●生活支援としての医療費は無駄ではない


 前回、筆者(私)は、医師や医学が言う「老衰」は「自然な死」や「良い死」と混同して使われている疑いがあると伝えた。私は、手厚い治療、看護、介護、たっぷりとお金(医療費)を使う「ゆっくりとした死」を選択してもいいのではないかと考えている。そのように断言すると、誰がそれに反論をしているのか、という非難が返ってくるような気がするが、それはここで繰り返し述べてきた、「自然死」「平穏死」などという言葉がすでに同調圧力となっていることで説明できる。「ゆっくり死ぬ」ということはすでに、当たり前ではなくなっているのである。


 終末期医療が、「医療」を遂行することを認めているのであれば、それは制度的にもほとんど「がん」だけである。だから、それを知っている医師たちは自分たちはがんで死にたいなどと平気で言う。心身ともに受ける手厚い終末期医療があり、それによって「尊厳死」が存在することになっているのだ。今のところ口をぬぐい、説明しないで済んでいるが、「尊厳死」と「自然死」「平穏死」は違うものである。


 そのうえで、社会的黙契として「老衰」を「自然死」とし、そしてそれを死因とすることで、がん以外の高齢死亡を「老衰」と括り分けして、医療費をかけない死に印象化させる世論操作が進んでいる。「無益な医療」を受けない死が「老衰」だというマインドコントロールが始まっているのだ。がんで行われるターミナルケアは「無益な医療」ではないというマインドコントロールが、がんという疾患全体にかかる費用を許容し、がん以外の終末期医療を「無益な医療」で括り、「自然死」イコール「老衰」の承認につなげようとしているのである。


 言葉は過激かもしれないが、なぜがんだけが費用をかける死であることが許容されるのかは、このシリーズで何回目かに取り上げる。


 その約束をしたうえで、今回からはがん以外の「終末期医療」のあり方、あるいはそれらが本当に費用がかかるのか、「無益な医療」なのかを考えていきたい。


●医療コストと生活コスト


 ここで、誤解は避けておかなければならない。私は、何が何でも「ゆっくり死ぬ」ことが正しいと言っているわけではない。とにかく「生」ある限りは生き続けたいという意志も尊重されていい、選択があっていいと述べ続けているのである。人に迷惑をかけない、次代に負担をかけないなどという全体主義につながるような発想、同調圧力で「最期」をマニュアル化し、規範にしてはならないと言っているのである。


 個人的には、主観として、胃ろうなどの無理な治療を受けて生き続けたい、あるいは寝たきりのまま人工呼吸器で生き続けたいとは思わないし、認知症になっても自分で食べられなくなったら、過剰な延命治療を望んでいるわけではない。しかし、そう思わない人がいてもいいし、(革新的な治療技術の開発など)何かを信じて延命医療を選択する人があってもいい。それこそが、まさに死生観であって、死生観はマインドコントロールされてはならない。


 しかし、ここで立ち止まって考えてみると、昔から長命であると費用はかかるものだったのだろうか。確かに、身体的に衰えて労働力として機能が期待されなくなると、「無駄飯食い」として存在したことがあるのだろう。加えて介護的な支援が大家族制度のなかで「コスト」として意識されていた時代はある。生活から発生したコストは存在した。姥捨て山伝説がまるで完全なフィクションとして存在してきたなどと言うつもりもない。


 だが、現代と比較して、「コスト」の発生と消費のメカニズムは、そうした生活の中から発生されるものではなく、技術の進歩でつくられたコストであることを認識しておく必要がある。つまり、昔は生活から生まれた「高齢化コスト」しかなかったのに、現代では医療技術による「死なせない技術」のコストが大きくなっているだけなのではないか。


 この「死なせない技術」を、採用するかどうかを選択し、生活コストのみを考えた死生観は、わざわざ「平穏死」というようなものであるのかどうかということも考えてみよう。むろん、現代ではそれなりに健康を維持する「医療的なコスト」も「生活コスト」として考えることも許容範囲である。それらの「生活系医療費」が過大になる惧れがあるだろうか。


●ペインコントロールを「生活支援」と理解する


 病院のベッドにずらりと並ぶ寝たきり老人の姿は、「死なせない医療技術」であり、杖をついて歩いて外来受診し、疼痛コントロールする高齢者は同じではない。がん患者はベッドに横たわって疼痛コントロールを受け、それを終末期医療として手厚い医療介入を受けた末のことが「尊厳死」なら、生活の中で痛みをコントロールすることを受け続け、あるいは一定の訪問介護などの支援を受けることは終末期医療とは言わなくてもいいが、生活支援医療費であり、死なない特別な医療を受けるわけではない。


 高齢者の医療費は国家の存亡のように言われるが、それは高齢者が増えただけが原因なのではない。医療技術が高まり、そのコストが医療費を押し上げ、それを増えた高齢者にもあまねく適用していることから起こっている。非常に単純に言えば。高くなったコストが「死なない技術」に使われているなら、「生活するための医療技術」にそれを転用すればいいし、その医療費の負担も選択でいいのだ。「死なない医療」か「生活支援医療」かの選択で問題はかなり改善に向かうのではないか。何も、ピンピンコロリで死にたいと言わせたり、「平穏死」などと言わなくてもすむはずなのだ。生活の支援を受けながらゆっくりと死んで行くことも選択。同調圧力を受けるいわれはない。


「老衰」はこれまで批判をしてきたように、無理強い的な、同調圧力的な「自然死」「平穏死」とイコールのニュアンスから、死因としてポジティブに捉えるのは現状では無理である。この論を展開している私には、「老衰」は今の位置から無理のない解釈が行われ、選択制がある、多様性がある死生観の中で語られる「死」のひとつとして機能するまでは受け入れられない。


「死因」として、「老衰」を認める医師が増え、その認識が社会的文化的な暗黙の了解のもとに増えていることは前回も触れたが、この「死因」の「老衰」が非常に増えている地域がある。そこにはある意味、無理がない「老衰」があり、そして「死なない医療技術」から遠ざかることで、生活支援医療が再び成熟しているように見える姿がある。「老衰」ではなく、違う言葉で、例えば「寿命死」のようなものと言ってもいいようなものがあるのだが、その地域の医師たちも死因を「老衰」というのにはわだかまりが小さくないようだ。次回はその地域、北海道夕張市などの例をみていく。(幸)