族の実力者・藤原(中臣)大嶋(?~693年)と再婚した、と推測されている。この説が正しいとすると、80歳前後まで生きたことになる。美人薄命ではなく美人長寿ということか。
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太田哲二(おおたてつじ) 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。