●反社会的になり始めた「ゆっくり老いる」


 このコラムは、「正しい死に方」をある意味、形として集約化し、それを暗黙の社会的合意に進めるこの社会の「ブーム」に異論を唱えるものであることを目的としている。少し過激になるかも知れないし、いくつかの引用やその解釈に反論や解釈の誤りを指摘されるかもしれない。


 今回からフォーカスする「標準化」への疑問は、そのおそれは大きいと筆者自身も自覚はするが、速度を上げる「死に方」の同調圧力、規律化の段階が、「標準化」という名のもとに、「暗黙の社会的基準」へと格上げされていくのは、個人的にはがまんがならない。


 とくにメディアは、こうした「潔い死に方」「正しい死に方」を最近、さらに美化する方向へポイントを切り替えている。たぶん、「安楽死」は、これらメディアによって美化が進み、法的整備へと向かうことになるだろう。ゆっくりと老いる、ことは反社会的であり、ステージ4から急激に死に至る「がん死」が、死に様としては最高という世論の形成は正しいのだろうか。


 がんで死ぬことばかりに、死への医療が重装備化していることを誰も不思議に思わないのだろうか。認知症になって、老衰して死ぬことががんで死ぬより情けないなんてことはない、はずだ。「どうせ死ぬならがんで死にたい」は差別語である。筆者は、患者の言葉として、これらの言葉に深刻に同調し、重たく受け止め、美化するメディアに理性を感じない。  こうして、つまり「死に方」は標準化されていく時代に入った。このコラムが、標準化していくことを、百歩譲って承認するのは、「死に方の差別化」がなくなったときだ。認知症拠点センターが、老衰死拠点センターが各都道府県に作られたときだ。


●標準化にもデメリット


 標準化は、経済用語から出発しているとの理解から入る。製造現場でも、商品販売現場でも「標準化」が、マニュアルとともに整備され、それがコンプライアンスになることで、品質の高度な均質性の確保、効率的な生産に結び付くことは否定しない。それが例えば、よく指摘されるような、コンビニエンスストアやファーストフード店での無味乾燥で、ジョークとしか思えないような副反応を生んでも、メリットのほうが大きいのは確かなのだろう。


 しかし、製品製造、販売の観点からも、標準化のデメリットは自覚されている。例えば、標準が絶対的な教科書となって柔軟性がなくなる、教科書にさえ沿っていればOKという改善意欲の減衰などがあげられる。その結果、実は生産性も低くなるというデメリットの観測も生まれてくる。


 当然のことだが、医療・介護の世界では効率化はあっても、生産性を上げるという目標は設定しにくい。医療では、患者を生還させる治癒させるという目標はあるが、現在の医療の大半は「不可逆性」が承認されている世界である。介護は、むろんその目標はない。要介護や要支援の数値が変化することはあっても、それは多くが主観的な判断や違う事情が混じりあっていることが多い。


「死に方」をマニュアル化していく動機は、基本的に地域包括ケアが刺激している。地域包括ケアが何をめざすかに、異論は少ないが、それが動機となった背景は、「死に方」に関する意識の不純物が混ざりあう。カネを惜しむことはこの時代には仕方がない。だが、そのために、個々の死に方までマニュアル化し、標準化することはない。「ゆっくり死ぬ」人を大切にする視点が欠けるのでは意味はない。「ゆっくり死にたい」人のためには、命をつないでおく医療施設も技術も「標準」から外してはならない。


●「在宅神話」に縛られる社会


 訪問診療医の小堀鴎一郎氏は、著書『死を生きた人々』で、標準化していく単線の思考回路にかなり厳しい批判を示している。いくつか挙げてみる。


①(在宅医療が多職種連携で行われることが重視される現状に関連して)「行政の思惑多職種連携カンファレンスメンバーの合意決定事項が患者個人の希望より優先される結果がしばしば見られるようになった」(第2章 在宅死のリアリティ)。


②「病院死から在宅死へと向かう大きなうねりが発生しつつあることを、私は現場で実感している。そして、そのうねりの先に私が懸念するのは、世論がなだれを打って在宅死に傾く危険性である。入院死は敗北であり、在宅死こそが正しいという『在宅神話』に、今度は患者も家族も縛られる状況である」(第3章 在宅死のアポリア)。


③(納得づくで入院死を選択した患者、家族の事例を示したうえで)「これらの事例こそが。在宅神話を打ち破る唯一無二の根拠となるであろう。入院死か在宅死かの選択は、その患者と家族にとって望ましいかどうかの総合判断で決定されるべきである。死は『普遍的』という言葉が介入する余地のない世界である」(同)。


④(近い将来の高齢者の人口爆発は地震とは違って99%実現することであり、それに対処するために必要なのは優れた国家戦略でも莫大な国費でもないと前提し)「社会、とりわけ直接の当事者である医師・患者・患者家族が『老いる』ことを理解し、『死ぬ』ことを受け入れ、自分にとって、家族にとって、そして社会にとって『望ましい死』とは何かに思いを致すことである。それは壮大なパラダイムシフトともいえる」(第1章 在宅医療の世界へ)。


 とくに第4点目の、「望ましい死とは何か」は、傾聴すべき提言だと筆者は思う。標準化に関する批判はほぼ第1点目で語られているが、なかでも具体的で説得力に富むのは同書の第4章「見果てぬ夢」で、著者に宛てられた開業老医師からの手紙を紹介するくだりだ。


 要約してみると、この老医は自らの診療人生を振り返りつつ、看護や介護との連携、告知や意思決定の難しいプロセス、自己決定、尊厳と医師の職務との狭間で、困難さを感じたり苦慮したこともないとして、医学的判断というより、「寿命を見極め、(患者が)寿命を受け入れてくれるだろうか」だけの作業だったと自らを振り返り、「複雑なことも、奥深いことも何もなく恥ずかしいことでした」と語る。


 小堀氏は、それを恥ずべきことではないとする。「最も個人的で千差万別、自然・必然で秘めやかであるべき人間の死を多職種の医療・介護専門家が『カンファレンス』し、死に方を『調整』し、『標準化』すること」(手紙の著述)こそが恥ずべきことではないかという思いを禁じ得ない、と語るのだ。この第4章の手紙とその内容の吟味を通じて、同書で繰り返される著者の思いは凝縮される。


●標準化は逸脱を罰則化する 


「カンファレンス」し、「死に方」を調整し、「標準化」することが、実は真っ当ではないということが、小堀氏の指摘によって、非常に理解は強く、さらに深くなるのは筆者だけだろうか。あるべき標準化は、その老医師の千差万別な死に方に対する従容として、自然な対応である。船頭多くして舟は山に登る。それを回避するためにマニュアルを作り、標準化する作業が必要になる。


  そして、いつかマニュアルは、教科書となり、コンプライアンスとなり、「守るべき定め」となる。標準化が行き過ぎるとどうなるか、人々の死に方に対する干渉が強要的になり、柔軟に自然にその死を受け止める気持ちは「余計」なものになり、そこから逸脱すると罰則が待っているかもしれない。


 前回触れた、介護施設での身体拘束に関するインシデント事例でも、拘束そのものをインシデントと認定する作業を重視するあまりに、それより大きなアクシデントのリスクが最初から論議されないというおかしな事態がすでに始まっている。もう一度、確かめたほうがいいのではないか。「死に方」は多様であることを、もう一度考えてみたい。そこに「標準化」しなければならない要素はあるのだろうか。「ゆっくり死ぬ」権利を取り戻すために何を今、考えなければならないのか、この連載で考えていきたい。


 次回からは、「正しい死に方」がどうしてここまで世論として同調圧力となっているのかを考えていく。(幸)