(1)天平3姉妹


 時は奈良時代(710~794)。第45天皇の聖武天皇(701~756、在位724~749)の皇后は藤原光明子(701~760)で、皇族以外の女性が皇后となったのは、光明子が初めてである。光明子の父は有力氏族の藤原不比等(659~720)で、その息子が藤原4兄弟。藤原4兄弟は、藤原南家、藤原北家、藤原式家、藤原京家の開祖で、時々の栄枯盛衰はあるものの、藤原4兄弟の子孫がその後の王朝の最有力貴族となった。


 聖武天皇の夫人(当時は皇后に次ぐ女性)は県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ、?~762)です。県犬養氏は藤原氏より数段下の力しかない中堅氏族。他にも3人の夫人がいましたが、存在感が極めて薄いので省略します。  皇后の藤原光明子は2人の子をもうけた。


 ①阿倍内親王(718~770)は、後の孝謙女帝(第46代天皇、在位749~758)、称徳女帝(第48代天皇、在位764~770)となった。


基王(もといおう、727~728)は、聖武天皇と光明子の間に生まれただひとりの男子で、誕生すると直ぐに皇太子となった。しかし、満一歳で病気のため夭逝した。


 夫人の県犬養広刀自は、3人の子をもうけた。


 ➀井上内親王(717~775)は、5歳(721年)に斎王となり、25年間伊勢の斎宮で、聖女として過ごした。744年に弟の安積親王が逝去されたので斎王の任を解かれ、746年に都に戻った(30歳)。そして、白壁王と結婚し、756年(38歳)で、長女・酒人内親王(さかひとないしんのう)、761年(45歳)で長男・他戸親王(おさべしんのう)を産む。770年、称徳女帝は後継天皇がないまま逝去し、その結果、白壁王が第49代天皇に即位し、光仁天皇(709~782、在位770~781)となった。井上内親王は皇后となった。しかし、772年、でっち上げ謀略で皇后の地位を剥奪され、長男・他戸親王も皇太子の地位を剥奪され、2人とも大和国内智郡(現在の奈良県五條市)に幽閉され、775年、2人はそこで同時に死亡した。他殺か自殺か。そして、井上内親王は怨霊となった。


 ②不破内親王(生没不詳)は、井上内親王の妹。権力政争によって3回も、内親王の地位を剥奪され、「気の毒」を絵に描いたような運命です。


 ③安積親王(728~744)は、基王亡き後、聖武天皇の唯一の皇子であった。したがって、常識的には最有力の「皇太子候補」であった。しかし、聖武天皇は自分の皇位継承者は藤原一族(光明子)の血を引くものと決めていたので安積親王の皇太子は有り得なかった。738年、聖武天皇は阿倍内親王を皇太子にした。女性の皇太子は前例のないことであった。しかし、当時の女帝は、未婚(独身か未亡人)が不文律であったから、女帝の後の天皇は基本的に混沌となる。744年、安積親王が突然死(17歳)した。単なる病死と推測されているが、藤原一族憎しの方面から藤原仲麻呂の毒殺説が生まれた。


 いろいろな名前が出たので復習を。


 聖武天皇の皇子2人は、ひとりは1歳で亡くなり、もうひとりは17歳で亡くなった。内親王は3人いて、阿倍内親王(後の孝謙天皇、重祚して称徳天皇)、井上内親王、不破内親王で、3人とも皇位継承をめぐる権力闘争でもみくちゃにされた悲劇の女性で、「天平3姉妹」と言われる。怨霊になったのは井上内親王だけです。


(2)斎王


 古代にあっては、豪族が割拠していた。天皇家も基本的に一豪族であった。各豪族にはそれぞれの氏神がいた。天皇家の氏神が伊勢神宮(天照大神)である。天皇家を中心とする中央集権的国家に移行するにつれて伊勢神宮が脚光を浴びた。そして、天武天皇(第40代、?~686、在位673~686)の時、斎王が制度化された。天皇の皇女が伊勢の斎宮という大宮殿に住み、天照大神と天皇の間に立つ至高の聖女という役割を担う斎王となった。初代斎王は天武天皇の皇女・大伯皇女(大来皇女とも書く)です。むろん禁欲生活を強いられた。


 横道にそれますが、後年、斎王が禁欲を破った大スキャンダルが発生した。斎王恬子(やすこ)内親王と在原業平の逢引で、『伊勢物語』に書かれています。斎王が在原業平の寝所へ出向いた。『伊勢物語』には、寝所でお互い黙って過ごしただけ、みたいなことが書かれていますが、誰もそんなこと信じない。実際、斎王恬子内親王は懐妊してしまう。種は在原業平だろう、いやいや別の男の種だ……と「下ネタ論争」みたいな「学術論争」がなされた。中学・高校で習う『伊勢物語』は摂関家のお嬢様と在原業平の駆け落ち物語の部分ですが、当時としては斎王の逢引・懐妊のほうが超大事件だったわけで、それゆえ『伊勢物語』の題名になったのであります。


 本題に戻って、井上内親王は、721年、5歳で斎王となった。斎王就任の際、大々的な華麗なる大パレードがなされた。721年の時の天皇は元正女帝(第44代、680~748、在位715~724)で、次期(第45代)天皇は、聖武であるあることを大々的にアピールする狙いがあった。聖武の最初の皇女が井上内親王です。井上内親王が斎宮になったことは、まもなく次期天皇に聖武が即位することを宣言したに等しいのです。実際、724年に聖武は天皇に即位した。


 井上内親王は5~30歳まで25年間、世俗とは遮断された伊勢の斎宮という空間で斎王の暮らしをした。奈良の都のどす黒い政争とは無縁な静寂な空間であった。娘盛り・女盛りを完璧な禁欲、敬虔、祈り、精進で過ごした。劇画的に言えば、かくして井上内親王は超能力聖女となったのだ。


 744年に弟の安積親王が逝去された。斎王は、天皇の交代や天皇もしくは近親者の死亡によって退任する定めになっている。井上内親王は、斎王の任を解かれ、奈良の都に戻ったのは、746年(30歳)と推定されている。


 なお、伊勢神宮の斎王制度は14世紀(南北朝時代)に廃絶された。要するに、伊勢神宮の最も重要な部分はなくなってしまった。現在の伊勢神宮には、元皇族の女性が祭主という肩書についている。「斎王」と「祭主」とは、まったく違います。


(3)白壁王と結婚、2人の子が誕生


 世俗に戻った井上内親王は、多くの皇族が権力闘争の結果、次々に命を落としていったことを、否応なしに確認したことであろう。


 当時の皇族は、天武天皇系列と天智天皇系列があった。聖武天皇も井上内親王も天武天皇の血脈である。そして、皇位継承は天武天皇系列が独占していて、天智天皇系列は出番がなかった。


 世俗に戻った井上内親王に縁談が持ち上がった。勧めたのは父・聖武天皇で、30歳になった娘でも、やはり可愛いのだ。それに、「永年の斎王のお役、ご苦労様、これからは人並みの幸福を」という感情もあったと思う。


 縁談の相手は、8歳年上の白壁王であった。白壁王は天智天皇の孫にあたるから、血筋は申し分がない。白壁王には百済系女性との間に山部王という男子がいた。皇位継承という観点からは、天智系の白壁王は出番なし、そして後ろ盾のない女性の子である山部王は論外であった。


 756年、井上内親王38歳で、長女・酒人内親王(さかひとないしんのう)を産む。


 761年、45歳で、長男・他戸親王(おさべしんのう)を生む。  まさかの高齢出産と言うことなかれ。井上内親王は、超能力聖女なのだ。この頃が井上内親王の人生で一番幸福な時期だったように思う。


 749年、第45代天皇・聖武天皇(在位724~749)が阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した。第46代・孝謙天皇(在位749~758)、第47代・淳仁天皇(在位758~764)、第48代・称徳天皇(孝謙天皇の重祚、在位764~770)と時は流れる。その間、血、血、血の権力闘争が相次ぐ。書き出すとごちゃごちゃになって、何が何だかわからなくなってしまうので、1例だけ。


 淳仁天皇は、孝謙上皇軍に包囲され、廃位を宣告され、淡路へ流される。淳仁は天皇復帰の動きをしたが、称徳女帝側に察知され殺害された。葬儀の記録もなく、称徳女帝の意向によって淡路廃帝あるいは単なる廃帝と呼ばれた。


 とにかく皇位継承の可能性がある者が次々に殺されていった。それに連座する貴族も次々に殺されていった。そうしたなか、白壁王は酒におぼれて馬鹿を演じていたので政争の渦中に入らずにすんだ。まったくの馬鹿ではなく、称徳天皇の時期には、左大臣・右大臣に次ぐナンバー3の地位である大納言になっている。


(4)皇后となる。そして、大転落


 770年、称徳天皇が次期天皇を決めないまま崩御した。この時は重臣の協議によって白壁王が第49代天皇に即位した。光仁天皇(在位770~781)である。そして、井上内親王は皇后になった。息子の他戸親王は皇太子になった。  奈良の都では、白壁王(光仁天皇)と井上内親王によき政治を期待するわらべ歌が流行ったりした。


 ところが……  772年3月、皇后(井上内親王)が光仁天皇を殺すべく永年呪詛していた、と自首する者があらわれた。自首した者は、永年の大逆を知っていながら黙っていたことは不問とされ、それどころか褒美が与えられた。呪詛したとされる実行犯も減刑されて遠流(事実上、都を離れるだけ)であった。井上内親王は皇后の地位を剥奪された。さらに、同年5月、他戸親王は母が大逆罪であるため皇太子を剥奪された。773年、山部王が藤原式家の強引な推挙によって皇太子になった。後の桓武天皇である。要するに、藤原式家と山部王の連携謀略であった。光仁天皇は藤原式家のイイナリ天皇であった。


 謀略側は、光仁天皇は高齢で数年後には亡くなるだろう、すると皇后の井上内親王が女帝として君臨するだろう。称徳女帝もスゴイ政治をしたが超能力聖女たる井上内親王が女帝になれば、子の池戸親王に天皇を譲位して皇太后として超スゴイ政治をするに違いない、藤原一族は完全に干される……そうシミュレーションしたのだろう。


 付け加えるならば、称徳女帝は天武天皇の血筋よりも仏法の法王を上位に置いたのだ。父・聖武天皇は晩年に「太上天皇・沙弥勝満」と称した。つまり、聖武は事実上「天皇兼法王」となった。称徳女帝は、晩年の父の姿から、仏法を完全に体現した清らかな法王(道鏡)が天皇と2人で君臨する体制を試行した。「天皇と有力貴族(藤原一族)」ではなく「天皇と法王」の2頭体制を目指したのだ。井上内親王は斎王を25年間務めた超能力聖女である。「天皇と有力貴族(藤原一族)」ではなく「天皇と斎王OG」が君臨する体制を創り上げるのでは……そう恐れたのだろう。


 773年10月、たまたま光仁天皇の姉が亡くなった。井上内親王が呪詛して殺したとみなされ、井上内親王と池戸皇子は庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)に幽閉された。そして、775年4月、2人は同時に亡くなった。自殺か他殺か……。いずれにしても、2人の死によって、天武天皇の血脈は消滅した。


(5)怨霊となる


 775年7月、藤原蔵下麻呂(藤原式家)が急死した。


 775年8月、伊勢、尾張、美濃に暴風雨が襲い甚大な被害が発生した。伊勢神宮も大被害を被った。超能力聖女井上内親王は、幽閉された時、身籠った。産んだのは雷神であった。井上内親王は竜になり、我が子の雷神といっしょになって暴れ回ったのである。


 776年9月、毎夜、瓦・石・土が都の各地に落ちた。この怪奇現象は20日間続いた。


 777年9月、藤原宿奈麻呂(藤原式家)が急死した。同年11月、光仁天皇が病に倒れた。同年12月、山部王(皇太子)も原因不明の大病となった。山部王大病の3日後、井上内親王のお墓を大改装することが決定された。井上内親王の名誉回復が始まった。  777~778年の冬、雨が降らず、井戸水が涸れた。宇治川などは、歩いて渡れるくらい水量が減った。


 800年、井上内親王の皇后の位は戻された。


 しかし、井上内親王の怨霊は、1000年以上生き続けた。泉鏡花の妖怪小説『天守物語』がある。その原形は、兵庫県立博物館ホームページによると、姫路城天守閣の妖怪は井上内親王と子・池戸親王の親子不義によって生まれた富姫という。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。