(1)歌聖
柿本人麻呂(生没推定660頃~710頃)は、飛鳥時代の歌人、『万葉集』ナンバーワン歌手である。『万葉集』に、長歌19首、短歌75首が掲載されている。 『万葉集』の第1期には、大スター歌手・額田王(昔人の物語55)が登場する。そして、第2期の代表者が、柿本人麻呂である。第3期は奈良時代前期で、山部赤人、大伴旅人、山上憶良(昔人の物語24)、高橋虫麻呂、坂上郎女、第4期は大伴家持らである。 柿本人麻呂に関しては、「歌人」であること以外に、とりたてて劇的な史実があるわけではない。下級役人であるが、持統天皇(41代、生没645~703、在位690~697、ただし686年から実質的に天皇職)に歌才を見出されて歌人として宮中で仕えた。それだけなのだが、紀貫之が『古今和歌集』の「仮名序」(仮名で書いた序文)で、こう書いた。
柿本人麻呂なむ、歌の聖なりける。(人麻呂の歌風の若干解説は省略)又、山部赤人といふ人ありけり。(赤人の歌風の一言解説は省略)人麻呂は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける。
紀貫之が実質的は編纂した『古今和歌集』が以後1000年の和歌の基本中の基本になった。そして、紀貫之が柿本人麻呂を「歌聖」と称えたことにより、「単なる優秀な歌人」でなくなり、多くの伝説・奇説・異説が生まれることになった。
(2)天皇即神の歌
人麻呂の歌には、天皇即神という天皇賛歌が多くある。最も有名なのが次のもので、戦時中、大政翼賛会の賛助で「愛国百人一首」が選ばれたが、その1番の歌である。
大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬(いほり)せるかも(巻3-235)
天皇即神の歌は『古事記』『日本書記』の中にも若干あるようだが、柿本人麻呂の歌が群を抜いている。しかし、人麻呂の没後は流行らなくなった。それが、先の戦争中、突然、国家指導で流行った。
それでは、なぜ人麻呂は、天皇即神の歌を数多く詠ったのであろうか。 理由①=名もなき下級役人が持統天皇によって、「歌で仕えよ」と大抜擢され、それに非常に感謝した。そりゃそうだろう。 理由②=古代史最大の戦乱である壬申の乱(672)の後、天武天皇(第40代)、持統天皇の時代となる。言うまでもなく、持統は天武の皇后である。歴史では、しばしば「天武・持統朝」と呼ばれる。この時期に、天皇を中心とする中央集権化が完成した。単に、制度面だけでなく、「天照大神―伊勢神宮―天皇(天武系天皇)」のイデオロギーも強力に推進された。そのイデオロギーに寄与することが、「歌で仕えよ」の本意(少なくと本意のひとつ)であった。 理由③=柿本氏は、かつて有力豪族の和珥(わに)氏であったようだ。和珥氏は、応神王朝(第15~25代)、継体天皇(第26代)までは、皇妃を輩出する豪族であった。しかし、その後衰退した。人麻呂は、栄光の和珥氏の伝承から天皇家への親近感が深かったのかも知れない。 理由④=持統天皇の愛人説。完全な創作なのだが、「下級役人ながら歌で地道に仕えていました」だけでは、まるで面白くない。面白くするために、手っ取り早く、男と女のラブゲームに仕立て上げた。
(3)天香久山の歌
持統天皇が天香久山(あまのかぐやま)を詠った。
春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天の香久山(巻1-28)
この歌は、小倉百人一首では、「衣干すてふ」となっています。「てふ」は「と言ふ」がつづまった形で、伝聞です。万葉集では持統天皇は実際に目撃しているのですが、小倉百人一首では伝聞になっている。なぜかな~。どっちがいいのかな~。
それはともかく、持統天皇の歌に続いて、人麻呂の歌が登場している。
天武・持統朝の前は天智天皇の時代であった。天智天皇は都を大和の飛鳥から近江の大津へ遷都した。壬申の乱で天智の息子・大友皇子を滅ぼした天武は、都を飛鳥へ戻した。そして、持統天皇は大和三山(天香久山、畝傍(うねび)山、耳成(みみなし)山)の真ん中に広大な藤原宮を建設した。
柿本人麻呂は荒廃した近江の旧都に立ち寄ってつくった長歌(巻1-29)と反歌(巻1-30)(巻1-31)を詠った。人麻呂の3首の掲載は省略しますが、芸術性を抜きにすれば、一言でいえば「天智天皇は、なんて馬鹿なことをしたのだろう」である。
持統天皇と人麻呂の歌を並べることによって、読者に次のように思わせる意図が見える。持統が「天香久山の麓の藤原宮はいい場所ね」と詠う。そして、人麻呂は、「そうですね、天智天皇は近江の大津なんて変な場所に都をつくられたので」という感じ。繰り返しますが、歌単独の芸術性ではなく、編集者の意図で持統と人麻呂の歌を並べると、「人麻呂の天武・持統ヨイショ」となってしまうのである。
柿本人麻呂の名誉のため、『万葉集』の別の個所に、人麻呂が天香久山を詠った歌がある。「柿本人麻呂が香久山の屍を見て悲しく思ってつくった歌」という前文がある。
草枕 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに(巻3-426)
旅の野宿の歌ではない。香久山の屍を見て、「誰の夫だろうか。故郷を忘れて(横たわっている)、家では妻が待っているだろうに」ということである。単純に読めば、昔の旅は危険がつきもので行き倒れの情景かな、となる。しかし、場所は香久山である。その近辺では巨大な藤原京が建設中である。全国から強化された中央集権国家によって膨大な数の農民が強制的に集められ、強制労働に従事した。そして、大勢の農民が死んだのである。
持統天皇は藤原宮建設を喜び一杯で、天香久山の歌を詠った。しかし、持統に引き出され、持統に大感謝している人麻呂ではあるが、持統と一緒になって単純に喜んではいないのである。
なお、続く(巻3-427~430)は、いずれも挽歌である。(巻3-427)は別人だが、他の3首は人麻呂の歌である。人麻呂の挽歌は他にもたくさんある。宮廷歌人という役目であるため、皇子・皇女が亡くなると、挽歌作成が命じられたのである。
もうひとおつなお……。近江の旧都を詠った歌で、「さすが天才」と思わせる歌がある。
近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしえ)思ほゆ(巻3-266) 「しのに」は、心がしんみりする様子。読者は情景が絵のように浮ぶ。柿本人麻呂の歌の中でも、上位ランクに評価される名歌とされている。
(4)小倉百人一首の人麻呂の歌
和歌の大権威者・藤原定家(1162~1241)が小倉百人一首を選んだ。その3番が柿本人麻呂の歌である。1番が天智天皇、2番が持統天皇、3番が柿本人麻呂、4番が山部赤人……となっている。おおよそ古い順になっている。
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 「あしびきの」は「山」にかかる枕詞で意味がない。「山鳥の尾の しだり尾(下に垂れている尾)の」は、次の「長い」を導き出す序詞で、「長い」を強調するだけです。したがって、直訳は、「長い長い夜を ひとりで寝るんのだなぁ」となる。なんだ~、それだけのことか~。
技巧的には、「の」「の」「の」「の」と4回も「の」が続き、また「の」か、「の」しかない、何もない長い夜をイメージさせる。また、山鳥は一夫一婦の習性で、雄と雌は昼間は一緒にいるが夜は別々にいると信じられている。雄のほうが圧倒的に長い尾を持つ。だから、男の一人寝とわかる。恋人と逢えないで今夜も寂しく寝るんだなぁ~、寂しいなぁ~、寂しいなぁ~、とっても寂しいなぁ~。さらに、イメージを膨らませると、「片思い」へと繋がる。となると、相手は持統女帝か。それはあり得ないので、宮中の采女(うねめ)か……、昔から、「相手の女性は誰だ?」と週刊誌的な関心事であった。なお、采女は豪族が天皇へ献上する美女で、天皇以外の恋は禁止である。
ところで、この歌は『万葉集』では「巻11-2802」の遺伝歌にあるが、「読み人知らず」になっている。それが、『拾遺和歌集』では柿本人麻呂の歌となっている。『拾遺和歌集』は、『古今和歌集』『後撰和歌集』に続く第3番目の勅撰和歌集です。おそらく、柿本人麻呂っぽい歌ということで、そうなったようだ。
藤原定家の時代は、柿本人麻呂の代表作は、「あしびきの……」であったわけですが、「歌は世につれ」で、現代歌人達が選ぶ代表作は、先にあげた「近江の海……」と次の歌です。
東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(巻1-48)
(5)伝説・奇説・異説
死亡した場所を巡って、いろいろある。人麻呂の子孫は岩見国に土着し、鎌倉時代には石見国人の益田氏となっている。そんなことから、岩見国(島根県)のどこか、らしい。 ①島根県益田市に高津柿本神社がある。そこで没したので神社があると言われる。 ②益田市の沖合の鴨島説。鴨島は万寿地震(1026年)で水没した。梅原猛が支持した。 ③石見国へ行く途中、鳥取県安来市の港から出航したが、座礁して沈没し死亡した。場所は仏島説、亀島説。 ④島根県の湯芳温泉の地。斎藤茂吉の説。 ⑤その他。
どこで亡くなっても、いいじゃないか、と思っていたら、梅原猛が『水底の歌―柿本人麻呂論』を発表した。柿本人麻呂は下級役人から高級役人に出世し、政争の結果、鴨島で刑死した、と発表したので話題となった。結局、梅原説は否定された。
柿本人麻呂は、歌聖から、さらに神へと進化し、各地に神社などが建てられた。前述の益田市に高津柿本神社だけでなく、明石市にも柿本神社がある。
中世には、柿本人麻呂の人物画と和歌を掲げると歌が上達するという人麻呂影供(えいぐ)が流行した。 「人麻呂」→「ひとまろ」→「ひとまる」→「火とまる」で防火の神となった。
「人麻呂」→(略)→「人産まる」で安産の神となった。
そこで私も考えた。正岡子規の「柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」に関して。子規は柿が大好物であった。病気持ちなので、好物の柿を必死に食べた。ことわざに「柿が赤くなると医者が青くなる」のように、柿は極めて健康によい。レモンやミカンよりもはるかによい。皮も葉もヘタも滋養に富む。
子規は柿を食うたびに、「健康回復」と「柿本人麻呂を超えてみせる」と念じたのだ。法隆寺は飛鳥の地である。人麻呂が活躍した土地である。鐘の音が聞こえたとき、子規は「自分は柿本人麻呂を食った(超えた)」と自信を持ったのではないか。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。