「スパゲティ(体にさまざまチューブが取り付けられた)状態になって生きたくない」という元気な老人は少なくない。
しかし、治る込みはないものの、最新の設備や機器など、現代医療のおかげで何とか生きている――。家族がそんな状態になったとき、どう考えるか?
正直なところ、直面してみなければ本当のことはわからない。 難しいのは医師にとっても同様だ。苦しむ患者の家族から、患者を死なせてくれと頼まれて……。メディアでもさかんに取り上げられた1991年に起きた東海大学病院安楽死事件や1998年の川崎協同病院事件では、医師が被告になっている。善意で協力したはずが裁判に巻き込まれるリスクもあるのだ。 『安楽死・尊厳死の現在』は、古今東西の安楽死(尊厳死)の実情や、さまざまな議論を伝える一冊である。
一般に「日本の医療は進んでいる」と考えがちだが、こと安楽死に関しては、欧米が先を行く。欧州では19世紀から議論が盛んに行われており、オランダは2001年4月に世界で初めて安楽死を合法化した。翌2002年にはベルギーで「安楽死」の名が入った初めての法律を制定、ほかにもルクセンブルク(国家元首のアンリ大公が署名を拒否しながらもなんとか成立)、カナダなどでも合法化されている。
安楽死や尊厳死と聞いて多くの人がイメージするのは、治る見込みはないにもかかわらず、病の苦痛を味わう家族を楽にしてあげたいと考えて選択するケースだろう。もっとも、〈こうした「古典的な安楽死」問題は、いまではほとんど存在しない。現在の緩和医療薬学の発展などによって、たいていの肉体的苦痛はコントロールできるようになったからだ〉。 それでも安楽死を選ぶ人の病気はがん患者が圧倒的に多いが、〈近年は認知症や精神疾患などの増加が問題視されている〉という。もっとも、〈自分が殺されることをもはや理解できない認知症の人をどうやって安楽死させるのか〉、大いに疑問が残る。
合法化した各国では、どこも時間の経過とともに安楽死を選ぶ人が増えている。認知症や障害を抱えるなどした人が、家族や社会の負担とされ被害を受けていないか(いわゆる“すべり坂”問題)、常にウォッチする必要があるだろう(どの国や組織も、その存在を否定するだろうが)。
■簡単ではない法制化
実は、日本でも安楽死・尊厳死に関連したルールが存在している。
ひとつは、2007年に厚生労働省が終末期医療に関して定めたガイドラインである。2018年には、内容・名称とも改訂され「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」となった。そもそも、人工呼吸器を取り外した医師が殺人容疑で書類送検されたことなどを受けて制定され、改訂版では昨今強調されている在宅医療・介護との連携を意識したものに進化している。 前述した東海大学病院や川崎協同病院の事案についても、このガイドラインの〈合意のプロセスを丁寧に積み上げていけば、違法性はなく、そもそも、事件にならないことを意味する〉という。
そして、もうひとつが国会への上程を待っているという「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)第二案」(尊厳死法)である。〈この法案は、事前指示書などで示された延命措置の中止を希望する患者の意思を尊重し、この法に基づいて医師が延命措置を中止しても、その法的責任を問われないとする〉内容だ。
もちろん、懸念は多々ある。例えば、本人が意思能力を失った場合の治療の希望を記した事前指示書。著者が掲げる事前指示の課題の中でも、①執筆は自己決定できるが、実行は自己決定できない②事前指示書によって、過去の決定が将来の扱いを拘束する③指示内容が曖昧であると、実行できない――の3点はとくに重要な指摘だろう。
〈安楽死を希望する者は高学歴者に多いという〉が、適切な事前指示を書けるとは限らないし、実行を決定する他者が適切に本人の意図を理解できるかはわからない。悪用する親族もいそうだ。 医療が進歩して、事前指示書の執筆時点では“不治の病”とされた病気でも、治る可能性が出てくるかもしれない。
そもそも、法制化することで、機械的に運用したり、制度を悪用してしまったりする人は必ず出てくるだろう。
年末に帰省した折、年老いた親を見て、「リビングウィルをきちんと残しておいて」と気軽に言ってはみたものの、ちょっと「安易すぎた」と反省。安楽死・尊厳死をめぐる、さまざまな論点について、改めて考えてみたい。(鎌)
<書籍データ>
松田純著(中公新書860円+税)