週刊文春の「イッテQ!」報道で、世論の風向きは擁護から批判へと変わった観がある。番組全体や出演タレントへの好感度は依然として高く、番組の継続は多くの視聴者が望むところだが、製作スタッフのさらに上層部、日本テレビそのものの“往生際の悪さ”、あるいは現地コーディネート会社に責任を負わせようとする“保身の態度”には、嫌悪感が広がっている。


 文春報道の第2弾は『「イッテQ!」手越祐也カリフラワー「祭り」にもでっち上げ証言』。前回のラオスでの“祭り”企画だけでなく、昨年2月に放送されたタイのカリフラワー収穫競争も、現地の奇祭でも何でもなく、番組側が企画したテレビ向け単発イベントだったことが暴露された。


 もはや報じられた事実関係に、議論はほとんどないように思える。それを許容するか否か、という論点でも“やり過ぎ”と受け止める人が多数派であろう。ラオスやタイ、現地の人々から反発の声が出てしまっている以上、“面白ければいい”という意見は旗色が悪い。 “ガチで面白ネタにチャレンジする”という番組コンセプトの根幹が揺らいだこの事態、突き詰めれば番組制作に費やせる予算の制約、という話になってゆく。毎週のように世界各国で参加可能な奇祭を見つけ出す。予算と手間暇をかければそれは実現可能なのか、それとももう“ネタ切れ”で無理な話になってしまったのか。後者ならもちろん、コーナーを別企画に切り替える時期なのだが、実情が前者だとすれば、事態はより一層深刻だ。


 国内屈指の人気番組ですら、必要最低限の製作費が賄えない。そんなメディア危機の現実が透けて見えるためだ。終電を逃した人の自宅に行き、さまざまな人生を垣間見たり、衛星写真で見つけた“ポツンと一軒家”を探訪したりする低コストの人気番組も最近は現れている。しかし、もはや民放テレビに残された手法は、そういったゲリラ的なものだけで、たっぷりと時間と費用、人員を割く“贅沢な番組”は不可能になっている。そんな現実の反映に思われるからだ。


 同じ問題は活字メディアにも存在する。カネをかけない=足を使わない記事づくりは、ネットメディアでさらにその傾向が露わだ。今回、この「イッテQ!」ネタで、文春はラオスやタイにまで現地取材を決行したわけだが、同じ情報をキャッチしたとして、ほかのどの雑誌がそこまでやるだろうか。おそらく電話やメールだけで、何とか記事にしようとする媒体が多いに違いない。少なくとも記事になる確率が五分五分の段階、ウラが取れるのかどうか微妙な話なら、多くの編集部が記者派遣に二の足を踏むだろう。


 一本のスクープで雑誌の売り上げが跳ね上がるか、と言えば、もはやそんな時代ではなくなっている。記事単独の“費用対効果”を考えると、大型取材には手を出さない決断が正解であろう。一方で、ある意味失敗を恐れない挑戦の繰り返しがなければ、部数を上向きにする“勢い”は生まれない。“安全第一”の路線は、“じり貧”に身を委ねる結果にしかならないのだ。


 チャレンジに伴う“空振り”のリスク。“やらせ”や“でっち上げ”が生まれる背景に、そんなジレンマがあることを考えると、娯楽か報道か、テレビか活字かネットかの垣根を超え、情報コストの削減傾向は、インチキ情報を必然的に増やすことに気づく。人々はもっとその因果を認識すべきように思う。 


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。