これまで入院どころか人生で1、2回しか外来に通ったことがなかった80歳の父が、突然胸の痛みを訴えた。我慢強い父は救急車を呼ばずに電車に乗り、病院を目の前にして動けなくなったという。カテーテル検査の結果を見たら3本ある大きな冠動脈のうち2本が完全に詰まっていた。残りの1本もいつ詰まるかわからない。冠動脈バイパス手術(CABG)ができる病院への転院が決まった。


 転院先には100床未満の専門病院を選んだ。出来高病院だが手術件数も多く、“手術工場”のような病院だ。父は看護師がやさしかった転院前の病院のほうが楽しそうだったが、“分母”に優れた技術がなければ、“分子”にどんなにいいサービスがあっても、医療は意味がない。


 医薬品業界では今、リアルワールドデータ(RWD)が流行語になっている。その中心となるのは急性期病院を中心に23病院・400万人のデータを持つPMDAのMID-NETの存在だが、RWDの重要性が認識されたのは「Vioxx」(日本国内では発売されず)事件が記憶に新しい。


 Vioxxは2004年に長期使用による心血管リスクの増加が確認されたため、世界的な回収が行われた消炎鎮痛薬だ。このとき、カリフォルニア州のHMO「カイザー・パーマネンテ」の加入者に対するRWD調査により、Vioxxを25mg/日超服用した群における入院を要する急性心筋梗塞と心臓突然死のリスクが、NSAIDを中止した人の3.15倍にも上ることがわかったのだ。


 Vioxx事件をきっかけに米国では2008年5月にセンチネル・イニシアティブを立ち上げ、既存のデータベースを保有する17事業者(データパートナー)と協力し、約2億人の医療情報(レセプト、処方情報など)を解析する環境が構築された。


 日本はだいぶ遅れているな、と思うかもしれないが、実は「外科」の領域では世界に誇れるRWDが存在する。National Clinical Database(NCD)だ。


 NCDは、専門医制度と連動した手術症例の入力を2011年に開始したビッグデータであり、一般外科医が行っている手術の95%以上をカバーしている。年間約150万件が入力されており、累計約1000万件にも及ぶ。参加施設数は5169(2018年10月3日現在)だ。


 医師がウェブ上で患者情報と術式を入力するだけで手術リスクが瞬時に表示されるシステム(Risk Calculator)も運用が始まっている。父の執刀医が合併症のリスクは「○%」と話していたのは、このRisk Calculatorに裏付けられたものだろう。父が手術を受ける病院は、NCDに参加している5169施設のひとつだ。


 NCDの構築に携わった関係者に取材したところ、2014年にPMDAからNCDにアプローチがあったという。経カテーテル大動脈弁留置術(TAVI)用の生体弁を対象に、PMDA、TAVR関連学会協議会、該当企業が連携してRWDの収集を実施することになった。300症例の市販後調査が該当企業に義務づけられたが、RWDを使用しなければ2億5000万円程度かかるコストが大幅に削減されたそうだ。NCDで得られた知見を、医薬品の安全対策に活用されることを願っている。


 安全性調査のほかにも、RWDはポリファーマシーの問題や、逆のアンダーユースの問題も浮き彫りにしてくれるかもしれない。  しかし、どんなにビッグデータを見せられても患者の行動変容にはなかなか結びつかない。私の横で執刀医の説明を聞いていた父も「まったく理解できない」状態で、自分事に感じていない様子だった。


 人を動かすのはOne Patientのデータだ。「いまのあなたと同じ検査値の瀬谷区(実家がある)の人が、5年後に再入院しました。だから、必ず薬を飲み続けてください」と言われたほうが、ビッグデータを示されるよりも記憶に残る。我われは、左手に「ビッグデータ」、右手に「One Patientデータ」を持っておかなければ患者を幸せにすることはできない。


 この原稿を読者が目にする頃(11/5)、私は父の手術が無事に終わるのを病院のなかでひとりで待っているだろう。一緒に成功を祈っていただければ幸いである。 

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川越満(かわごえみつる)  1970 年、神奈川県横浜市生まれ。94年米国大学日本校を卒業後、医薬品業界向けのコンサルティングを主業務 とするユート・ブレーンに入社。16年4月からは、WEB講演会運営や人工知能ビジネスを手掛ける木村情報技術のコンサナリスト®事業部長として、出版及 び研修コンサルティング事業に従事している。コンサナリスト®とは、コンサルタントとジャーナリストの両面を兼ね備えるオンリーワンの職種として04年に 川越自身が商標登録した造語である。医療・医薬品業界のオピニオンリーダーとして、朝日新聞夕刊の『凄腕つとめにん』、マイナビ2010 『MR特集』、女性誌『anan』など数多くの取材を受けている。講演の対象はMR志望の学生から製薬企業の幹部、病院経営者まで幅広い。受講者のニーズ に合わせ、“今日からできること”を必ず盛り込む講演スタイルが好評。とくにMR向けの研修では圧倒的な支持を受けており、受講者から「勇気づけられた」 「聴いた内容を早く実践したい」という感想が数多く届く。15年夏からは才能心理学協会の認定講師も務めている。一般向け書籍の3部作、『病院のしくみ』 『よくわかる医療業界』『医療費のしくみ』はいずれもベストセラーになっている。