●自立し、癒しを得て、自由にふるまう最期


「自然死」や「平穏死」が公然と語られるようになったのは、がんのターミナルケア、終末期医療が社会に定着したことの影響が強いと思える。がんの終末期医療は、90年代には診療報酬で保険適用となり、制度上も認知された。正確に言えば、診療報酬で認可された医療技術は「緩和ケア」である。


 緩和ケアは主に、がんの終末期における痛みの治療に対処することだ。そういえば狭義に聞こえるかもしれないが、がんのターミナルの場合は「必要な緩和ケアを受けて自然に死を迎える」という大きな意味ではなく、結果としてそうであり、そのために患者の尊厳が守られる、ゆえに緩和ケア=ターミナルケという誤解が起き、その誤解のままに終末期ケアが理解され、「平穏死」「尊厳死」という理解で歩き回られている。緩和ケアは痛みをコントロールするのであり、それが結果的に患者の霊的な尊厳性まで確保されるという拡大解釈につながっているのだ。


 そのこと自体は、悪いことではない。しかし、緩和ケアががん、エイズ、その他の難病などに限定され、高齢者疾患に全適用にならないのはなぜなのだろうか。どこかに、がんなどを「重篤」で、「不可逆」という思いこませがあるように思える。


 もうひとつの誤解は、緩和ケアが無益な医療を行わない、正確には漫然とした抗がん治療を行わないという前提に立って、いかにもコストのかからない医療だと認識されていることである。そうであるなら、何も疾患を区切って診療報酬を設定することもあるまいと思えるが、がんの末期だけは、ずっと「医療」でいいのだ。介護に移行しなくてもいい。介護にいかなければならない慢性疾患の患者は、医療からは切り離すのだ。疾患による差別、あるいは医療者が最も関心のある疾患のみを医療カテゴリーに残す試み、それが制度的にも差別的な扱いに繋がっていそうではないか。


●説教ではなく「癒し」を求めよう


 平穏死や自然死、尊厳死を推奨する本などを読むと、必ず緩和ケア医療の話が序論から出てくる。そして、その話がいつの間にか延命医療の話に転換され、「緩和ケア医療」が徹底的な延命医療からの脱却で生み出されたような印象操作が行われている。


 一方で、延命医療を行わず、「枯れるように」衰弱していくと、苦痛がないどころか、延命医療をするよりも長生きをするというエピソードも多い。しかし、その実現の裏にあるのは単純な延命医療否定ではなく、「癒し」を得て、自由に生きることが前提になっていることを欠落させてはならない。


 アトゥール・ガワンデは著書『死すべき定め』で、人が尊厳を持って最期を迎えることは何かを問いかける。この本は、「延命医療」の罪つくりな部分を的確に教えながらも、自立と自由が最期まで必要なことを説く。「自立した自己」「形あるものは崩れ落ちる」「依存」「援助」「より良い生活」「定めに任せる」「厳しい会話」「勇気」のタイトルがついた8章で編まれているが、序文で、著者が10年も前に書いた患者のことを例に、同書の基本的な目的が明らかにされている。


「現代の科学技術の能力は人の一生を根本的に変えてしまった。人類史上、人はもっとも長く、よく生きるようになっている。しかし、科学の進歩は老化と死のプロセスを医学的経験に変え、医療の専門家によって管理されることがらにしてしまった。そして、医療関係者はこのことがらを扱う準備を驚くほどまったくしていない」


 また、「先進工業国全体で、長く延びた老化と死は病院とナーシングホームで起こるできごとになった」と述べる。死は自然の秩序であることは医療関係者だけでなく、私たち一般の市民も必然として知っていることだが、医学と医療はどうもその本質の部分を何かの取り違えを起こしている。それが患者の苦痛を増したり、患者が求める「癒し」を無視したりすることにつながっている、というのだ。 


 私が、平穏死や尊厳死を説く議論や意見の中で、どうにも不満で、同調圧力にしか感じないのは、そうした議論や意見が往々にして「癒し」を無視しているか、求めてはならないようなニュアンスで語られているからである。「癒し」は自ら求めるものだ。根源的で、自立的で、多様で、なくてはならないものであり、他者からの説教であってはならない。


「自立した自己」でガワンデは、長寿化が家族のあり方や社会構造、生活システムを変化させてきたことに理解を示しながら、死ではなく「引退」という概念が出現したことを切り取っている。かつて人は、元気だった時間から崖から滑り落ちるような形で、死に至った。


 現代では、医学と公衆衛生の進歩によって、「引退」を契機に階段を少しずつ降りるように死を迎える。「階段」は慢性疾患の治療と回復を繰り返すことだ。そして、人はゆっくりと衰えていくことに自覚的になり、「どこか恥ずべきこと」のように思い、例えば97歳の女性がフルマラソンを走ったことを聞くと、自分もそうでありたいというファンタジーが現実化しないことに、申し訳ないと思わせるようになったと分析する。


 これを逆説的に考えるなら、平穏死や尊厳死は、それを受容しなければ「どこか恥ずべきこと」になりかけている。90歳でマラソンができなくても、ゆっくりと死を受け入れてもいいのではないか。ことさらに延命医療を受けるな、高額な医療技術を受けるなと言われる覚えはない。多くの人の理想は実現しない。そこに区別はない。にもかかわらず、緩和「医療」をある疾患の患者だけが受けられる制度の不当さを思わずにはいられない。


●制度で医療から見放される時代だから


 ガワンデは一貫して医学、医療、介護がこうした新たな高齢化という問題の構造に基本的には無関心であることを暴く。無力であることを繰り返し指摘する。「医療関係者は役に立たない。治せるようなはっきりした問題をもっているのでなければ、医師は患者に興味を示さない」。


 それは、老後を多くの場合ひとりで暮らしていくのか何の考えも持たずにいることに、医療者も市民も気が付いていないと言い、さらに医師が老年医科学に無関心な状況、とくに米国ではそれが濃密に医師の所得と関係していることにも触れる。考え深いのは、現在でも医学の進歩のモチベーションはがんであり、現代では精神医療がそれに匹敵するようになってきていることだ。


 しかし、よくよく目を向ければ、そのモチベーションは平穏死や尊厳死に資するものではなく、いかに生を続けさせるか、いかに呼吸を続けさせるか、いかに絶望させないかにしか、関心は当たっていない。相変わらず、医学は尊厳死などに露ほどの関心もないのだ。


 私がこのコラムで一貫して主張したいのは、そもそもそうした基本構造に無関心な医師や行政担当者から「平穏死」や「尊厳死」を推奨される覚えはないということ、それを同調圧力として医療から脱落させられたりせず、「癒し」を受けながら自由に生き続けることが重要だということだ。


「癒し」とは床ずれを防いだり、体重管理する「介護」を受けることではない。ガワンデは「手段であって目標ではない」と切り捨てる。そして、高齢者がしばしば自宅に戻りたがるのは、自宅が癒しの場所であることは確かであり、自宅では高齢者はしたいことができるという「自由」が存在することを語っている。


 自由にふるまうことは人生の幕引きの前で、非常に大きな意味を持つ。ガワンデはいくつかのデータの提示を通じて、医学や医療が強いる苦痛は、「生」への希望を持つ患者には実はあまり有効ではなく、苦痛をなるべく回避し、残された人生を有意義に過ごしたい患者に寄り添ったほうが、実は余命は長いと検証している。


 周囲に迷惑をかけない、次代に負担をかけないということを美学として強要される覚えはない。「癒し」を得て、自らみつけて「自由な意思」で生きていいではないか。次回でまとめを示し、終わりにしたい。(幸)