①三大軟弱馬鹿殿様


 江戸時代の三大改革とは、享保の改革、寛政の改革、天保の改革である。寛政の改革の推進者は松平定信(1759~1829)である。その松平定信の随筆『閑なるあまり』に、三大軟弱馬鹿殿様として、「足利義政(足利8代将軍)の茶の湯、大内義隆(1436~1490)の学問、今川氏真(うじざね、1538~1615)の歌道」をあげている。足利義政は東山文化にのめりこんで応仁の乱の元凶とされ、西国の巨大大名である大内義隆は、学問一辺倒のため家臣の陶隆房が謀反を起こし、大内一族は自害して大内氏は滅亡した。今川氏真は、連歌や蹴鞠の遊びが大好きで、命は長らえたが東海の戦国大名今川家は消滅した。


 今川氏真は軟弱な馬鹿殿様、という評価は、松平定信だけでなく一般的なものである。


 武田信玄、織田信長、徳川家康らは英雄として映画にもテレビにもなるが、今川義元(1519~1560)は桶狭間の合戦で首を取られたアホ大名として書かれ、その子氏真は親の仇を討つ根性もなく連歌と蹴鞠に遊びこけて、とうとう大名今川家を潰してしまった馬鹿殿様とされている。だから、信玄、信長、家康の武勇を輝かせるためのアホ役・馬鹿役・脇役としてしか登場しない。誰も今川氏真を自慢しない。NHKの大河ドラマの主人公の可能性ゼロである。


 私の住む東京都杉並区には今川氏ゆかりの地「今川」があるが、話題にしても「信長に桶狭間でやられたアホ大名の息子か。親もアホなら息子も馬鹿、お国自慢できる話じゃないな」ということで、おしまい。


 しかし、そうかな~?


 しからば、「今川氏真を自慢してみよう」というのが、今回のテーマです。


②杉並区今川の観泉寺


 杉並区に観泉寺という曹洞宗のお寺がある。場所は杉並区今川2丁目で、隣に中央大学杉並高校がある。観泉寺は戦国大名の末裔である今川氏の菩提寺である。


 今川氏真は、戦国大名の地位から没落し、流転の末、家康の庇護を受ける身となった。氏真夫婦は市谷田町の「萬昌院」に葬られたが、1662年、萬昌院が移転する際に、氏真の孫である今川直房(1594~1662)が、氏真夫婦の墓を観泉寺に移した。


 前段に書いた「萬昌院」は、最初は半蔵門近辺にあり、その後、市谷田町(新宿区)、筑土八幡町(新宿区)、牛込(新宿区)へと転々と移転し、大正時代に現在の中野区上高田に移転した。開山は今川長得(=一月長得、?~1625)で、彼は今川義元の三男(氏真の弟)である。長男でないため跡目相続争いを回避するため若くして出家させられた人物です。


 今川直房は13歳の時、父が病死し、母が再婚したため、氏真夫婦が養育した。直房は、徳川幕府の高家旗本今川氏の初代となった。高家とは儀式儀礼を司る家で石高こそ低いが、大名同然の格式を有していた。知行地は、当初は近江国長島村(現在の滋賀県野洲市長島)だけだったが、1645年、手柄をたてたので、ご褒美として、井草村(現在の杉並区井草、上井草、下井草、今川など)、上鷺宮村(現在の中野区上鷺宮など)、中村(現在の練馬区中村)が加増された。手柄とは、徳川家康の神格化を完成させたことである。家康は、すでに「東照社」の「東照大権現」であったが、朝廷から「東照宮」の「東照大権現」とする宮号宣下を獲得したのだ。たぶん、当時は「社」と「宮」では格が違っていて、「宮」のほうが圧倒的に格上と信じられていたのだろう。


 観泉寺のことであるが、最初は観音寺といい、井草村に建てられた。1645年の手柄・ご褒美によって、同じ井草村の今の地へ移転した。最初は、直房の姉である大友義親(上級旗本)夫人が伽藍建設に尽力し、彼女は「観泉寺殿」と呼ばれた。次いで、直房が整備し、前述したように、今川氏真夫婦の墓を観泉寺に移した。そして、高家今川氏の歴代のお墓があります。


 関連して、青梅街道を荻窪駅から環八を超えると「八丁」という信号機がある。ここは今川氏の「八丁屋敷」という祈祷所の薬師堂があった所です。


 観泉寺の存在から、戦国大名今川家は亡んだが、その家系は高家旗本今川家として生き残っていたことがわかります。そのつなぎ目に、今川氏真夫婦がいた、ということです。


 なお、観泉寺は昭和49年に『今川氏と観泉寺』を発行した。「観泉寺史編纂刊行委員会」が組織され、地元に残る史料を集め、832ページの大著です。また、杉並区立郷土博物館は平成7年に、小冊子『今川氏と杉並の観泉寺』(定価200円)を発行しています。本原稿を書くに当たって大いに参考にいたしました。


③今川氏真の両親


 室町幕府は足利家が将軍家である。足利家の分家に吉良家がある。吉良家で最も有名な人物は忠臣蔵の悪役・吉良上野介(義央、1641~1703)である。吉良家の分家が今川家である。法令に定めがあるのか、誰が言い出したのか、さっぱりわからないが、足利幕府が衰退して戦国時代になると、「足利将軍の後継ぎがない時は、吉良家が継ぐ。その吉良家にも後継ぎがない時には今川家が継ぐ」と言われていた。家計図上は、そうなっている。要するに、今川家は足利一族の名門なのだ。  足利将軍家の家紋は、「足利二引両」(にひきりょう)で、〇の中に二を書く。今川家は当然のこと「足利二引両」を使用していた。「今川家は名門だ」と誇示しているわけです。


 ついでながら、今川家の家紋はもうひとつあり「赤鳥門」(あかとりもん)である。これは、今川家の初代が駿府(今の静岡市)の浅間神社に参拝した時、「赤い鳥と共に戦うべし」という神託を受けたということです。ただし、「赤い鳥」なのか「あか取り」(馬のあかを取る大型の櫛)なのか、どうやら掛詞みたいです。


 2つの家紋から、「今川家は足利幕府の名門だ、戦に勝つぞ」という意気込みが伝わってきます。


 今川氏真の父は、今川義元である。義元は、今川家を将軍権威によって成り立つ駿河の守護大名から、合戦の連続の末、駿河(静岡県の東部、伊豆半島を除く)、遠江(とうとうみ、静岡県の西部)、三河(愛知県の東部)の三国を実力で支配する戦国大名へ成長させた。そして、二重、三重の政略結婚によって、1554年に、甲相駿の三国同盟を結成した。甲斐の武田信玄(=晴信、1521~1573)と相模関東の北条氏康(後北条3代目、1515~1571)と駿・遠・三を支配する今川義元の三巨頭が手を組んだ。


 また、今川家が京の足利家と縁が強いこともあって、多くの公家が荒れた京から駿府に来た。和歌の大家・冷泉為和(1486~1549)も駿府に来ていた。駿府には京文化が栄えたのである。なお、冷泉為和は武田や北条へ頻繁に往来して和歌を指導した。と同時に、今川の外交特使の任務も帯びていた。


 今川義元は、野蛮人ではなく文武両道の人物であったのだ。  義元は、いずれ京へ上り、弱体化した足利幕府を立て直すため「副将軍」的な役割を果たそうと考えていた。それが、今川家の使命と信じていた。


 1560年、今川義元は駿・遠・三の2.5万の大軍を率いて、織田信長の尾張(愛知県の西部)へ侵攻した。三国同盟、2.5万の大軍、織田軍は3000に過ぎない。完璧な布陣だった。しかし、桶狭間での休息中に攻撃され首を取られた。


 今川氏真の母は、定恵院(1519~1550)である。定恵院は武田信虎(1494~1574)の娘である。武田信玄も武田信虎の子で、定恵院は武田信玄の姉になる。定恵院は、甲相駿の三国同盟に熱意を持っていた。


 氏真の妻は、北条氏康の長女である早川殿である。1554年に結婚し、これをもって、甲相駿の三国同盟が完成した。政略結婚であったが、夫婦仲は極めてよかった。


 1560年の桶狭間の合戦まで、氏真はどんな生活をしていたか。和歌、連歌、蹴鞠といった公家文化だけでなく、兵法を含め幅広く各種の知識を学んでいた。剣術は塚原卜伝(1489~1571)から鹿島新当流を学んだ。剣術と蹴鞠名人から、氏真はかなり身体能力が高いと推測される。


 重要なことは、竹千代(その後、松平元康→徳川家康)が人質として駿府に住んでいたことである。今川義元は竹千代を冷遇するのではなく一人前の武将に成長させるべく取り計らった。そして、氏真と竹千代は、あたかも兄弟のような感情すらわいたようだ。今川家の竹千代への厚遇は竹千代に従ってきた三河侍も感謝の念すら持ったようだ。桶狭間の後、徳川家では、織田につくべきか、今川につくべきか、家臣の対立が発生する。今川派は竹千代といっしょに駿府にいた近侍たちで、その筆頭は石川数正(1533~1593)である。氏真と石川数正も仲がよかったと想像される。


④衰退そして滅亡


 桶狭間の合戦(1560年)では、多くの今川家の重臣や国人が討ち死にした。NHK大河ドラマで一躍有名になった女城主・井伊直虎の父・井伊直盛も討ち死にした。井伊直虎の性別に関しては、女性説もあるというレベルです。


 桶狭間の合戦で今川義元討ち死にの知らせで、松平元康(その後、徳川家康)は駿府に帰らず岡崎城に入り、西三河の支配を復活させた。東三河の国人は、松平元康につくか今川氏真につくか、誰が味方で誰が敵か、大混乱が発生した。遠江(静岡県の西部)でも大混乱発生。しかも武田信玄も介入したから混乱が大きくなり、疑心暗鬼で滅茶苦茶状態になった。悲惨な合戦、処刑、謀殺が繰り返された。ひとつひとつの事件を眺めると、誰しも「氏真は能力がないなぁ~」と思ってしまう。


 今川と武田の関係は、悪化した。武田信玄は北の上杉謙信は強い、南の今川氏真は弱い、と判断したのだ。そして、1567年、甲駿同盟は完全に解消された。同時期、武田信玄は織田信長、徳川家康と同盟を結ぶ。


 1568年、信玄軍は駿河へ進軍した。駿河の有力国人多数が武田側に内通していたため、今川軍は敗走し、武田軍は超スピードで駿府を占領した。氏真は朝比奈康朝(やすとも)の居所・遠江の掛川城へ逃れた。この時、妻・早川殿の輿(こし)すら用意できなかったという大あわての逃走劇だった。


 そして信玄と家康の間には、「遠江は徳川、駿河は武田」の今川領分割が約されていた。徳川軍が遠江へ侵攻し、掛川城を包囲した。籠城戦となった。


 早川殿の父・北条氏康は掛川城へ援軍を送るが、なかなか武田軍を敗退させられず硬直状態となる。そうこうしていたら、武田軍が遠江を占領し始めた。家康は信玄への同盟違反を悟り、掛川城の今川氏真と和睦を開始した。1569年、家臣の助命、掛川城開城で和睦は成立した。そして、今川氏真・徳川家康・北条氏康の三者で、「武田を駿河から追い払ったら、氏真が駿河の国主に返り咲く」という盟約がなされた。この盟約は結果的に実行されなかったので、この年が戦国大名今川家の滅亡の年となった。


⑤家康のスパイ


 今川氏真と妻・早川殿は、早川殿の実家である北条を頼り、小田原に住んだ。


 1571年、北条氏康が死亡し、後北条4代目に北条氏政(1538~1590)が継いだ。氏政は武田信玄と和睦した。早川殿は夫・氏真の命が危ないと察知し、夫婦は小田原を去り、家康の庇護を求めた。家康にとっても遠江の旧国主を庇護することは、遠江支配が円滑になるため好都合であった。


 思うに、氏真夫婦の駿府からの逃亡、掛川城での籠城、さらに小田原からの脱出、家康との再会・友情復活、この時期の氏真夫婦はドラマチックな「愛と逃亡」物語である。ギリギリの苦難のなか、夫婦愛を土台に、部下の裏切り、そのなかにあってただひとりの忠義者・朝比奈康朝、友情の裏切りと復活、父の愛情、叔母と甥の確執、あれやこれやのなか、夫婦愛が限りなく進化していく。いいね!


 1575年1月には、氏真夫婦はすでに上洛していた。旧知の公家たちと連歌をしたり、信長と面会して、茶の湯の名器をプレゼントしたり、蹴鞠を披露したりしている。今川義元時代、和歌の大家・冷泉為和は、和歌・連歌をもって甲斐や相模へ行って外交特使のようなことをしていた。おそらく、氏真は家康が京へ派遣した外交的な任務を帯びていたのだろう。簡単言えば、情報収集、スパイである。三河・遠江にいたのでは、京の朝廷・公家の情勢、信長の情勢はわからない。京文化を身につけ多くの公家や連歌師と親しい氏真は、最適であった役目であった。


 1575年5月、長篠の合戦。織田・徳川軍3.8万人、武田勝頼(1546~1582)軍1.5万人が激突した。周知のとおり、武田軍の完敗であった。今川氏真は、この戦では後詰として参戦している。長篠の合戦後、氏真は駿河に入り、7月には諏訪原城(静岡県島田市)攻撃に加わった。8月には落城して、牧野城と改名された。


 1576年3月、今川氏真は牧野城主に任命された。氏真の心のなかには、「武田を駿河から追い払ったら、氏真が駿河の国主に返り咲く」という氏真・徳川家康・北条氏康の三者盟約が実現されるかも、という淡い期待があったと思う。しかし、1577年3月、約1年で城主解任となり、今川氏の大名復活の芽は完璧に潰えた。


 その後、しばらくは浜松に居たようだが、京と浜松を往復していた可能性も高い。1591年には京での存在が明らかで、公家・文化人と連歌の会や和歌の会に盛んに参加している。連歌や和歌で遊んでいるだけで、上流階級の情報収集が可能なのだ。1591年とは、すでに完全な豊臣秀吉の時代で、翌1592年は文禄の役である。氏真の生活費は家康や秀吉から出ていたと推測されている。  1598年、氏真の次男・品川高久が徳川秀忠の旗本になっている。


 1607年、長男が京都で死亡。


 1611年、長男の遺児・今川直房が徳川秀忠の旗本になった。  1612年、氏真は駿府で家康と面会した。家康は氏真に品川の屋敷を与えた。氏真夫婦は江戸に転居した。


 1613年、妻・早川殿が死亡した。


 1615年、妻の後を追うように今川氏真は亡くなった(78歳)。


 氏真夫婦の近親者は、実に多くが悲劇の死があった。自分たち夫婦は大名の地位を完全に捨て去ったので、平穏な生活が確保できた。大名の地位はなくなったが、子や孫は旗本になった。よかった、よかった、小慾知足、小慾知足。そんな感慨を持ったのではなかろうか。


⑥余談・今川焼


 明治時代、「日本には、今川焼と焼き芋があるので西洋菓子は流行らない」と言われた。


 今川焼の由来は、江戸時代中期、江戸の名主・今川善右衛門が建設した今川橋の付近で発売されたという説がある。今川橋は今はなく、神田駅のすぐ近くの交差点の信号機に「今川橋」の標識がある。その界隈を眺めても「今川焼」屋は発見できなかった。


 今川氏の家紋「「足利二引両」を根拠とする説もある。


 名称は「今川焼」が正統なのだが、「大判焼」とも言われる。全国各地で、さまざま呼び方があり、名称で出身地がわかるというクイズ番組があった。


 今川焼を杉並名物にしたいものです。


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太田哲二(おおたてつじ)

 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。