左右双方の立場からそれぞれに批判されている入管法改正案がいよいよ参議院で可決されそうだ。技能実習生や留学生などの名目で、事実上のデカセギ労働者はすでに128万人以上来日しているが、今回の法改正によって大っぴらに単純労働者の受け入れが解禁され、名実ともに“移民開国”の時代が到来する。


 それにしても6日の国会質問で明かされた事実は衝撃的だった。一昨年までの3年間、実に69人もの技能実習生が病気や事故で死に至っているという。新しい在留資格はこうした受け入れの実態を何ら直視しないまま、入国・定住への規制を大幅に緩和する。


 ただ、このテーマの雑誌報道は弱い。四半世紀前、バブル期に最初の“デカセギの波”が来た頃と比べると、質・量ともに雲泥の差が見られる。おそらくその理由はシンプルで、雑誌の売上げにつながらない、という判断なのだろう。


 一方で喧々囂々の“移民論議”はかまびすしい。これは“ネット時代”の顕著な傾向で、人々は社会問題の実情を深く知らないまま、聞きかじりや先入観で議論に参加したがるのだ。リアルな現実などどうでもよく、“二項対立のイデオロギー論争のネタ”として、“話題を消費”するのである。


 そういった人々が求めるのは、“極論の裏付け”となるデータだけだ。いずれメディアの移民報道は、2タイプに集約されるはずだ。メインは犯罪や近隣トラブルなど“迷惑な外国人”を強調する話。これに抗って、人権侵害の告発報道も多少はあるだろう。だが、全体的構造を描き出す深い報道へのニーズはほとんどない。“両極の限定的情報”ばかりが流通し、世論はより一層分断を深めてゆく。お決まりの流れである。


 今週はニューズウィーク日本版が珍しく、外国人労働の地味な現場ルポで12ページの特集を組んでいた。『移民の歌』という古いレッドツェッペリンのヒット曲タイトルを借用したこのルポでは、デカセギ歴30年の日系ペルー人家族や食品加工工場から逃走中のベトナム人実習生、あるいは実習生に30万円もの給与を払っている金属加工工場の実例を淡々と描いている。


 このジャンルで比較的取材歴の長い立場から言えば、このルポに取り立てて新たな論点はなかったが、それでも真面目に足を使った記事としてまとめられていた。そう好感を抱くのは、それ以外の雑誌記事があまりにお粗末だったためだ。


 例えば、サンデー毎日は「ザ・ルポルタージュ」と銘打って、『入管法改正へ 「移民」の町を歩く』という記事を載せているが、群馬県大泉町のブラジル人コミュニティーと埼玉県川口市の中国人コミュニティーを、文字通り1日ずつ“歩いている”だけだ。外国人向けの食堂や商店で、ちょこちょこと言葉を交わしただけ。これでは、横浜の中華街に食事に行き、従業員と少しおしゃべりする体験と何も変わらない。


 SPAに載ったライター・古谷経衡氏の記事『すでに移民と共生する町 “群馬のブラジル”を歩く』も同様だ。現地でカトリック教会のミサを覗いただけ。要は日帰りの“お散歩ルポ”である。それ以上手間暇をかけてみたところで、読者のウケは確かに悪いだろう。それにしても、“お手軽”にもほどがある。先週の日産報道の話と同じ結論だが、移民報道で感じるのも、週刊誌取材の著しい足腰の弱体化である。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。