●「老衰死」を方便で使うことの無理


「正しい死に方」が、なぜ社会的圧力、同調圧力になり始めているのだろうか。その理由を乱暴だがいくつかまとめてみよう。


①高齢化社会に対する怯え


・世界がまだ経験していない高齢化への対応の戸惑い――教科書がない


・戦後社会が生み出した人口の突出への嫌悪


・経済成長の低迷と肥大化する高齢者医療、介護費用への危惧、不安


・戦後70年を経て、人間だけではないインフラ寿命の終焉の顕在化


・高齢者の塊に対する醜悪感の醸成――人生100年時代という言葉の悲壮感


②家族意識の変化


・パートナー、子ども、孫に対する介護等の負担の後ろめたさ――迷惑をかけない意識


・平穏死、尊厳死、自然死といった言葉の先行とイメージの固定


・年金制度の定着と核家族化の進行による高齢者世帯の独立


・医療、介護の質量の偏在とそれに対する認識の向上


・終活ブームの圧迫


・終末期告知ががん死と余命だけにイメージが固着していること


③医療における倫理観の変化


・患者の「生」第一から、不可逆的医療の認識の正当化


・関連制度の対応の遅さ、感度の悪さ、机上の空論に対する絶望


・医学の飛躍的進歩の中で、健康寿命への寄与が実感しにくい現実


・カンファレンス至上主義、チーム医療


・介護に伴う標準化、マニュアル化


 以上に挙げたのは、何も信頼に足る出典があるわけではなく、筆者の思い付きによる羅列である。そして、こうして箇条書きしていくと、やはり「ゆっくり死ねない時代」がかなり鮮明に輪郭を現してくることに気付く。


 そのうえで、注目しながら議論を進めなければならないことも浮かび上がってくる。上記の羅列が整理されていないことは当然として、「死」ではなく「死に方」としての問題を掲げ始めると、どうしても社会的・文化的な考え方からアプローチを進めなければならないことに気付く。世間的にはこうした論議の整理に違和感はないと思うが、人の生物学的な「死」が、社会文化的側面で、あるいはその時々の情勢で伸縮することが肯定されるということに留意をしておく必要があるのだと思える。


「ゆっくり死ぬか」、「ピンピンコロリ」で死ぬかは社会文化的テーマであって、医学的・科学的テーマではない。そのことが了解されないまま、例えば「自然死」などという言葉が、非常に客観性、科学性を帯びたイメージで語られる危険が生じてくる。それは、日本がまだ世界に教科書のない急速な高齢化と多死時代に入った今、日本だけで通じるイデオロギーになりつつある「平穏死」などという死生観に、同調圧力を高める要因のひとつとなっている。


「ゆっくり死ぬ」か「平穏死」を選ぶかは、もう少し飛躍して述べれば、医師が語るべき言葉ではない。そして、それを語るなら、医師は科学者ではないということを宣告すること、医学者という名詞も冠さないということを明らかにしておく必要があると思う。


●コストのかかる「老衰死」もある


「ゆっくり死ぬ」は、私は一般的に解釈される「老衰」を念頭にイメージしている。手厚い看護も、介護も必要だし、お金もたっぷり使ってしまうかもしれないことを前提にした「老衰」。それを選ぶことだって自由だと言いたいのだ。しかし、科学者は「老衰」などという死に方はないと反論したりする。


 鹿児島県で長く勤務医を務めた藤村憲治氏は、著書の『死因「老衰」とは何か』で、現在、死因順位で5番目に位置する「老衰」を、概念を整理しもう一度見直すべし、そのうえで公式統計化を目指せと主張している。私の解釈を加えれば、「寿命」「自然」「枯れていくように」という、「暗黙の社会的基準」を無視せずに、科学的根拠を直訳した「老年」を死因とはしない死亡原因の再考、再論議を求めるという姿勢のように思える。「死因」であれば、老衰は科学的には「死因」というにはあまりに漠然としすぎる。医科学からみれば「死因」は科学が敗れた結果であるから、老いて枯れていくように死んでも、何らかの「死に至った経緯」を「死因」として特定しなければならないということになる。


 藤村論文を読むと、医師ではない私は2つのことに驚く。1点目は、「老衰」を死因として統計上に認めているのはほぼ日本だけだということ、2点目は社会学的な見地から日本の医師は、老衰は科学的根拠、非科学的な社会的黙契の両義をどうやら認めているらしいということである。後者はその点で、医師が平穏死を説くことへの違和感の薄さの反射的根拠になっているように思う。


 これまで述べてきたことを要約すれば、日本の医学者たる医師は老衰を死因として認めるのに躊躇はあるものの、社会的・文化的な暗黙の了解に対して否定的ではなく、老衰も死亡の形態として認めたがっている。であるからこそ、自然死や平穏死という「死亡の形態」にも言及する立場を持つことができる、と言えそうだ。


●自然死と混同することはいいことか


 もうひとつ触れなければならないのは、医師や医学が言う「老衰」は「自然な死」や「良い死」と混同して使われている疑いがあることだ。私は、「ゆっくり死ぬ」は手厚い治療、看護、介護、たっぷりとお金を使ったことも含むと前述したが、どうも最近の「老衰」は徹底した治療をほどこさず、自然に死を迎えるという意味のように使われている。これが実は、現在の「正しい死に方」の模範解答だ。だから老衰は社会的合意を含めるという点で、「死因」として死亡診断書に書いてもいいという流れが生まれている。なお、先の藤村論文は、この「模範解答」には強い否定を示している。


 こうしてみてくると、徐々にわかってくるのは「老衰」は、現在では「自然死」と同義語で了解されており、「徹底した治療を施さない」死である。老衰の多くは今後、認知症になってくるだろう。老衰はすなわち「自然死」であり、それを「尊厳死」たらしむためには、「徹底した治療をほどこさない」ことになる。それでは、がんはどうか。ターミナルケアは終末期ではあるが医療だ。矛盾するかもしれないが、がんのターミナルケアは徹底して医療を尽くすことであり、すなわち「自然死」ではない。


 そのことは了解されているという反論もあるだろう。「自然死」ではないが「尊厳死」だと。でも費用は使う。死に方で格差をつけ、それが何も議論されないで、「平穏死」「自然死」でまかり通っていいのか。「老衰」は、安直に便利に使われている。高齢者の塊に嫌悪し、それが費消するお金に関心が強い側は、これから乱用するはずだ。(幸)